「死」をめぐる思考の遍歴

1. 子どもの頃  あの世から迎えがくるのは本当か?


 少しだけ物心がついた子どものころ、老人を見ていつも思うことがありました。それは、「やがて私もあのように歳を取って、そして死んだらその後はどうなるのだろう」ということでした。「歳を取ることは、次第に死に近づくことであり、老人は自分が死んでいくことをどう思っているのだろうか。怖くないのだろうか」と子どもながらにも思ったのでした。
 
 『小学〇年生』という月刊の雑誌をある日読んでいると、小学生の読者が「自分は死ぬのが怖い。どうしたら良いのでしょうか?」という、子どもの人生相談へ投稿がありました。その答えとして、「歳を取るとだんだん死ぬのが怖くなくなります。だからその心配もやがて消えていきます」との趣旨の内容が書かれていました。「本当にそうだろうか?」私は子どもながらにも納得ができませんでした。
 
 またある日、老人が「もうそろそろ、わしの所にもあの世からお迎えが来るじゃろうな」と老人仲間に話していました。かぐや姫のような童話ならともかく、そんな使者が本当に来るとは私には信じられませんでした。

2. 高校生の頃  中島敦『山月記』


 高校生になって、ある日のことでした。国語の時間で中島敦の『山月記』を読みました。少し漢文調で読みにくかったのですが、内容が分かった時、まるで雷が私の体に落ちたように、体全身を高圧電流が流れるようなショックを受けました。
 
 この小説は主人公の李徴が虎の姿になり、次第に人間の意識が薄れていき、最後には心身ともに、完全な虎になるという内容でした。この小説の中で、李徴は自身の「人間としての意識」が日ごとに無くなることに対して、例えようもない恐怖を感じることを述べていました。「そうなんだ、死ぬことへの恐怖心とは、李徴が恐怖を感じたように、まさに人間である証として存在している自分の意識そのものが、すっかり消えて跡形も無くなってしまうことなのだろう。だから、私は自分が死んで意識が無くなることに恐怖心を抱くのだろう。」と思いました。「だから我々は死んでしまっても、魂だけは消滅することなく永続的に残り続ける。つまり、体は朽ち果てても、意識だけは残ると我々は信じていたいのだろう。」と納得しました。
 
 正確に述べると、このようにこの時の衝撃を説明できるようになったのは、二十年以上も経って、苧阪直行『意識とは何か』など意識についての本を読んだ後になってからです。

 また、死ぬことを「眠り」に例えることがありますが、「明日は目が覚めるだろう。」と眠りに入る時に確信しているから、安心して眠ることができるのであって、「眠ってしまえば、このまま死んでしまうだろう。」と思えば、とても怖くて一睡もできないでしょう。
『山月記』から、死ぬことの恐怖の本質が自分なりに少し分かったとは言え、死ぬことが怖いことに変わりはありませんでした。
 

3. 30台の頃
3.1  キューブラ・ロス「死ぬ瞬間」


 三十台になったころ、キューブラ・ロスの『死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話』という本に出合いました。医師である著者は、この本の中で末期疾患の患者が、どのような心理的なプロセスを取って、死んでいくのかを医師の視点から克明に記録していました。

 多くの患者は、否認(私がそんな病気であるはずがない。)から始まります。そして、いくつかの心理的なプロセスを経て、患者はいよいよ最後になると、「受容」という達観したような精神状態になり、穏やかな心境になって亡くなっていきます。このことを、この本は数多くの臨床例に基づき説明しています。以上のことから、いよいよ死の直前になったら、我々は穏やかな心理状態になることを知りました。これで少しですが「死の恐怖」から救われたような気持になりました。
 

3.2  立花隆「臨死体験」



 その後、立花隆『臨死体験』を読んで、死の直前には多くの人が、「三途の川」を見たり、神や仏の姿を見たり、既に亡くなった人に出会うなど、神秘的な体験をすることを知りました。このことから、「お迎えの使者が死にかけた人に来る。」ということは、人々を騙すでたらめな話ではなく、臨死体験をした人が語る真実の話であることが分かりました。

 この『臨死体験』の本から、人が死ぬときは、恐怖のただ中で苦しみ悶えながら死んでいくわけではないことが分かり、また少し安堵しました。
 それでも、日常ふとしたことから、「自分が死ぬことって、それは自分にとって、どうなることなのだろうか。」と思います。亡くなってしまえば、今こうして心配している、まさにこの意識そのものが無くなることであり、何とも言いようのない恐怖心が湧いてきます。この恐怖心は『山月記』の思い出と共に今も鮮明に甦ります。
 

4 近年になって

4.1   脳で見えるものは錯覚でしかないのか?
  前野隆司『錯覚する脳』

 
 今まで述べてきたことを長年思ってきたのですが、昨年になって前野隆司『錯覚する脳』を読んで驚きました。私たちが「おいしい」とか「痛いとか」感じる感覚、それらはすべて「錯覚」であるというのです。つまり、これらの感覚も含め心も、これらはすべて脳が作り上げた「錯覚」であると述べてありました。まるで狐にでも化かされたような気持になりました。

