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「自動翻訳機があるから、英語の勉強は全員がする必要はない」英語の先生、どう反論しますか?

 

1. 携帯型の自動翻訳機の登場


  
  最近になって、大変優れた携帯型の翻訳機が発売されている。英語だけでなく数十ケ国の言語を相互に、自動翻訳できる。文字から文字への翻訳はもちろんのこと、日本語の音声から外国語の音声へ、またその逆も翻訳機に話しかけるだけで、瞬時に翻訳してくれる。

 実際手に取って試したのでないので断定はできない。しかし、すでに4年ほど前のことになるが、東南アジアに商談で行った私の知人から聞いた話によれば、ホテル等などでの会話はもちろんのこと、商談するのに翻訳機の翻訳で困ることはほとんど無かったとのことだった。商品についての説明の時、専門的なことで少し困った程度であったとのことだった。10年近く前だったろうか、実用書や技術系の本であれば、文字のレベルでは自動翻機で翻訳をした書籍と、一流の翻訳家のした翻訳と区別がつかないほどのレベルに達したとのニュースを聞いたことがある。もうすでに、専門的な会議ですら自動翻機の翻訳で対応が可能になってきているのではないだろうか。

 2020年からは小学校から正式に英語教育が導入され、小学校の先生方は国語・算数・理科・社会に加え英語まで教えるようになって、大変忙しくされているだろうと推察される。しかし、素朴な疑問を挙げれば「音声から音声への自動翻訳機ができた今、果たして必死になって、全員が英語を学ぶ必要があるのだろうか?」ということである。

 海外旅行に行ったり、外国に行って商談したりするために英会話学校に行って勉強した人も数多くいただろう。しかし、小型の自動翻訳機を持っていけば会話や商談に困ることはないなら、「敢えて英語を勉強する必要があるのか?」という疑問が出てくる。

 自動翻訳機を介しての会話であれば、英語を実際に話すよりは多少時間が多めにかかるであろう。しかし、それは大した問題ではない。通訳を介して会話や商談をすることを思えば時間は相当短縮できる。

 もちろん英語に限らず、様々な外国語を勉強して実際の場面で使えるようになりたい人はいるだろう。そんな人はどんどん勉強すれば良いだろう。しかし、それ以外の人で、「自分は自動翻訳機の翻訳で十分と思える人」にとっては、時間と費用をかけて学ぶ必要があるのだろうか?

 もし学校で、児童や生徒が「先生、自動翻訳機ができたのに、どうして英語を全員勉強しなければいけないのですか?選択科目にして、勉強したい人だけすれば良いのではないですか?」と聞かれたら、英語の教師はなんとこたえるだろうか。

2. 英語教師の反論


 英語の教師であれば、児童・生徒の全員が英語を学ぶ意義として、次のような例を挙げるかもしれない。英語特有の表現として、無生物主語の表現がある。例えば、The heavy rain prevented me from going out yesterday.(「昨日、大雨が私の外出を妨げた」⇒つまり、「昨日、大雨のために私は外出できなかった」)英語の教員であれば、「このような発想の違いを学ぶには、外国語を学ばないと分からない。」というかも知れない。確かに、このような発想の違いなどを理解するためには、英語に限らず外国語の勉強は役に立つ。

 しかし、一般の人にとっては、「それが分かったからと言って、どれ程の価値があるのか?」との疑問が出てくるであろう。

3. 他の教科の立場から



 先ほどの発想のことを言うなら、例えば数学で統計を少し勉強すればどんなことが分かるだろうか。例えば、期末試験のクラスの平均点が55.4点だったとしよう。そして、自分は57点であった。「自分はクラスの真ん中よりは成績が良い」とその生徒は思うかも知れない。しかし、これは必ずしも正しくない。そのクラスで極端に点数の悪い生徒が2名いたとしよう。そうすると平均点は真ん中の点数(中央値)より悪くなる。

 さらに別の例を出そう。1組は平均点が55.4点、2組は56.3点であった。この場合は全体として2組の成績が良いと言えるだろうか?統計によれば、必ずしもそうとも言えない。(その理由の説明は省略する。一言述べれば「標準偏差」などを比較する必要がある。)

 このように統計を少し知るだけで、平均点が必ずしも真ん中の点数ではないことを知る。統計を少しでも知ったか知らないで、世の中にあふれるいろんな数字の意味がまるで違って見えるだろう。このように、物事を多方面から深く考えるためであれば、どの勉強をしたからと言って優劣はつけがたいであろう。そうであれば、優秀な自動翻訳機がある中で、児童や生徒全員に、強制的に敢えて外国語(特に英語)を膨大な時間をかけて教える必要がどうしてあるのかという質問は、英語の教師にとって答えにくい。

4 敢えて、少し英語教師の味方をしてみる


 ここで、英語の教員の味方を少しする。私は次の2点を挙げてみる。
第1点は、文化によって話の進め方が異なる点である。英語ではよく結論を先に述べて、その後で理由を述べる言い方をする。一方日本語では、大事な話は長々と状況を説明した後で、ようやく結論を最後に述べる。英語の方式に慣れた人は、「早く結論を言え」といらいらしながら聞くことになる。

 しかし、これは結論を先に言うように、会議で議長が促せば改善はかなりできるであろう。したがって、英語を特に勉強する理由としては弱い。

 もう1点は、言語によって物事の認識の仕方の違いがあることを学ぶことが出来ることが、外国語の勉強は他の勉強とは違うのではないかといる反論が考えられる。

 例えば、日本語では「湯」と「水」を別のカテゴリーとして認識する。しかし英語では「湯」は’hot water(熱い水)’のように言う。つまり「湯」も熱いだけで「水」というカテゴリーであることには変わらないのである。
 しかし、「これも大した問題ではない」と言われるだろう。

 もう一つ例を出せば英語では現在完了形という用法があり、過去形と意味がどう違うのか、学習者にとって分かりにくい。例えばHe has gone thereとHe went thereとの違いが、なかなかピンとこない。He has gone thereと言えば、「彼はそこに行ってしまい、今はここにはいない。」ということで「今」がどうなっているかを表している。ところがHe went thereは「彼がそこに行った」という過去の事実だけを表しており、現在のことは何も分からない。つまり現在完了形は過去の事実を述べながらも、現在がどうであるかを表している。結論を述べれば、現在の状態を過去の経緯を含めて述べているのか、それとも過去の事実だけを述べているのかという違いである。ある行為を時間軸の中で、どのように捉えるのか(どのように認識するか)で表現形式が変わるのである。

 しかし、これだった「そんなこと、別に大したことではない」と言われればそれまでである。翻訳機械を使うと「認識の仕方の違い」に気が付かず、誤解を生じることがないかという疑問である。しかし、そんな誤解などほとんど生じることはないとすれば、それにより会話や商談はもちろん議論も自動翻訳機で十分であると考える人もいるだろう。

 読者の皆さんは、「自動翻訳機があるので、児童・生徒全員が強制的に英語を学ぶ必要がない」とする考えに、賛成ですか、反対ですか?

 そして最後に英語教師にお願いします。この素朴な質問に対して、「英語の教師の仕事がなくなったらいけないので、児童・生徒全員に勉強させなければならない」とは言わないでください。


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