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XIX.後悔なし

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・事故
・健康の低下
・2つの作品の計画
・スペインとモロッコへの旅
・病気の診断結果と悲劇
・手術と死

 1932年の秋、ラヴェルはパリでタクシーに乗っていて事故に会い、からだに大きな衝撃を受けた。そのときは、頭に受けた打撃はそれほど深刻なものには見えなかった。しかし友人の中には、ラヴェルは脳に損傷を負ったのではないかと考える者もいた。それにより後の命にかかわる病気を誘発した、あるいはかねてからの奇妙な持病を悪化させたのかもしれないと感じていた。この事故で、ラヴェルは、ゆっくり少しずつ、実生活の世界から遠のいていくことになる。

 事故後の数ヶ月間、ラヴェルの気持ちの落ち込みと疲労感は、危険な様相を見せた。1933年の夏、サン=ジャン=ド=リュズに滞在中、泳ごうとしてうまくからだが動かないことにラヴェルは気づいた。やり慣れた動きがしようとしても出来ず、からだのコントロールに変調をきたしていた。

 その後、ラヴェルはしゃべるときに問題がでることに気づいた。自分の考えを述べようとするとき、すぐに言葉が出てこなかった。これまでは、従順な召使いのように的確に作動していたものに支障が現れた。心の内部は明瞭さを保っているのに、それを表現する手段と結びついていないようだった。一番の悲劇は、音楽的な思考を紙に書き記すことが難しくなってきたことだ。いつか自分の名前を記すことも難しくなるかもしれない。

 このようないくつかの症状は、一度にやって来たわけではなかった。病気による症状は、ゆっくりと進行していったので、最初のうち、ラヴェルは疲労のせいだと考えていた。そして状態がいいときは、頭も冴えて以前のような状態にもどっていると感じることができた。小康状態の際は、新たな作品二つに取り掛かりさえした。イダ・ルビンシュタインは自分のために、新しいバレエ作品を書いてほしいと申し出た。ラヴェルは『アリババと40人の盗賊』に登場する、アラビアンナイトの伝説の人物「モルジアナ」を題材に作品化することを提案した。またラヴェルはジャンヌ・ダルクの生涯を描いた、叙事詩のような音楽詩を書きたいと思っていた。音楽的なアイディアに溢れ、表現したくてしかたがないラヴェルがいた。しかしそのアイディアを書きとめることは、また別のことだった。

 自分の能力を麻痺させている、何とも言いようのない、この抑制できない自分の状態のせいで、ラヴェルはどんどん気落ちしていった。しかしこれに不平を言ったことはなく、弟やボネ夫妻*は、最初のうち、ラヴェルがどれくらい心を痛めているか理解できなかった。以前なら仕事について訊かれると、ラヴェルはこう答えていた。「すべて出来上がっているよ。あとは紙に書きうつすだけだ」 そこから実際に書き始めるまでに、たいてい数ヶ月を要した。それでこのときも弟たちがジャンヌ・ダルクの進行具合について訊ねると、ラヴェルは「すべて頭の中にあるよ」と答えた。しかしそれをもはや書きとることは不可能だということを、弟たちはわかっていなかった。

 「あなたの『ジャンヌ・ダルク』の初演のときに着るドレスを作ろうと思ってるの」とボネ夫人がある日言った。「急いで作品を仕上げてちょうだい、だからドレスがいるの」

 ラヴェルは顔を曇らせてボネ夫人を見た。「ジャンヌ・ダルクを待つことはやめた方がいい。あの作品が日の目を見ることがあるかは、神のみぞ知るだ……」

 1934年、ラヴェルはフォンテーヌブロー宮殿にあるアメリカ音楽学校の学校長に指名されたが、健康の悪化のためそのような任務は難しかった。1935年、南への旅が気晴らしになるだろう、ということで計画が進んだ。ラヴェルはモロッコへ行ってみたいと常日頃から思っていたので、その年の2月、友人のレオン・レイリッツ*とともにスペイン、北アフリカへの旅に出た。旅の間、ラヴェルの状態は良いように見えた。二人はタンジェ(タンジール)、マラケシュ、マムーニア、フェズを訪れた。ラヴェルはここで「モルジアナ」で夢見ていた舞台設定を見つける。モロッコは色彩と光と東方(オリエント)の魅力あるリズムに溢れていた。これまで様々な民族の音楽言語で曲を作ってきたラヴェルは、今回、アラビア風のものを書きたいと思った。生来のひねた言い方でこう言った。「アラビアよりアラビア風のものになるんじゃないかな……」

