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「もの派」とメディア・アート(『メディアの現在』を読んで)

はじめに

現在私は美術大学生でちょうど夏休みに入ったところですが、前期は実技と毎週出さなくてはいけない学科のミニ・レポートに追われている間にあっという間に過ぎていきました。
その時に思ったことですが、自分の思考をギリギリ人に見せられるような文章に整えて例え納得いかなくても期限までに提出するというレポートの作業は、自分のその時々の思考を整理するのに案外役に立つのです。
レポートと書くという行為は明らかに他者から強制されたものなので、インドの神秘家oshoなら「アクション」ではなく「アクティビティ」と呼ぶでしょうし、締切に追われる職業漫画家のようで芸術家はいかにも嫌いそうですね。

ただ私は何も言われなくても文章や作品をどんどん作り出すような勤勉な人間ではなく、むしろ怠け者の部類に入るので、このような「アクティビティ」によってなんとか物を作ることができているのです。
しかし、はじめは嫌々取り組んでいた「アクティビティ」の中にも、やっていくうちにどんどん楽しくなり、結果的に自発的な「アクション」と呼べるようになることも多々ありました。
そこで、私も私自身に「レポート課題」を出すことに決めました。テーマは自由、1週間に一回程度ここに提出しようと思います。

ただ、あくまで外部的な日記としてですので、レポートにはならないような根拠のない推測や、どこかで聞いたことある話、私自身の個人的な体験など、気の向くままに書くことを目的としています。あしからず。


「もの派」とメディア・アート


今回は、尼ヶ崎彬 編・解説の『メディアの現在』という本の一部の感想を書いてみようと思う。 

1.「もの派」とメディアアートの関連性


この本は1990年度、学習院女子短期大学の「メディア」をテーマとする連続講義がまとめられたものである。
講義には「作品、音、身体、劇場、建築、商品」のそれぞれの第一人者が登壇し、自らが携わる分野を「メディア」という切り口から語っている。
どの話も大変面白いが、中でも美術家の原口典之の講義の中に1990年とは思えないほど現代に差し迫った文言を見つけた。

原口典之は日本大学芸術学部出身で、「もの派」の代表的な人物に数えられる美術家である。鉄のうつわに黒い重油を流し込んだ『オイル・プール』などの作品で知られている。


原口は講義の中で自身が「ものの表現」ではなく、「ものそのもの」を扱うようになったきっかけを現代美術の転換に則してこのように話している。

伝達理論というのが芸術論には昔からあって、何かを伝達するための媒体が作品である、つまり作品はメディアであるという考え方があった。(____)
けれども、現代美術は、というか僕は作品をメディアにはしないということなんです。(____)作品によってイメージを置き換えるのではなくて、〈ものそのもの〉〈作品そのもの〉が発してくること、そのことで作品、ものとのスタンスをとっていこう、としています。

ぺりかん社『メディアの現』p.12-13

私はこの文章を読んで思わず「メディア・アートだ!」と心の中で叫んだ。

一般的に「メディア・アート」とはデジタル・テクノロジーを使用した芸術のことだと認識されている。もちろんそれも間違いではないが、ナムジュン・パイクの『マグネットTV』などに代表される「メディアの特性自体を顕在化させる試み」もメディア・アートを特徴づける大きな要因である。

西洋絵画でいえばまず目に見える現象の模倣から始まり、それから内面の「表現」と変化していったが、以前としてキャンバスや顔料、メディウムといったメディア(媒体)は、表現が向かう「対象」によって覆い隠されてきた。
原口などの「もの派」はそれを「ものそのもの」を提示することで示したが、メディア・アートの一部の作品も、テクノロジーを使用することで「テクノロジーそのもの」を示している。

つまり抽象絵画、もの派、メディア・アートの中には「メディアの発見」という同じ血が通っているように思われるのだ。
この両者の相関、類似を意識したのはもちろん私だけでもないだろうし、目新しい発見でもないことは承知の上で、この本が私個人の中で 美術史(絵画史)とメディア・アートの関係をより意識させるようになったのは間違いない。


2.メディアと「鑑賞者」の役割の変化



最後の尼ヶ崎彬の解説では、6つの講義を総評して、作品とメディアの関係性の変化に着目しこのように書いている。

メディアに関わる主体が送り手から受け手へと移ったということである。しかもこの受け手という主体は、認識する主観というよりも体験する身体である。メディアは、もはや意味を伝達するための道具ではなく、意味が生起するための仕掛けである。

ぺりかん社『メディアの現在』p.235

この「メディアに関わる主体」の転換はいわゆるアート界のみにとどまらず、テレビ、ラジオ、映画館でみる映画(マス・メディア)から個人が見るインターネット・サービスのYouTubeや音楽・映画のサブスクリプションへの転換にもいえるだろう。
視聴者はもはや数個しかないテレビのチャンネルを回すのではなく、スマホから多大な情報の選択肢が与えられ、しかもその動画に1.5倍速をかけて気軽に「流し見」をするようになった。 
それらの現象を単に若者の知性や忍耐力の劣化と捉えるのではなく、メディアに対する鑑賞者の積極性を示す範囲が広がった結果とするならば、それらの需要に合わせた動画や音楽が生まれていく相互干渉も時代を反映したメディアの転換であるといえる。

アートにおいて、もはや作り手ではないからといって責任が発生しないという時代は終わってしまったのかもしれない。「嫌なら見るな、聞くな」の時代である。
このようにして〈特権的な芸術家/受容するのみの鑑賞者〉 という図式やパワーバランスは崩れてきた。鑑賞者が表現に携わり、作品は可塑性を備えて多様な解釈を受け入れるようになった。
こういった中で、我々に残された有効な問いは「いかにして良き表現者となるか」ではなく、「いかにして良き鑑賞者となるか」となるのではないか。


ここまで書いて、私は以前学部のメンバーで秋葉原の電気街を巡った際に教授が、Apple社が「ユーザー」という存在を定義したことへの疑問を呈されていたのを思い出した。
現代人は独占的な多国籍大企業が提供する 無料/安価 で手取り足取りなサービスを享受することに慣れきってしまっている。しかもその代償として支払われている個人情報に目が向けられることはあまりない。
一方で、秋葉原の電気街の店は顧客に相応の知識があることを前提として成り立っている。
私自身も秋葉原に電子部品を購入しに行く際はあらかじめ必要な抵抗の値や、商品の番号をリストアップして迷うことや買い忘れを防止している。
そして通う回数や電子工作の知識が増えるごとに、同じ街に多様な役割や景色を見出せるようになった。「秋葉原の電気街」が私にとっての「インタラクティブ(相互干渉的)なメディア」となったのである。 

もちろん人がユーザーとなることも、先程書いたような意味合いでメディアに働きかけることではあるが、その役割や責任、「意味が生起する仕掛け」は普段覆い隠されている。
それらを現代美術は「意味が生起する仕掛け」として、鑑賞者に身体的に体験させているのではないだろうか。

今日、どこまでもユーザーによりそった「優しい」デザイン的な表現と、鑑賞者に相応の知性や感性を要求する「生意気な」現代アートは乖離する一方のようだ。 
そんな中で一部の文化的業界人のお墨付きをもらった現代アートは、公衆の冷笑をよそに信じられないような高値で売買されていく。

多様化し、肥大化していくアートマーケットの中で、私自身はどのように作品を作り、そしてどのような積極的な鑑賞者となるべきかを改めて考えさせられる一冊であった。



今回はここまでです。本の短い一節でも、それについて何か書こうとすると長くなってしまいますね。お読みいただきありがとうございました。

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