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誰かの目を通して知ったことを、自分の目で見て確かめてみる

わたしはずーっと、誰かの目を通したコルクラボを、見ていたんじゃないだろうか。

コルクラボに入ったときは、コルクラボにすでに参加していた人たちの目を通して、その存在を知りおもしろさを想像していた。

実際自分が参加してみてからは、楽しそうなあの人のように楽しめていない自分。あの人のように変化できない自分。あの人のようにさらけ出さない自分。

あの人のように、あの人のように……と、ずっと考えていたわたしがいた。

自分が参加している場所だけど、誰かの目を通した楽しみ方や、馴染み方や、自分の身の置き方にとらわれていたのかもしれない。

もちろん、あの人のような関わり方も楽しそうだと憧れたり、周りとのコミュニケーションの取り方を参考にしたりすることは、たくさんあっていいと思う。

でも、誰かと同じ状態を目指す必要はなかったんだ。

誰かが経験したことをなぞってみると、多少は歩きやすいこともあるけど、その道が自分の幅にあっているとも限らない。

自分なりの関わり方や、遊び方が見つからないともやもやするし、周りの楽しそうな声に気が滅入ることもある。
自己嫌悪にも陥るし、なんだよこんなコミュニティ、けっ。てなることもあった。

だから、周りの手を借り、目を借り、足を借りて、少し前に押してもらったり、景色を変えて眺められるような場所を教えてもらうことは、とても大事なことなんだと思う。

だけど、だけど、

それは、誰かと同じ状態を目指すためではないってことを、忘れてはだめだ。


コミュニティの中で、自分の弱いところをさらけ出すことができた時に安心を感じる人もいる。
自分が好きなコンテンツの話をとめどなくできることに、安心を感じる人もいる。
何もしなくてもいいことに安心を感じる人もいる。

誰かの安心を知ることは大切だけど、それは自分の安心とは違うことも知ることは大切だ。

「わたしはどうだろう?」と考えることは大切なのだ。


わたしにとってのコルクラボと、
あの人にとってのコルクラボは、同じに見えて、その価値も意味も違うもの。

違っていていいんだ。


コルクラボが、入る前に想像していた場所とちがっても、その想像は誰かの目を通していたものだったんだから、違っていて当たり前なのかもしれない。


誰かの目を通して知ったことを、自分の目で見て確かめていく。

それは、コルクラボという場所に限らず、本や映画や会社や社会や政治。世界のあらゆることに通じることだ。


自分なりに考えているつもりでも、誰かの意見が混ざることはあるし、影響を受けていると自覚する。

自分だけの考えでも迷い悩むこともあるし、
誰かの声を聞きすぎても、迷い悩む。

混沌としたときは、少しずつ紐解いていく。


あせらずに。




ありがとうございます。ロックンロールと生クリームとマンガと物語に使いながら、自分の中のことばを探っていきまます。