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ノルウェイの森①—グレート・ギャッツビーとハツミさん—


はじめに


これから、何回かに分けて村上春樹の『ノルウェイの森』について書こうとおもいます。

村上春樹は中学の頃に『1Q84』『ダンス・ダンス・ダンス』、そして『スプートニクの恋人』を読んでいました。
それからかなり時を経て、大学2年生のはじめに出会ったのがこの『ノルウェイの森』です。はじめてこの本を読んだ時は、まるで頭を掴まれて水面に引き込まれたような心地がして、我を忘れていっき読みました。
中学時代、村上春樹にはお洒落でクリアな視界にさせてくれる清涼剤のようななイメージを持っており、人生に密接に関わるタイプの作家でないと思っていたのですが、『ノルウェイの森』は特別で、既に7回は通して読み返し、そのたびにところ構わず涙してしまうほどです。

この作品の登場人物はみな欠点だらけで、私が心から好きになれた登場人物は結局「ミドリ」とその父親だけでした。その2人についても今後ゆっくり書きたいと思います。

今回書くのは物語中盤でワタナベトオルと作品全体を「一段上に」引っ張り上げてくれた「永沢さん」と「ハツミさん」のカップルについて、そして恋愛がしばしば引き起こす悲劇についてです。



1. 『グレート・ギャッツビー』


1.1 グレート・ギャッツビーとは


なぜこのアメリカ文学の傑作が、永沢とハツミさんに深く関わるのか。
それは『ノルウェイの森』の主人公ワタナベトオルと、永沢との出会いにある。
ある日ワタナベが『グレート・ギャッツビー』を読んでいると同じ寮の永沢が現れ、「『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と言い、2人は友人になった、というエピソードがある。

このように本の中で紹介される実在の本というのは、往々にしてその作者から与えられた「課題図書」であると私は思っている。
そしてこの本は永沢とその恋人であるハツミさんとの関係を考えるために欠かせないものであると判断したため、買ったまま読むことを怠っていた『グレート・ギャッツビー』に手をつけることにした。

私はもちろん文学に精通しているとは言えないが、何冊か海外文学を読むとヨーロッパ圏の文学と比べてアメリカ文学の名作は、どうしてこんなに読みづらいのだろうと思うことがよくある。
まるで血の通っていないような淡々とした語り口と、〇〇エーカー、〇〇フィートなどの見慣れない単位や固有名詞、地名の乱用が相まってそうさせるのだろうか。文体はヨーロッパ文学や日本の古典よりも遥かに優しく口語的なのに、語られている文化や単語にまるで馴染みがないのである。
そしてそれらの単語に気を取られているうちに実は重大な事件がすでに起こっていて、何が起きていたのかを戻って読み返さなければならないのも多々あることだ。
『グレート・ギャッツビー』もそうしたアメリカ的文学の筆頭といえるような書き方で、一部から「読みづらい」といわれる春樹作品もこれに比べれば圧倒的に優しい。
私は恥ずかしながら初見でなんの情報も得られなかった。しかし二、三度読み返すうちに、この物語が持つ独特の情緒に心を揺り動かされるようになる。

『グレート・ギャッツビー』のあらすじは以下のとおりである。

ジェイ・ギャツビーの大邸宅ではいつも盛大なパーティーが催されていた。
隣に引っ越した主人公のニックは、ギャツビーが5年もの間、かつての恋人デイジーへの想いを断ち切れないでいることを知る。しかし、デイジーはトムという男と結婚していた。トムとデイジー家の対岸に邸宅を構え毎夜パーティーを催しているのも、彼女がいつか現れるのを待っているからだというのだ。
 ギャツビーに頼み込まれ、ニックはふたりの仲を取り持つ。ふたりは5年ぶりの再会を果たし、距離を縮めていく。

し、ある時デイジーは夫トムの愛人を事故で轢き殺してしまう。その犯人とされたギャッツビーは死亡した愛人の夫に射殺されてしまう。
 ギャツビーの死後、ニックはさまざまな人に連絡を取ったが、葬儀に参列したのはギャツビーの父とニック、パーティーの客1人であり、デイジーの姿もそこになかった。


