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私の生まれ育った、大事な家。

家に友達を呼ぶ時、恥ずかしかった思い出がある。

私の生まれ育った家は、木造建のアパート。3DK。今や築30年を超えている。
父、母、兄、私の4人家族で暮らしていたけれど、私と兄が中学生になる頃には、それはそれは狭い空間になっていた。

私の周りの友人たちは、みんな立派なマンションや一軒家に住んでいて、幼稚園くらいには同じようにアパートに住んでいる友達もいたけれど、そのうちに大きな素敵な一軒家に引っ越して行った。

私は幼い頃から大型犬と暮らすことを夢見ていた。小学校1年生の頃に、父から言われた「もう少しで大きい家に引っ越すからな〜!」という言葉を健気に信じ、生きてきた。しかし20年以上経つ今も、引越しはせず父母はずっと同じアパートに住んでいる。

自分の部屋が欲しくてたまらなくなった時がある。兄と私の部屋になっていた4.5畳の部屋に、「こんな風にまた新たに部屋を作って!」と間取り図を作成して父に力説したことがある。父は笑って「これは無理だな」と言ったけれど、その代わりに兄と私の勉強机の間に、立派な仕切りを作ってくれた。自分のベッドが欲しいといえば、勉強机の上の空間に、なんとかベットを2つ作ってくれていた。
4.5畳の空間に、兄と私の勉強机2つと、ベッドが2つある空間は、子供にとっては秘密基地のようで、とても気に入っていた。

いよいよ兄とも別の部屋になりたくなると、今度は父母の寝室に私の部屋を移動させてもらった。6畳の半分の空間に、私の勉強机とベッドが移動した。自分のスペースを3畳もらえた! しかも窓もある。明るい! と、当時はとても満足していた。
ただ、夜は父母と寝ることとなるため、父のいびきに耐えきれず、何度「うるさい!寝れない!起きろ!」と言ったことか。
これはさすがにストレスだった。
兄と使っていた4.5畳の部屋は兄の一人部屋になり(!)、夜寝るときは兄を羨ましく思いながら、気づけば眠りについているという日々だった。

思い返すと、どんどん子供たちが父母のスペースに侵略していたなと感じ、申し訳なかったな…と今は思う。だが当時は、ならばもっと広い家に引っ越してくれと生意気にも思っていた。とはいえ、こんな狭く不満しか出てこない家でも、私にとってどこよりも落ち着く空間だったし、言葉にしたことはなかったけど、大好きだったのだ。

高校1年生の時、やや仲よくしていた友達4~5人が、どういったわけか私の家に来ることになった。なぜ呼ぶことになったのかは今でも思い出せないが、この時に、強烈に思ったのだ。

この家に友達を呼ぶことが恥ずかしい、と。

それならば呼ばなければよいのに、一度言ったことを引っ込めるのがなかなか難しい性格のため、結局そのまま呼ぶこととなった。
友人が家に来ることを父母に伝えた時、この感情がダダ漏れていたのだろう、母は必死に至るところを掃除してくれた。そして父はお手製のミートソースを作ってくれた。
友人たちが家に来た当日、みんなでミートソースをお腹いっぱい食べ、他愛もないことをおしゃべりして過ごした。帰り際、「居心地がよいね」「ミートソース美味しいね」と言ってみんなは去って行ったが、私はずっと居心地が悪かった。褒めるところがないからそう言っているんだ、と卑屈に思っていた。その一方で家族みんなで大事に住んでいる家を悪く言われたら…と一番この家を貶していた自分が、一番怯えてもいたのだ。

この時のことは、これまで何度も思い返してきた。
ただ、思い返す度に、友人達とどう過ごしたかとか、自分がその時何を感じていたのかよりも、父母の行動に涙が出てくるのである。
父母が一生懸命働いて住ませてくれている家を恥ずかしいと思ったことにも、腰が痛いと言いながらいつもは絶対掃除しないところまで一生懸命拭き上げていた母の後ろ姿にも、申し訳なさと後悔が湧いてきて、涙が湧いてくる。

人に自慢したいために家に住むのではない。誇るために家に住むのでもない。自分たちが居心地よく、思い出を重ねながら、豊かに工夫しながら暮らせたらそれで十分だなと、今はそう思う。

兄と私はいよいよ大人になって、それぞれ一人暮らしを始めた。
父母は2人きりになって、広くなった部屋を、なんだか楽しそうに工夫しながら過ごしている。(この前はランプシェードを手作りしていた。嘘だろと思った。)

父母が、これからも安心して暮らせる家でありますように。
今はこれだけの願いで十分だなと感じる。

(そんなことを言いつつ、こう思えたのは最近の話のため、一人暮らしに人一倍憧れていた私の失敗談と現在については、またいつか書きたい。)


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