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あなたを思い出しながらコーヒーを飲むわ と言われた大雨の日

これから少しずつ、お客さまとのあたたかい思い出を書き綴っていきたいと思っているのですが、今日はまず、どなたよりも忘れがたいお客さまについて書きたいと思います。

夏の始まりの、じめじめとした日でした。午前中は青空が見えていましたが、午後になると大きな雨雲がやってきて、ゲリラ豪雨のような激しい大雨となりました。

誰もいない店内をひたすら磨いていると、激しい雨にも関わらず、一組の老夫婦がご来店になりました。
80代くらいのお2人で、深緑色のスーツを着たご主人はすらりとした長身、細く小柄な奥様は、ご主人のスーツとバランスの良い、薄水色のワンピースを着ていらっしゃいました。

見るからに気品あふれるお2人は、すごい雨だねぇと言いながら慌てて店内へ入っていらっしゃいました。
お渡ししたタオルで肩を拭きながら、お2人はホットコーヒーを2つご注文になりました。
静かな店内で談笑されるお2人をカウンターの中からしばらく見守っていたのですが、雨はいつまでたっても降りやまず、お2人の会話も途切れてきたご様子だったので
わたしは思い切って、声をかけました。

「新しいアイスコーヒー用の豆と、スフレチーズケーキを召し上がりませんか?もちろん、ご試飲ご試食なのでお代はいただきません。」

お2人とわたしだけの 贅沢なコーヒータイム

ケーキを半分にカットし、ガラス製のドリッパーでハンドドリップしながらアイスコーヒーを淹れました。簡単に使い方を説明しながら、コーヒー豆の魅力や、ハンドドリップ中に漂うしあわせな香りも一緒に感じていただきました。

その豆は東アフリカ産のブレンドで、エチオピアの甘くやわらかな香りと、ケニアのすっきりした爽やかさが特徴でしたが、それをお伝えすると、お2人はにっこり笑顔に。
「懐かしいなぁ、エチオピア。ケニアにも行ったなぁ」
「そうですねぇ。ケニアのサバンナはもう一度見てみたいわね」
お聞きすると、なんとご主人は戦前から商社のお仕事で世界中を回ってきたと言うのです。
戦前に感じた日本と世界の発展の差、戦時中のご苦労とひそかに抱いていた思い、戦後はご夫婦でたくさんの国を渡り歩いてきたこと、多くの国に平和的に出かけられるようになった喜び…。わたしの知らない、知性あふれる刺激的なエピソードばかりでした。

コーヒーをカップに注ぎ、スフレを味わっていただきながら、思い出話はまだまだ続きました。
その間どなたもご来店にはならなかったので、贅沢にもわたしは特等席でお客様の素晴らしいお話しをお聞きすることができたのです。

終活で 物を減らしているとおっしゃっていたのに

1時間ほどすると、ついに雨は上がりました。
「雨、止んだようですね」
わたしが口を開くと
「本当ね。楽しいけれど、そろそろ出発したほうがいいかしらね」
お2人はまたニッコリされると、テイスティングのお礼を言ってくださいました。そして
「じゃあ、このケーキと、豆1袋、それからこのコーヒー器具も、全部くださいな」

「えっ?!」

おっしゃられたことの意味が分からず、わたしは思わず大きな声を上げてしまいました。
「え?これ、すべてですか?」
「そうよ?これ全部ください。」
でも、お客様はおっしゃっていたのです。会話の中で、今は終活中で、家の物をどんどん整理して減らしていると。
いつ亡くなっても子供たちに面倒をかけないように、本当に必要な物だけで暮らすよう、整えているのだと。
「だってお客様…もう物は増やさないんだって…」
すると奥様はチャーミングな笑顔で、こう言ってくださったのです。
「だから今持っている器具は全部捨てるわ。そして明日からこれでコーヒーをいただくの。そうすれば、毎日あなたのことを思い出せるでしょう?あなたと過ごした楽しい旅の思い出を、毎日思い出せるじゃない。ねぇ、あなた」
「そうだね」
ご主人も、微笑みながら優しく頷きました。
わたしは思わず両手で顔を覆い、胸がいっぱいになるのを堪えきれず泣いてしまいました。

お2人は、本当にすべてを買って行かれました。これから温泉に向かうのに、本当によろしいんですかとお聞きしましたが、ケーキも一緒に買って行かれました。
楽しかったねぇ、楽しかったわねぇ、ずっと忘れないわよ。本当にありがとう。
お2人は、何度も何度も後ろを振り返り手を振ってくださいました。
わたしは流れる涙を止めることができず、恥ずかしいほどに大泣きしながらお2人の姿が見えなくなるまで見送りました。

いつまでも色褪せない 宝物の記憶

お2人の帰られた店内に、テイスティングに使った器具とコーヒー、カップとお皿が残されていました。
それを片付けながら、また涙があふれてきました。
一期一会という言葉があるけれど、今日の出会いはそんな言葉では言い表せない…
感動してまだ震え続ける自分の胸に手を当てながら
人と人とが出会う不思議、ほんのわずかな時間でも、心は通い合えること
そして、この思い出をわたしは一生忘れないだろうと感じていることをぐっとかみしめていました。

このお客様との出会いは、もう15年ほど前のお話しです。
わたしは今もなお、このお2人との思い出に、心癒され、支えられているのです。
お2人の存在に、出会いに、やさしさに、感謝しかありません。

お客さまがわたしの人生を彩ってくださっている。
それを象徴するエピソードが、このお2人との物語なのです。



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