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フィリピンとわたし。②

初めてのフィリピンに降り立った時から、その国で必死に生きる人たちを目の当たりにしていた私。その時点で既に驚きだったのですが、翌日学校が始まってから、もっと驚くことになりました。

当時、日本では携帯電話がカラーになり、写真が撮れる機能が新しい頃でした。学校が始まって、現地の学生たちの様子を見ていると、休み時間に携帯電話を使っている学生たちを発見。見せてもらうと、なんと画像はカラーで、写真も撮影ができるものでした。フィリピンに着いた初日に物乞いをする少年、裸足で物売りをする少女に出会っていた私は、この携帯電話はかなり衝撃でした。「フィリピン=貧しい国」ではない・・・?

その学校が私立の学校であったことは大きな理由の1つかもしれませんが、携帯電話を持っている学生が何人か居るだけでなく、学校には"English Only"と書かれた紙がいろんなところに貼られており、学生同士は基本的に英語で会話するようにされていました。(とはいえ、完全にみんなそれを守っているようではありませんでしたが)小学校から大学まである学校でしたが、日本より早い段階からもう英語を習うんだなと、またここでも驚きました。

私たちは学校で、午前中に英語を習い、午後は大学に行って現地の大学生に日本語を教えるというのがプログラムの内容でした。英語を習う時には、レベルに合わせてチューターがついてくれて、少人数で学ぶスタイルでした。ここで仲良くなったチューターの方から、放課後にご飯に誘われて、そのチューターの方の親戚のおうちに遊びに行かせていただくことになったのですが、またここで更なる驚きがありました。

家がでかい!!!きれい!!!

「ここはフィリピンでしたっけ・・・?」と、言いたくなりました。フィリピンに着いて早々に見た光景は何だったのか?物乞いをする少年、裸足で物売りをする少女が居る土地で、こんなに大きくてきれいな家に住む人が居るのかと。白に統一された綺麗な家の中は、つるつるとした床、壁で、私たちが泊まっていた寮(ちょっと土っぽい感じ?)とは全然違っていました。2人の子どもたちにはそれぞれに部屋が与えられ、メイドさんが住み込みできる部屋も完備されていました。そして、トイレは暖かい便座にウォシュレット付き。話を聞くと、ご主人が舞台ダンサーさんで、年の半分くらいは香港などに出稼ぎに行かれている方でした。

当時は、あまり知識がなかったので、「海外で働いて、家を空ける事が多いからメイドさんが必要になる時があるのかー」くらいにしか思っていませんでしたが、大学院に入って色々勉強するうちに、フィリピンは人口の10%が出稼ぎ労働者として海外で働いて、自国に送金しているということを学びました。あの時のダンサーのご主人はそういった方だったのですね。家の中に居るだけで、フィリピンが開発途上国であることを忘れてしまう、そんな空間でした。

私たちのチューターだった方も、私立大学でチューターをするわけなので、現地ではかなり待遇の良い仕事なのだと思います。そういったチャンスもある国なのですが、果たしてあの物乞いの少年や、裸足で物売りをする少女がそのチャンスを掴めるのかというと、可能性はとても低いと思います。貧しい家庭に生まれる→十分な教育を受けられない→安定した仕事に就くことが出来ない→貧しいまま、同じような境遇の人と結婚する→子どもが生まれる→子どもが十分な教育を受けられない・・・というループですね。こういったループをどこで断ち切るか、ということは、もう長年の課題になっていると思います。長年課題として存在し続けるのは、簡単には解決できないからです。物理的な解決方法だけではなく、そこにはその国の歴史、宗教、価値観など、複雑に絡み合っているもの、染み付いているものと、どう向き合っていくかがとても難しいからだと思います。

フィリピンに入って2日目で、「フィリピン=貧しい国」ではなく、「フィリピン=格差の大きい国」となりました。この後も私は、「貧」と「富」を色々なところで目の当たりにしながら、自分自身は「富」を持つ人間として現地で2週間過ごすことになります。


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