 ラヴェルには、様々な国の素晴らしいと思う音楽のリズムを、うまく取り込む才能があって、自作の中で独自の様式で再生して見せてきた。『ツィガーヌ』ではラヴェルは自らをジプシーに見立てた。「ヘブライの歌」ではその精神が深く吹き込まれ、そのために、ラヴェルはユダヤ系ではないかという噂話の原因になった。

 1935年の夏、サン=ジャン=ド=リュズを再訪したラヴェルは、友だちと会ったり、コンサートや劇場で夜を過ごすことで、気分の落ち込みからなんとか逃れようとしていた。心の奥深くにある苦しみについて、ラヴェルは人に話すことはなかったので、よく知らない人は極度におとなしい、無口な人だと思うばかりだった。

 ある暖かな日、友人たちがサン=ジャン=ド=リュズの山への遠出に、ラヴェルを連れ出した。ラヴェルはいつも以上に無口で疲れた様子を見せ、喉の乾きをいやし、休憩するために小さなホテルに入ったときも、雪をかぶった山々の素晴らしい光景を悲しげな表情でじっと静かに見つめた。すると突然、ホテルの奥から『ボレロ』が聞こえてきた。ラヴェルの顔に灯りがともり……サッと立ち上がると、ラヴェルにとってただ一つの喜びである音楽の出どころを探した。そして部屋の隅に「安ものの蓄音機」を見つけた。調子っぱずれで雑音の混じったものではあったが、過去の栄光と自分の仕事ぶりが、思わぬ形でよみがえる出来事となった。

 ラヴェルは医者たちが自分の病を治す方法を見つけることに、最後まで希望をもっていた。しかし診断をくだすのは簡単ではなかった。ある医者は脳に腫瘍があるのではと考えた(これは後の手術で否定された)。別の医者は「脳障害による失行症」あるいは「不全失語症」と診断した。そして「脳の萎縮」というのが最終的な診断結果となった。脳の中心部が、からだを動かす機能に何らかの影響を与えているわけだが、どうであれ、こういった疾病 によって判断力が失われることはない。噂話としてしばしば言われていることとは違い(中でもアメリカで)、ラヴェルが心を失くしてしまったことはなかった。これとは正反対で、悲しいことに、自分の状態をよくわかっていた。

 1937年の夏、ラヴェルが死亡する数ヶ月前に、フランス国立管弦楽団が、昔のアパッシュのメンバーだったアンゲルブレシュトの指揮で『ダフニスとクロエ』のガラ・コンサートをやった。コンサートが終わると、ラヴェルはエレーヌ・ジュルダン=モランジュの手をとって、賛辞を贈ろうとする聴衆から、足早に立ち去った。そして車の中で泣きはじめた。

 「頭の中にはたくさんの音楽あるんだ」 そう悲しげに告げた。

 ジョルダン=モランジュはラヴェルをなぐさめ、あなたの仕事は完結したのよと言った。しかしラヴェルはつらそうにこう答えた。

 「まだ何も言ってない、言いたいことがたくさんあるんだ」

左からラヴェル、エレーヌ、リカルド・ビニェス(1923年)

 自分の気持ちを表す言葉を見つけるのに大きな障害があったけれど、ラヴェルの親しい人々は、その気持を想像することができたし、苦悩の背後にある損なわれることのない理性を理解していた。ラヴェルの知性が変わらず機能していることは、しばしば(身近でない人々にも)証明された。死の少し前、ラヴェルはマドレーヌ・グレイを訪問し、彼女の歌う『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』を聴いた。歌い終わるとマドレーヌ・グレイはどうだった、と訊ねた。ラヴェルははるか彼方にいるような様子だったので、マドレーヌは自分の取り繕った部分がわかっただろうかと思った。すると突然、ラヴェルはピアノに向かって、彼女がオリジナルに変更を加えた箇所を示した。そしてたどたどしい言葉で、自分が書いたとおりに歌ってほしいと説明しようとした。マドレーヌは、歌い手はラヴェルの曲を歌うとき、注意深く、正確に表記に従う必要があるという出来事として、このことを語った。

