数字さえあれば偉いのか

例えば《お金を稼げるヤツが偉い》という価値観を持っている人がいるとしよう。
この場合確かに本人がお金を持っている間は幸せだろうが、いざお金が無くなると一気にその価値観に首を絞められる。《YouTubeのチャンネル登録者が多ければ偉い》という価値観も同じだ。その価値観に縛られるのは…愚かとまでは言わないけど、あまりに価値観が強過ぎると視野狭窄に陥りそうだ。

なんというか僕はその時代の技術を利用すること自体に価値があるというか、システムに乗っかること自体に価値があると思っている。
学校や勉強という教育システムに乗っかること自体に価値がある。その結果不登校になろうが、クラスの人気者になろうが、全国成績トップになろうが、全ては向き合った結果であり、システムの上に乗っていると思う。
《ゲームから除外》という名のゲーム内システム、みたいな感じ。
スマホやネットという技術があるなら、それに触れただけで向き合っている。そして好きになるのも嫌いになるのも向き合った結果であり、そこに優劣はない。

もっと言うと《この世界に生きていること》自体が《向き合っている》ということなのだ。たとえどんな状態でも。
ホームレスやニートですら、資本主義社会というレールに向き合った結果なのだから。

数字がある人間も、金がある人間も、無い人間も、等しくこの世界に向き合っている。
適応できているかいないかの差はあるだろうが、それに優劣はない。

価値観が違うだけだ。
前述したが、《金がある人間は偉い》という価値観になると、善悪の基準が所持金になる。
物語でいうと主人公や悪役、そしてモブだ。
ユニクロの社長が主人公で、大多数の国民がモブ。
ホームレスが悪役だ。

しかしこの世界にモブはいない。モブがいると思うと本質を見失う。なにより勘違いも甚だしい。
YouTubeでチャンネル登録者が少ない人でも、面白い人は沢山いる。そして物事をよく考えたりしている。

金を稼いでいる人からすると、その他の低収入人間はモブに見えたり、悪役に見えたりするのだろうが、その価値観だけで皆が生きているわけではない。この世界の住人は、金を稼いでいる人を中心にしたモブではないからだ。

ひとつの価値観に染まらない方法はただひとつ。
様々なコミュニティに所属することだ。
学校だけでは《テストの点数が全て》という風になりがちだが、スラム街や戦争区域などに属せば、他の価値観も知れる。そこでは学歴も金も《偉さ》にはならなかったりする。

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