1.2 ギャッツビーとデイジー


もし彼女の心を動かせるなら、金色の帽子だってかぶればいい
もし高く跳べるのなら、彼女のために跳んだらいい
「ああ、金色帽子で高く跳んでくれる人が好き。そういう人でないとだめ!」と彼女に叫ばせるまで
──トーマス・パーク・ダンヴィリエ

『グレート・ギャッツビー』冒頭の引用


ギャッツビーという男はたゆまぬ努力によって、俗世間における成功を掴んだ。そして元恋人であったデイジーに復縁をせまる。
おそらくデイジーと会えなかった5年間の間に、ギャッツビーは記憶の中の彼女を美化し続けたのだろう。それが主人公にデイジーとの思い出を語る際の語り口に存分に現れている。曰く、「星を音叉でたたいた運命の響きを、念には念を入れて聞いてみた。そうしておいてキスをした。唇がふれた瞬間、デイジーは花になって咲いた。もはや夢の化身である」
作者スコット・フィッツジェラルドの甘やかで幻想的な描き口が非常に良く現れた、美しい描写である。

しかし、デイジーの親戚関係にあたる主人公には、デイジーはただ非常に美しく、金銭的に恵まれているというだけ(だけ、といってもものすごい特権だ) の俗物に見える。デイジーだけではない。その夫となった金持ちのトムも、ギャッツビーの富だけに群がる人々も、あくせく働く庶民階級の上に超然としているようでその実内容がない。

ギャッツビーからの打ち明け話を聞いた後、主人公ニックは彼にこう叫んだ。この作品を象徴するような名言である。

「あいつら、腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。「あんた一人でも、あいつら全部引っくるめたのと、いい勝負だ。

『グレート・ギャッツビー』


2.永沢さんとハツミさん

2.1  2人について


次に『ノルウェイの森』にうつる。
まず、ワタナベと『グレート・ギャッツビー』をきっかけに友人となった永沢という男だが、彼は実家が大きな病院を経営し、兄弟も含めて東京大学に進学した生粋のエリートである。おまけに容貌も良く話術の才能もあるので異性に困ったことがない。
しかも永沢は現状に満足せず、常に上へ進み続ける性格である。それは外務省へ就職が決まってすぐにスペイン語の習得に励む部分によく表れている。

ギャッツビーの死後、彼の父親が見せた厳しいスケジュール管理の紙を見れば、永沢との成功に対する態度と非常に似ている。
『課題図書』にするだけあって、永沢の人物像のモデルにギャッツビーが含まれるのは間違いないだろう。

ところが、永沢は恋愛に関してはギャッツビーと真逆で、全くの俗物であるのだ。ハツミさんという恋人を持ちながら毎晩のようにバーに繰り出し、そこで出会った女性とその場限りの関係を持つ。
興味深いのは、永沢は社会に対しても女性に対しても彼は一貫したやり方で成功しているという点だ。つまり、成功を掴み取れる機会があれば見逃さず、何事も自分の能力を試すゲームだと捉えている。

一方、永沢の恋人ハツミさんはとても一途な女性である。
彼女は「ハッと人目を引くような美人ではない」が、とても感じがよく、知性と気品に溢れている。大変裕福で上流の家庭で育ったことがそこかしこに伺える、ワタナベにとっても憧れの人物だ。
ハツミさんは永沢の女遊びを咎めたことは一度もなかった。しかし、いつか永沢と結婚し、彼に自分だけを見てもらうことを夢みていた。
私は『グレート・ギャッツビー』を読んだ後、ギャッツビーを下敷きにした人物はもう1人いたのではないかと推測した。それがハツミさんである。

ギャッツビーは俗世間での成功と純真すぎる恋愛という二面を持ち合わせていた。もしかするとハツミさんと永沢はその一部分ずつを投影された、ギャッツビーの矛盾を外面化したようなカップルなのではないだろうか。

2.2  恋愛の期待、という足枷


ハツミさんの純愛は、デイジーに対するギャッツビーの愛のように、見当違いの相手に寄せられていた。
デイジーや永沢はきっと、自分の財産や才覚以上に誰かを愛することが困難な人物であったと考える。彼ら彼女らにとって他者とは自らを飾り立てるための装飾品や踏み台でしかない。そのような人物に「いつか自分だけを見てほしい」と願うことは、恋愛という美名を与えられた自分と相手にたいする足枷ではなかっただろうか。

