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『雪のなまえ』を読んで居場所について考えた
読みながら、自分にとっての「居場所」はどこにあるのだろう、と考え続けていました。ここでいう居場所とは所属ではなく「無条件に居てもいい場所」という意味です。
今回読んだ本はこちら
主人公は小学5年生。同級生からいじめを受けて、学校に通うことができなくなってしまいます。もちろん学校には在籍しているし、教室に自分の椅子も机もある。だけど「居場所」がなかった。
そんな娘のため、まるで思いつきのように会社を辞めて父親の祖父母が暮らす長野への移住を決断した父、東京での仕事を継続することを選んだ母。3人の新しい生活が始まる。
農業を教わっていた父は、ある日、友人の親が所有する使っていない納屋を改築してカフェをつくりたいと言い出す。
こんな田舎にカフェなんか作っても、誰も来やしないという周りの声に対し父は、おしゃれなカフェに観光客を集めるのではなく、この辺の農家の人たちが、泥のついた長靴のままで立ち寄れるような居場所を作りたいと言う。
俺が作りたいのはまず、ここらの人がなんとなく集まってほっと息抜きでっきるような場所でさ。
この父の発言を読んで、「なんとなく集まって、ほっと息抜きできる場所」が今の自分に欠けているのかもしれない。すべてを合理的に考え、”なんとなく“よりも“何のために”に偏重しすぎていたかもしれないと思いました。
目的なんかなくても、ただほっと息抜きができる場所…僕にとってどこだろうと。
祖父母の家の台所を、もともと暮らしていた東京の家のキッチンと比較し、主人公はこのように表現します。
あの完全無欠な母親のキッチンと比べて、この場所は、全部受け容れてくれる。傷があるのも、どこか欠けているのも、ほかと違っているものも、全部。完全ではないことを少しも責めない。
完全無欠のキッチンは、水滴のひとつもなく清潔で、全てが機能的で、無駄のない、テレビで紹介されたら誰もがうらやむようなキッチンを想像します。一方で、祖父母の家はテレビカメラなど入るわけもないような台所。
しかし、主人公の少女は祖父母の家の台所の方に安らぎをおぼえます。
学校に通っていない=”普通じゃない”少女にとって、完全でないことが許される居場所に安心感をもったのだと思います。すべてが受け容れられると感じられる居場所では、自分が完全でないことを隠したり、背伸びしたりする必要がありません。
人には色んな側面があります。
仕事はきっちりしないと気が済まない人が、家では靴下をひっくり返したまま洗濯機に入れたり、子どもの食事に関しては栄養バランスを細かく考えて献立を立てながら、自分の夕食はチョコレートで済ませたり。
どちらが本当の自分で、どちらがつくられた自分というわけではありません。ただ、人は意外と多くの時間を”ちゃんとしよう””良く見せよう”と背伸びをして過ごしています。24時間365日ずっと背伸びをしていると、いつか足を怪我して立っていることができなくなります。だから時にはかかとをついて休むことが必要です。
「居場所」とは背伸びをしなくていい場所。
介護職は優しくて、誰に対しても親切で、決して怒ることのない人と一般の人から思われたり期待されたりします。
介護職員が事件を起こしたりすると、「こんな人が介護のシゴトをするなんて」とコメントされることもしばしば。世間の人が介護職に求める人物像はかなり高尚な人であるように僕は感じます。
だから、介護職にこそ、地に足をつけてほっと一息ついて、間違った行動をする前にストレスを解消したり、明日からの活力を養うような「居場所」をつくることが必要なのかもしれないと思いました。
個人的には、コロナでしばらくお休みしている介護職のための居場所「パレットカフェ~介護のシゴトが好きなんです」を再開しようかなぁと、この本を読んで考え始めました。
皆さんの「居場所」はどんなところですか?
「居場所」と言われて、どこだろう?と思った人には、ぜひ読んでいただきたい小説です。
立﨑 直樹
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