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華厳経における時間観


はじめに


今回は、華厳経として知られる大方広仏華厳経について書こうと思います。この経典はインドで伝えられてきた様々な独立した仏典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものであると推定されていて、大乗仏教の仏典の一つです。
釈尊が菩提樹のもとで実現されたさとりの世界、その世界の内景をそのまま表そうとしたものである、という見解が一般的です。

東大寺 大仏

東大寺にあるこの立派な大仏は、聖武天皇の発願によって建立(七五二年)されたものです。そしてこの大仏を造るとき、その思想のよりどころとなったのが今回取り上げる『華厳経』の教えであったといいます。
私は先日京都と奈良をお墓参りにいくついでに観光し、訪れたお寺の仏像に大変感動しました。そこから、これまであまり触れてこなかった仏教の教えに興味を持ち、まずは大乗仏教の重要な経典である華厳経を勉強しようと思いました。

引用・参考にした本をご紹介します。



1.華厳経の菩薩たち


華厳経の教主とされるのは盧舎那仏(ヴァイローチャナ仏)である。この盧舎那仏は、さとりの場にある釈尊を指す。
また、盧舎那仏とは歴史的な存在として出現した仏ではなく、「法身」=法そのものとして宇宙を包含する仏ということでもある。

大乗仏教はその根底として、無数の須弥山世界(須弥山という架空の山を中心とした世界観)が存在しているという、パラレル・ワールドの先駆けのような世界観を持っている。
東大寺にある大仏は盧舎那仏を表したものであるが、その盧舎那仏が坐す巨大な蓮華には花弁が千枚あると言われる。そして、その花弁の一枚一枚が一世界で、その一世界の中に須弥山世界が百億も入っているという。

華厳経の舞台は地上や天界の七処八会(七つの場所、八つの場面)と変わっていくが、主役である盧舎那仏は、そのいずれのステージでも無数の菩薩や神々に囲まれながら、一言も発しない。
主に語り手となる菩薩たちは盧舎那仏の周りを囲んでいるが、その菩薩たちは「時を超えて」仏に会いに来ているのだ。

十方世界より来向する一切の菩薩とその眷属はすべてみな普賢の行と願とから生ずる。かれらはその清浄なる智慧の眼によってよく過・現・未の一切の諸仏を見、またよく修多羅の大海と一切諸仏の転法輪を聞く。
(中略)
これらの多くの世界において、かれらは最も適切なる時節を選んで、一切衆生を訓育し、成就する。

『華厳の研究』鈴木大拙


この「過・現・未の一切の諸仏を見」という部分に注目されたい。普通私たちは、現在という立場からしか物をみたり動いたりすることができない。しかしこの菩薩たちは明らかに、ただ過去から未来へ流れる時間軸とは離れた場所から世界を観察しているようである。
そしてその一切の菩薩は、「最も適切なる時節」を選ぶことができるというのだ。
この時空間を超えた菩薩たちの動きは、私に「非局所性」という言葉を連想せしめた。ここからは哲学、そして現代物理学にまたがる非宗教的な時間論と大乗仏教の時間観念を重ね合わせて読んでいきたい。


2.動的時間論の時間モデル


動的時間論には、その存在論的立場によって三つのモデルが存在する。
「現在主義」「成長ブロック説」「動くスポットライト説」というのがその名前だ。
森田邦久の『時間という謎』を参考にしてごく簡単に解説すると、現在主義は現在のみ存在するというモデル、成長ブロック説は過去と現在が存在するというモデル、そして動くスポットライト説は過去、現在、未来が存在しているというモデルである。この「存在している」という語がまた複雑だが、現在主義以外の2つは、四次元ブロック上にある時間軸を、第二の時間が移動するという立場をとっている。
華厳経の菩薩たちが属しているのはこの「第二の時間」であったと考えれば、この仏典は荒唐無稽な作り話ではなく、先進的な時間モデルを先取りした宗教的直感のなせる技であるとの評価ができるのではないだろうか。

佐々木閑は仏教とフラクタル幾何学やカオス理論の間に類似性を見出し、何冊も本を出している。
少し華厳経からは離れるが、唯識の思想で知られる世親(ヴァズバンドゥ)が記したといわれる阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)を引き合いに出し、その時間論を説明する。それは
「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も、過去の法も実在している」というものである。

しかし現実の世の中は、はじめから先行きが決定しているわけではない。法は未来から現在へと次々にやってくるが、どの法がどういう順序で現れるか、というその現れ方は、先にやってきてすでに過去へ落謝してしまった法や、あるいは今現に作用している現在法によって条件づけられ決定されていく。私たちの目から見て、未来の法には一定の順序が存在せず、どれがどういった順番で現在に現れてくるかをあらかじめ知ることはできない、という点で、未来の法はランダムなのである。

『仏教は宇宙をどう見たか』

阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)は先程の時間論モデルでいう動くスポットライト説が最も当てはまっているのではないだろうか。

いったんランプの前を通り過ぎて下のリールに巻き取られたコマは、もう後戻りすることがなく、二度と作用しない。これが、現在で作用した法が過去へと過ぎていき、そのままそこに留まり続ける様子に対応する。この現在で作用した法が、過去へと過ぎていくことを伝統的な用語で「落謝する」と言う。過去には、落謝した法が無限に存在しているのである

『仏教は宇宙をどう見たか』


3.タイタンの妖女



SF小説『タイタンの妖女』の中の登場人物であるウィンストン・ナイルズ・ラムファードという人物は、ある時自家用の宇宙船で太陽系に接近していた「時間等曲率漏斗(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)」に飛び込んだ。そしてその結果、「時間と空間のうんと遠くまで、ばらばらに散らばって」しまう。
つまり、広大な範囲の時空に同時に存在し、それらを同時に知覚できるということだ。

「あんたは__その、本当に未来を覗けるんですか?」とコンスタントは言った。(中略)
「単一視点的(パンクチュアル)ないいかたをすれば__そうだ。宇宙船を時間等曲率漏斗の中へつっこませたあのときに、わたしはこれまでにあったすべてのことがこれからもありつづけるだろうこと、これからあるだろうすべてのことがこれまでにもつねにあったことを、閃光のようにさとったんだ

『タイタンの妖女』浅倉久志訳


注目したいのは、この本は作者カート・ヴォネガットが取り憑かれたような霊感を得て、ごく短期間で書かれたという点だ。
いわばこの創作は自動筆記のようであったと筆者は推測する。ACIMやセス・マテリアルのようないわゆるスピリチュアルなチャネリング本でなくても、作者の脳の外の無意識の領域から生み出される芸術作品は数多く存在する。
そもそも宗教における経典というのも、自動筆記の要素を多分に含んでいるのではないだろうか。もちろんカート・ヴォネガット自身にも科学や諸芸術の広範な下地があったからこそ『タイタンの妖女』は生まれた訳であるが、地球を守るためにさまざまな惑星と時間軸に出現して助言を与えたウィンストン・ナイルズ・ラムファードという紳士は、大乗仏教における仏や菩薩と不思議な類似を見せているように思う。




以上です。時間については何年も様々な本を読みながら考えていますが、考えること、表すことに終わりがないテーマであり、まだまだ書くことが多そうです。






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