永沢の就職祝いの食事において、ハツミさんは永沢と恋愛観について口論になり、彼と帰らずにワタナベとタクシーに乗った。隣に座った彼女の姿を見て、ワタナベはなにかを揺り動かされたような気がしたが、それが何かは思い出せなかった。そして十数年後に、アメリカの夕暮れの中で突如としてハツミさんのことを思い出した。それが下記の部分である。

僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。

『ノルウェイの森』

筆者は初めてこの文章を読んだ時、その「無垢な憧れ」という言葉をどうも掴みきることができなかった。しかしそれは、その憧れの対象がハツミさんに対するものだと思っていたためだと気がついた。
あくまで個人の考察だが、この言葉はハツミさんが恋愛に対して抱いている「憧れ」がほとんどの人にとって忘れらている、ということを指しているのだと今は考えている。
また、この場面は私のハツミさん=ギャッツビー説を裏付ける部分でもある。
ニックがデイジーに苦悩するギャッツビーを目にした時の感情がオマージュのように用いられているためだ。

私は何か心に浮かびそうなものがあると思っていた。ちょっとしたリズムだったか言葉だったか、ずっと前にどこかで聞いたような気がするのに、なかなか思い出せない。ある言い回しが出かかって、私は間抜け面で半開きの口になり、小さい乱気流のような息をしていたのかもしれないが、ついに声として出すにはいたらず、かすかに思いつきそうだったものはどこにも届かないままだった。

『グレート・ギャッツビー』

永沢は女遊びに奔放の限りをつくし、研修があるといって何年もドイツに行ってしまう。
それでも長い年月の後に彼はいつか自分の元へ帰ってきてくれる。ハツミさんはそのように信じた。そしてその期待は果たされることはなかった。

ハツミさんは永沢の渡独の2年後に別の男性と結婚し、その後自殺をしてしまう。

『グレート・ギャッツビー』の結末にはこのように書かれている。

ギャッツビーは緑の灯を信じた。悦楽の未来を信じた。それが年々遠ざかる。するりと逃げるものだった。いや、だからと言って何なのか。あすはもっと速く走ればよい、もっと腕を伸ばせばよい……そのうちに、ある晴れた朝が来て──だから夢中で漕いでいる。流れに逆らう舟である。そして、いつでも過去へ戻される。

『グレート・ギャッツビー』

一見するとギャッツビー像に近いのは永沢のようであるが、私は上記の描写などから、ハツミさんこそギャッツビーの内面であると考えている。ハツミさんもまた「流れに逆らう舟」であったのだ。


2.3 ぬかるんだ土地に家を建てずに


この『ノルウェイの森』が読者に救いのない寂寞を起こさせるのは、ハツミさんの自死を含む様々な悲劇が、初めから決まっていて変更不可能なことのように思われるためだ。
ハツミさんの人生において、永沢を愛するということは欠けてはならない部分であったし、永沢はその強固な人生観を投げ捨てることは不可能だっただろう。何度やり直したとしても、ハツミさんと永沢は付き合い、それでいて永沢は自分勝手に行動し、彼女は自死を選ぶと思わせる諦念がこの作品に通底している。

私が思うのは、ハツミさんや永沢、そして直子のように人間関係や社会的地位の上に自らの自尊心を築くのは「ぬかるんだ土地に家を建てる」のと同じだということだ。

「あの人は私を愛してくれている」
「あの人と結婚すれば(付き合えたら)幸せになれる」

人はこのような期待から行動するのが通常で、もちろんそういった動機がなければ人は何もすることができない。しかしそれが

「あの人に愛されなければ私は不幸だ」

という思い込みになってしまうと大変である。他者を完全に自分の思い通りにすることが不可能である上に、たとえ愛されたとしてもその関係がいつ終わるかは分からないためだ。
自分自身に対する信頼の上に、自分が存在するという不変の真実の上に自尊心を築き、その余剰を他者に与えるのが望ましい。

____しかし、交際がそのように単純に割り切れる事象であったのなら、『グレート・ギャッツビー』も『ノルウェイの森』も生まれなかったに違いない。





以上です。このレポートには大変苦戦して投稿が遅れてしまいました。村上春樹に関しては、まだ知らない部分や読んでないテクストが多すぎるためかもしれません。もしこれから交際する機会があれば、ここで偉そうに好き放題書いたことを是非自戒にしようと思っています。


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