見出し画像

知るというのは不幸

「井の中の蛙大海を知らず」ということわざは《無知である愚かさ》を説いたことわざだ。
しかしこのことわざには続きがある。
《されども空の青さを知る》

僕の解釈だが「なんだかんだ幸せには生きられる」という意味ではないかと。
大海だろうが井戸の中だろうが空は見れる。まあ広さは違うだろうが。

大海があるということは事実でも、別にその事実を知らないで井戸の中でぬくぬくやっていても生きていける。

知らぬが仏ということわざもある。「知らない方が穏やかでいられる」ということだ。

人は比べるから不幸になるが、比べる前に比べる対象を知るという始まりがある。
人は《知る》から不幸になる
上には上がいると知った瞬間が代表的だ。
SNSのフォロワー数、いいね数や学歴の差、収入の差や才能の差があるのは事実だが、知らなければ本人からすると存在しないものなのだ。
それまでは単純に自分のいいね数で満足していたが、周りに自分よりいいねを貰っている人間を見ると、途端に自分のいいね数に価値が見いだせなくなる。
ピアノがクラス内でいちばん上手いとする。本人は《自分はピアノが得意》という自分自身に存在意義や存在価値を自分に見出すだろう。しかし全国のコンクールなどに行くと、自分より上手い人がゴロゴロいるのを目の当たりにする。途端に《自分はピアノが得意》という存在価値を失う。コンクールに行って自分より上手い人を知らなければ、自分への価値感情や自信は無くならなかったのに。

宇宙の誕生には原因があるが、知っている人間はいないので、存在していないも同然である。人間は人間である限り、主観の世界を生きている。
生まれたての子供は無知だ。賢くはない。しかし無知ゆえの幸せがある。
成長する事に、様々な価値観や善し悪しを刷り込まれて、何だか色々考えてしまう。
最終的には大海を知り身の程を弁えてしまう。
ネットがそれを加速させた。
先ほど書いたピアノの上手さは、昔ならばコンクールに行くことで身の程を《知る》ことになった。それなりの労力と時間をかけないと、知る機会はなかった。
井の中の蛙が大海を知るには、実際に自分で川を渡り、長い時間をかけて泳ぐ必要があったということだ。でも現状で満足しているならば、わざわざそんな労力をかけることはしない。
しかし今はネットが労力と時間のハードルを大きく下げた。YouTubeでちょろっと調べるだけで大海を知れるのだ。


自分ひとりの(無人島のような)世界なら、そうやって自尊心が削られるような体験はしない。

ブータンの幸福度が下がったのはそれが原因だそうだ。
まさに井の中の蛙が大海を知った前後の世界だ。
一度《知る》と、忘れることが出来ないのもまた苦痛ポイントだ。ブータンの幸福度はもう戻らない。
自動車社会がそうだ。一度自動車が普及すれば、いくら事故死する人間が出ても、廃止して飛脚時代に戻ることはできない。
センチネル島にいる人々はまだ幸せだと思う(島内の格差で幸不幸があるのかもしれないが)。
しかし一度自動車やネットを知ると抵抗をやめて開国(開島)するだろう。そして不幸になっていく。

知る不幸

彼女の寝取られ、推しのスキャンダル。公務員の汚職。経営者の搾取。自分への陰口、ネットの誹謗中傷。食品の添加物や食肉の屠殺解体。世界各地の戦争。そして宇宙の誕生…。

ネットが普及して、一般市民でも知れることが増えた。
現代人が1日に触れる情報は、江戸時代の一生分だと言うような説も聞いたことがある。

しかし、知ると幸せになるどころか不幸になる真実ばかりだ。
宇宙の誕生もそうだが、よくよく考えて、知ったところで意味ないだろう。
でも人間は知りたいので、求めてしまうようだ。僕も知りたい。不幸になるかもしれないけど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?