ピアニストのジャック・フェヴリエと(1937年)

 最後の数ヶ月、ラヴェルはモンフォール=ラモーリーの小さな家を出ることはあまりなかった。ラヴェルはかつてこの家の改装、装飾を夢中になってやったものだ。その場所が、最後の日々を送るラヴェルにとっての避難所となり、不運な主人の静かな苦痛を見守っている。友人たちと過ごしたり、街の灯りに触れることで苦痛を逃れる試みは、終わりを迎えた。ラヴェルは孤独の中へと身を隠した。

 よく晴れた日には、からだの調子がよければ、ランブイエの森を歩くことに楽しみを感じた。よく知るこの森では、どの道もどの木も、ラヴェルにとって親しいものだった。季節ごとにどの場所で野生の花々が開花するか、熟知していた。鳥の鳴き声を心から愛で、それに応えることが無上の楽しみだった。

 森を歩いていたある日、ラヴェルはとんがり屋根の小さな隠れ家のような建てものを見つけた。ランバル公妃のためにパンティエーヴル公によって、1世紀かそれ以上前に建てられたものだった。極めて小さなものやものごとの細部を愛するラヴェルにとって、たくさんの、色も形も様々な貝殻で飾られた家の内部は、魔法のように魅力的だった。エレーヌ・ジュルダン=モランジュをそこに連れていくと、子どものような熱狂ぶりで自分の見つけたものを紹介した。

なんて嬉しそうにこの家をほめ称えたことでしょう! 海にある貝殻のすべてがここに集まっているみたいで、壁の中に、ドアに、床に、天井に、ていねいに埋め込まれている……ラヴェルは貝殻ひとつひとつの名前を口にして楽しんでいました。中でも「一番ちいさな巻き貝が一番きつく巻いている」ことに喜んでいました。

 ラヴェルは具合が悪くなるにつれ、森を歩くことにさえ興味を失い、弟やボネ夫妻を訪ねてパリに行くこともできなくなった。ベルヴェデールのバルコニーに何時間もすわり続け、目の前の古い教会やうねる牧草地、果樹園をじっと眺めていた。顔はげっそりと痩け、しわが寄り、からだはもろく、やせ細り、じっと動かず、まるでよその世界に迷い込んだ人のようだった。

ラヴェルの家のバルコニーからの眺め(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 ある日のこと、エレーヌ・ジュルダン=モランジュがそんなラヴェルを見つけて聞く。

 「そこで何をしているの?」

 ひとこと、ラヴェルは答える。「J’attends…….」

 待っている…… 心痛む分裂状態が少しでも軽減し、楽になることをいつも願っていたのだ。「わたしはバラバラになっている」とラヴェルは言う。スイスの時計職人になぞらえられてきたラヴェル。いま、そのラヴェルのメカニズムはゆっくりと崩壊し、一つまた一つとバラけ続けている。時計は動いているが、非常にゆっくりで、苦悩に満ちた努力による結果だった。病気でさえもが「ラヴェル的」であった。

 極度の明晰さによって、自分の奥深くにある意志のバネがゆるむのをラヴェルは感じとっていた。知性がもはや及ばない生命体の中に、生きたまま埋められる苦しみを知った。失望し、悪運で結ばれた見知らぬ者が自分の中にいるのを感じた…… 執念深い病に差し押さえられ、沈黙に閉じ込められながらも、誇りと威厳を失うことなく、ラヴェルは辛い体験に耐えていた。

ジャック・フェヴリエと(死の2ヶ月前に撮られた写真)

 ラヴェルは最後まで、精神の明晰さを保っていた。もし理性をなくしていたなら、もっと楽にいられたことだろう。そうであれば自分が崩壊していく過程や、ゆっくりと心とからだを蝕んでいく情け容赦ない病気と面と向かうことから逃れられたはずだ。

