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出納係弥太郎の不安と不眠

一月十三日 「早起、晴。淡雪が山に残っているが、すこぶる穏やかで温かく感じる」と始まるこの日、「西洋製薬之器械」や今井純正の件で人に会ったり会えなかったり、久松寛三郎(久松家当主)を訪問し不遇会えず、その合間に囲碁と句読、夜には酒楼に行くという忙しい一日でした。

 この日の日記で、弥太郎が土佐藩三人組の公金を預かり、出納係をしていたことが明らかになります。中沢寅太郎は、土佐に帰国後「算用官」の精査を受けるのだから、「余程精密に」記帳すべきだと言います。ところが上司の下許武兵衛の返答は、「そんな細かいことはやらん、帰った後に(算用)官からヤカマシく言われたら、ワシが指図したと言っておけ」

しからば宜敷よろしく御頼み申上げそうろうよう申し置く(じゃあ、帰国後にちゃんと責任取ってくださいよ)」と、紋切り型の丁寧口調で弥太郎は記し、険悪な空気になったことが察せられます。

 上に「この日……出納係をしていたことが明らかに」と記しましたが、これは「瓊浦日録」を読む限りでは、そうらしいと推測できる記述はあっても確かではなかったからです。もう一つの日記「征西雑録」には、弥太郎が土佐を出る際に公金を預かり、長崎来着後、下許の遊興費を公金の会計にすることについてやりとりをする場面があります。

 この日、下許が「浪華」に御用状(公文書)を持参するための費用を弥太郎は細かく記しています(会計に関する記述はこれ以前には少なく、この後多くなります)。朝は晴れていたのに、夜には雨が激しくなります。

明かりを灯して蘇文(蘇軾の文章)を読む。甚だしく温かい。(故郷に)帰りたい思いで寂しくてたまらない。深夜になり、神気(神経)を少し休ませたくなった。布団をかぶって倒れ臥した。しばらくして眠りに入りそうになったものの、終夜はなはだしく不眠。余は怠けの情態である。汝、故国(土佐)の両親に申し訳なく思わないのか。

 故郷に帰りたい思い、両親への配慮は、日記の初めから書かれていました。この後も、出て来ます。一方、「神気」について記したのはこの日が初めてすが、弥太郎はこの先何度も自らの内面について記します。不眠や夢の記述も同様。こうした内的な不安を文章に表現した人は、この時代に他にいたでしょうか? 情報を求めたいところです。

 この日、下許が出かけた「浪華」は、丸山町の遊女屋「浪花屋」だと思われます。下許は当たり前のように遊郭に公文書を持参し、遊女屋の費用を公金で支払おうとしていますし、弥太郎もそのことに疑念を持ちません。どういうことなのでしょう? ここには長崎丸山という遊郭の、公的な社交の場としての特殊な性質が現れているのかもしれません。この点については、後でさらに考察します→下のリンクを参照(1月29日記す)。


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