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ベビーカーを押して日曜日に訪れた お若いパパの思い出

10年ほど前に勤務していた店舗は、住宅街の真ん中にありました。
様々な年代の、様々なお客さまが来てくださる、客層の彩り豊かなお店でした。
ゆっくりと滞在される方が圧倒的に多いので、お昼と、お茶の時間と、休日はとても混雑していました。

そんなある日曜日の朝、ベビーカーを押した若い男性のお客さまがご来店されたことがありました。
1歳前後の女の子がぐずっていて、お客さまは新聞を持っていらっしゃいましたが、とてもお席について読める雰囲気ではなさそうでした。

レジにいたわたしは、その方に話しかけました。
「奥さまに休憩時間をプレゼントされたんですか?」
わたしが微笑むと、
「いやぁ…掃除もできないから外に連れ出せって言われて…
 言われるままに連れてきたんですけど、俺になついてないんで
 泣いてばかりで全然ダメなんですよ」
お客さまは苦笑いするばかりでした。

抱っこの志願

それでもコーヒーとパンを頼み、カウンター席の端っこにベビーカーを置いてお座りになりました。
片手でベビーカーをゆらゆらしながら、コーヒーを飲み、新聞を広げようとします…が、赤ちゃんはどうしてもぐずぐずがおさまらず、しまいには大きな声で泣き出してしまいました。
お父さんは困った顔で抱き上げて、よしよしとあやすのですが、いっこうに泣き止む気配がありません。
そのうちに周りのお客さまたちもきょろきょろと落ち着かない雰囲気になってきて、若いお父さんへ向けられる視線が増えていきました。

その間、他のお客さまへの接客をしながらも、その様子が気になって仕方ありませんでした。
わたしはついに、店長へ声をかけに行きました。
「店長、あの方の赤ちゃん、大丈夫そうだったら10分くらい抱っこしてきてもいいですか?」
わたしがレジを抜けて赤ちゃんを抱っこしてしまえば、そのぶんシフトがひとり足りなくなることになります。
日曜の朝はとても忙しいのです。
けれど店長は、にっこり笑って即答でした。
「なとちゃん、行ってきて!!お願いします!!その間こっちは任せておいて」

そこでわたしはレジを離れ、そのお客さまへ声をかけに行きました。
「お客さま、ご迷惑でなければ、少しの間わたしにお子さんを抱っこさせていただけませんか?」
お客さまは一瞬エッと驚かれていましたが、お子さんをわたしに託してくださり
「ありがとうございます。全然泣き止まなくて…」
と申し訳なさそうに頭を下げられました。
「しばらくあやしてみますので、どうぞごゆっくり新聞を読んでご朝食を召し上がってください」
赤ちゃんは初めこそ少し人見知りをしていましたが、話しかけながら店内をぐるぐる歩き回ったり、窓の外に見える木々を指さして見せたりしていると
いつの間にか涙は引っ込み、わたしの腕に身をゆだねてリラックスしてくれました。
赤ちゃんが泣き止まない様子を気にしていた店内のお客さまたちも、すっかり笑顔。
わたしが抱っこで通路を通ると、みなさんニコニコ手を振ってくださいました。
バーカウンターの中では店長と仲間たちが忙しそうに動き回りながら、こちらを笑顔で見守ってくれています。
お客さまも、仲間たちも、全員がひとつになってその光景を見守ってくれているようでした。

15分くらい抱っこしていたでしょうか。
お店があまりにも混雑してきたので、カウンター内の仕事にもどらなくてはならず、赤ちゃんをお父さんにお返ししました。
ほんのわずかな時間でしたが、コーヒーを飲んで、パンを食べて、読みたい新聞を少しくらいは読めたでしょうか。
ありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げてくださいました。
その後は赤ちゃんもベビーカーでおりこうにおやつを食べてくれました。

仲間とお客さまとがひとつに 目指すリビングがそこにはあった

そのお客さまは滞在時間30分ほどでお帰りになりました。
ご自宅にいる奥さまは、ゆっくりお休みになれたでしょうか。
それとも、本当にお掃除がしたかったのだとしたら、気持ちよくはかどったでしょうか。
あの晴れた日曜日、育児に追われて疲れていたでしょうお母さまも、もしかしたらお仕事で疲れていて休みたかったところにベビーカーを託されたお父さまも、お2人とも、ほんの少しくらい、心が休まったでしょうか。
育児を経験している身としては、ほんの一瞬でも、自分だけのホッとできるひとときを持っていただければと思ってしたことでした。

あの赤ちゃんを抱っこしていた15分ほどの時間、わたしは幸せでした。
わたしの気持ちに寄り添ってくれて、一緒にお客さまのくつろぎの時間を生み出そうとしてくれた店長の理解力とあたたかさ。
見守ってくださったたくさんのお客さまたち。
見ず知らずのわたしに、赤ちゃんを託してくださったお父さま。
店内の気持ちがひとつになって、しあわせであたたかい空間が作り上げられている、そういう実感をひしひしと感じました。

その日の退勤前、店長にお礼を言いに行くと
「いやー!なとちゃん最高だったよ!!なとちゃんじゃなきゃできないことだったよ!
 わたしの願う、この街のリビング(居間)を創造するという目標に寄り添ってくれてありがとう」
店長は、この街の中に人々のリビングを創り出したいというテーマを掲げていました。
わたしも、そのテーマを心から素晴らしいと思っていましたし
お客さまにとってそんな場所になれればといつも願っていました。

確かにあの短い時間、みんなの気持ちがひとつになって、みんなが温かい気持ちでお互いを見守ることができて
お店の空間はまるで本当に、街の人たちにとってのリビングのようだった気がします。
そこの店舗でもたくさんのしあわせな出会いを頂きましたが
長年のカフェ勤務で赤ちゃんを抱っこしてあやしたのは、後にも先にもあの時だけでしたので
今でも忘れがたい思い出となっています。

あの時の赤ちゃんは、もう小学校高学年でしょうか。
お父さんも、すっかりベテランパパとなっていらっしゃるのかもしれません。

あのお店は今も、地域の皆さまから愛していただいていると聞いています。
街のリビングとして。
たくさんの方の憩いの場でありますように。


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