   しかし、我々が見たり、聞いたり、感じたりすることはすべて脳内の神経脳細胞が起こす電気的な活動にしかすぎません。そうであるなら、何か実体があるから、感じたり考えたりするのではなく、脳内で神経細胞が何かの刺激を受けると、勝手に作りだす「錯覚」であると言われれば、そうであるのかも知れません。まるで、映画「マトリックス」の世界のようです。

 私がそれまで信じてきた常識的な考えとは大変かけ離れており、上手な詭弁で騙されたような気持にすらなります。しかし、脳科学の世界では、この「錯覚」は驚くほどのことではないようです。

   しかし、感覚や心が前野隆司氏が述べるように、「幻想」であったとしても、それらは「存在していない」と断定することは私にはできません。
 

4.2 世の中すべての存在物は「空」である
  「般若心経」の世界


 
 この「感覚はすべて幻想である。」という、驚きの世界観に対し、さらに追い打ちをかけ私を驚愕させたのが、NHKテレビの「100分de名著」佐々木閑『般若心経』でした。私の家系は真言宗の檀家であり、『般若心経』は子どものころから、お盆や法事で僧侶が読み上げる経典であることは知っていました。

 しかし、この経典の内容は一度も考えたことはありませんでした。ところがこの番組とその本から、この経典の神髄は「世の中のすべての物は、「空」であり、永続的に存在する実体というものは何もない。」というものでした。『般若心経』は『ダンマパダ』のようにブッダ(釈迦)自身が説いた教えでありません。ブッダの死後、数百年以上も経って経典の一つとして編集されたものです。インドから数々の経典を持ち帰った三蔵法師が翻訳した経典の一つとして知られています。

   この経典の内容に従えば、「我々が感じたり、考えたりすることをはじめ、我々自身の存在もすべて「空」であり、永続的な実体としては存在していないのである。それらはすべて「空」であるから、それ故に何も心配したり、恐れることも無いのである。」ということになると思います。

 しかし、世界のすべてが「空」であるから、不安や心配が無くなるとは、私は思うことができません。
 
 ブッダ(釈迦)自身は「物事に執着するから、不安や心配をするようになるのである。」との趣旨を人々に説いたと言われています。自分の所有物だけでなく、自分が生きていることに対する執着も捨て、「諸行無常」「諸法無我」(注)の境地に立って、刻々と変化する今を、あるがままに認めて生きていけば、不安は無くなり、死に対する恐怖心も無くなり、平穏な精神状態になるのでしょう。そして、ブッダ(釈迦)が説いたように、悟りを開けば、生まれ変わり死に変わる「輪廻」から脱して、永遠に安寧な「涅槃」の世界に行くことができるのでしょうか。

 残念ながら、私は「輪廻」があるとも、「涅槃」の世界があるとも信じられません。
 

5. 現代科学と認識論から考える


 現代の自然科学は、脳科学の視点やマルチェロ・マッスィーニジュリオ・トノーニなどが提唱する「情報統合理論」などから人間の意識の問題までも解明しようとしています。しかし、どんなに自然科学が意識を解明しても、かつて哲学者が発した本質的な疑問を超えることはできません。それは、どんなに自然科学が発達しても、事実を事実として、あらゆる事柄を最終的に確認するのは生身の人間であり、我々の身体性に依存しています。そして、どんな優秀なAI使っても、観測できることは限られています。つまり眼前に現れる現象を確認することにしかにすぎません。

 「それならAIにすべて確認してもらえば良い」と言われそうですが、そのAIの報告を事実として確認するのは生身の人間です。結局、この問題は認識論になり、自然科学では解決できそうにありません。
 

6. 結論: そして最後に分からない
  私は悟りは開けない


 
 今まで、自分自身がやがて死ぬことについて、どう考え受け止めたらよいのか、長年の間自分なりに考えてきました。しかし、私は依然として分かりません。おそらく死ぬまで分からないでしょう。私の生きることへの執着と、死に対する恐怖心は、到底解決しそうにはありません。残念ですが、どうやら、私は一生悟ることなどできない煩悩だらけの人間のようです。
 
 

(注)インターネットの辞典「ウィキペディア」より引用



「諸行無常」:この現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないこと
「諸法無我」:全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないこと
「因縁」:サンスクリット語の Nidana に由来し「原因、動機づけ、機会」といった意味合い
 

参考文献


 苧阪直行(1996).『意識とは何か』岩波書店
 キューブラ・ロス(1971)『死ぬ瞬間―死にゆく人々との対話』読売新聞社
 立花隆( 2000)『臨死体験』文芸春秋
 佐々木閑(2013).『100de名著 般若心経』NHK
 マルチェッロ・マッスィーミ&ジュリオ・トノーニ(2015).『意識はいつ生まれるのか』 亜紀書房

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