 ある日ラヴェルは、エレーヌ・ジュルダン=モランジュにシャブリエの悲しい終末のことを話した。「酷いことだと思わないかい?」 シャブリエの死の直前に起きた出来事を思い出しながら、強い調子で言った。「『グヴェンドリーヌ』の上演を、自分の作品とは知らずにに見ていたんだよ!」

 世界的な作曲家の多くが、悲劇的な最後を迎えてきた。バッハは盲目となった、しかし音を書き留めることはできた。ベートーヴェンは聴力を失った、しかしその後も、いくつかの最良の作品を書いた。シューマンは理性を失った、そして私たちアメリカのマクダウェルも同様だった。しかしラヴェルの終末はさらに不運だった。それは知的能力を残したまま、制御の効かなくなったからだに閉じ込められたからだ。精神は澄みわたり、音楽のアイディアに溢れていたが、それを表すことができなかった。吐き出せない思いの苛立ちや辛さ(感じていることが出せないという自分の宿命)に、晩年の日々はおおわれた。素晴らしいハーモニーに取り囲まれ、それを聴衆と分け合いたいと強く願うが、それを形にする能力がもはやない、これ以上の悲劇があるだろうか。

 1937年の秋には、ラヴェルはさらに力をなくした。ハウスキーパーのルヴェルー夫人は、ラヴェルを献身的に世話したけれど、悲しみに満ちた放心状態から救う手立てはなかった。ラヴェルは不平を言うことはなかったが、ときにバルコニーから外の世界を眺めてこう言った。「もうこれを見ることはなくなるね」 あるいは弟に向かって「愛するエドゥアール、わたしがここからいなくなったら……」

 エドゥアールは、パリにいる先進的な脳医学の専門家に相談をもちかけ、手術をするしか道はないと結論を得た。ラヴェルとよく似た最近の症例(脳の萎縮と診断された)があり、頭蓋骨の中に、縮んだ細胞組織の栄養となる液体を注入することで、症状が緩和した例があった。医師たちは、同様の手術によってラヴェルもよくなるのではないかと希望をもった。しかし彼らはこのような難しい処置には大きな危険がともなうことも、明らかにした。医師たちはラヴェルに気持ちを訊ねた。手術をすることで現在の状態が緩和されるかもしれない、その可能性にかけるかどうか。ただそれは命と引き替えになるかもしれない、と。

 弟のエドゥアールはひどく心を痛めた。愛する兄を失うかもしれない、ということに耐えられなかった。しかしモーリスにためらいはなかった。現在の状態より、何であれましだと感じていた。すでにモーリスは自分が死んでいるかのように感じていたのだから……

 12月18日、パリのボワロー通りにある私立病院にラヴェルは入院し、手術の準備が整えられた。ラヴェルはこれまでよりずっと、機嫌が良かった。鏡で自分の顔を見て笑った。「ムーア人みたいじゃないかな」と、剃った頭に巻いたターバンのような白い包帯を指して声をあげた。

 12月19日の朝、クロヴィス・ヴァンサン医師がラヴェルを執刀した。繊細な脳細胞の病変を考慮して、一般的な麻酔によって手術することは不可能なため、部分麻酔によって1時間半に及ぶ手術が行われた。しかしラヴェルはこの手術に耐えられなかった。静かに深い眠りへと向かい、意識を取り戻すことがなかった。この状態のまま、ラヴェルは10日間近くを過ごし、12月28日の早朝、眠るように亡くなった。

パリ郊外ルヴァロワ=ペレにあるラヴェルの墓(左上に父の名、右上に母の名がある)
Photo by Thomon (CC BY-SA 4.0)

*ボネ夫妻:ラヴェルは母親の死のあと5年近く、弟のエドゥアールとボネ夫妻が住む家に同居していた(パリ郊外のサン=クルー)。
*レオン・レイリッツ:フランスの画家、彫刻家。1881〜1976年。ラヴェル一番のお気に入りのオモチャ「機械仕掛けのナイチンゲール」(ラヴェルはこの鳥をZiziと呼んでいた)をプレゼントした人。


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