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「性別」にまつわる諸問題:呼称とかセルフ IDとかパス度とか

最近のことですが、新しいプロジェクト案を考えていて、そのことでアメリカの友人に相談したいことがあり、その際、英語で女性を表す言葉として何を使うのが適切か迷いました。具体的にいうと、female composerとするかwoman composerとするかといった。言葉の並びとしてスルッとはまりそうなのはfemale composerのような気がしたのですが、何となくwomanを使う方がいいように思い、こちらを使いました。(そもそも頭に「女」をつけるな、という意見があるのは充分わかっています)

「female」と「woman」にどんな違いがあるか、そこまで意識したことがありませんでした。さらに女性を表す英単語として「lady」もありますが、こちらはフラットな感じが薄く、古風なイメージです。

「female」は申請書などの性別表記に使われる言葉で、やや固いあるいは正式っぽいイメージがありました。少し古っぽい感じも。「woman」の方はもっと一般的で普通に会話などで使われる汎用性のある単語…… といった理解でした。1970年代の女性解放運動をwomen's lib(liberation)=ウーマンリブと言いますが、females' libというのは聞いたことがありません。

実はこのfemaleという言葉、ほとんど意識したことがなかったのですが「メス(雌)」という意味もあります。

人が「female」という言葉を避ける理由のひとつは、生物学的な響きが強くて、人間味が薄れることがあると思う。「この種ではメス(female)の方がオス(male)より致死率が高い」といった。「woman」の場合は、性別(と成人であること)だけでなく、人間性も強調される。

サイト「The New Republic」よりLynne Murphy(言語学者)の意見
訳:だいこくかずえ

なるほど。生物学的な性をより強く表すのが「female」であると。虫や動物にもfemale、maleは使われるわけですね。確かに人間以外の生き物の性を表すときに、womanとかmanはそぐわないです。そもそもmanは人間という意味ですし。
ところでこの原文をDeepL翻訳にかけて読んでいたら、最初の「female」のところが「メス」となっていて、は?となりました。「人が"メス"という言葉を避けるのは」となっていたのです。それでfemaleがメスを表すことに気づきました。

さらに別の人で、こんな意見もありました。

もしどちらかを選べと言われたら、female writerよりwoman writerと呼ばれたい。「woman」は生物学的な意味合いより、性自認による性を暗示していて、トランスの人を含んでいるように思えるからだ。

サイト「The New Republic」よりAnn Friedman(ジャーナリスト)の意見
訳:だいこくかずえ

この原文をDeepLで日本語にすると、「female writer」「woman writer」どちらも「女性作家」になっていました。日本語の「女性」は生物学的、社会的両方の意味合いがあるということか。しかし「女性」や「女」を動物に使うことはなく(飼い犬のことを「女の子」と言うかもしれないが)、動物と人間は、はっきり区別されていて動物は「メス」と言っています。

また職業の頭にwomanなりfemaleをつけるのは、たとえば「female doctor」とか「woman writer」と呼ぶと、女性を見下しているように聞こえるという人もいました。これは日本語でも同じで、「女性(女流)作家」とか「女医」あるいは「女優」といった呼び方も、単に作家、医者、俳優という方が今はよいとされています。

上で紹介した意見の中に、英語では「woman」の方が「female」より性自認による性をより暗示している、という意見がありました。femaleが動物も含めた生物としての(身体的)性を強く表しているとしたら、womanの方が社会的な存在としての性を示していて、後天的に女性として生きるようになった人も含まれてくるということでしょう。おそらくトランスジェンダー女性を「female」と表すより、「woman」とした方が適切な感じがします。女という性を選んで生きている人、という意味合いが出ます。

この性自認については、最近、経産省でトランスジェンダーの女性職員のトイレ使用問題があり、最高裁の判決が出たという出来事がありました。上告人による逆転勝訴でした。その職員は判決後、省内すべての女性トイレを使えるようになったそうです。

性自認というのは、即座に理解するのが簡単ではない問題です。自分の性認識が無意識的で、疑ったり考えたりしたことがない人にとっては、どのように違う認識や自分の性に対する違和感が生まれるのか、わかりにくいからです。

あまり話題になりませんが、インターセックスの人(LGBTQI+のI)というのは、生物学的な身体の問題なので、まだ理解が及びます。しかしトランスジェンダーの人の場合は、身体的な実態に対する当事者の認識なので、それを他者が理解することは簡単ではありません。身体的特徴としては現れていないけれど、身体の実態と違う性を認識する脳の働きというものがあるのか、それとも環境など社会的な要因で(たとえば親から男であることを過剰に強要されるとか、男の子の集団の中で暴力を振るわれる、あるいは子どもの頃に親から女らしくするよう圧力がかかったなど)、生まれ持った性を認め難い、それでは生きていけないということが原因で起きる心理作用なのか。両方なのかもしれませんし、そこは人によっていろいろということもあるでしょう。これについては想像の範囲で書いています。間違っているかもしれません。

ここでちょっと思うのは、ジェンダー(社会的な性)というものがここまで強く意識され制度化される以前、社会の中で男と女はどのように区別されていたのか。もしかしたらと思うのは、近代というものがジェンダーの認識を前に押し出したのかも、ということ。トイレから教育まで、男女の区別が強力に推し進められたのは、ここ200年くらいのことなのかもしれない? 男女をはっきり分けて区別することが、野蛮ではない人間らしい上等な暮らしにつながり、社会を安定的に運営するための功利主義的な方法論と考えられたとか?

その中で男女の役割分担が進み、女は女らしく、男は男らしくあることが一つの模範になり、多くの人がロールモデルとしてそれを信じ、それが社会制度とも絡み合って、ますます男女の区別が強化されていった……. とか? このような男女の枠組みの固定化が、現代において、トランスジェンダーという別の( 新しい)枠組みを生み出している、ということはないのだろうか。とも思う。

男と女という性の違いが究極にまで推し進められ、(商業的にも)強調され利用されてきたのが(資本主義社会における)現代社会と考えると、もしかしたら今の男女のあり方はそもそも不自然ではないかと思えてきます。女性トイレにトランスジェンダー女性が入ってくると、一定数の女性が恐怖感を覚える、と言っているのを聞くと、人間元来のあり方として、この反応は正常なのだろうかという疑問もあり。(男女を過剰に区別する社会の中では自然な反応かもしれませんが)*

ガルシア・マルケスの『「東欧」を行く』という本を読んでいたら、ソビエト連邦では「女性が男と肩を並べて道路や鉄道の工事でつるはしやスコップをふるっている」という記述があり、社会主義国ではこういうことは過去には普通のことだったのだろうか、と思いました。1950年代後半の話で、マルケスの指摘に対して、当局は深刻な労働力不足によるものと説明していたようです。

肉体的な強度における男女の差というのは、自明のこととして語られることが多いです。属性集団として見た場合、身長体重、筋力、持久力など男性の方が数値的に上だというのは事実かもしれません。

ロシア、中国、キューバ、北朝鮮など社会主義国では、女性の社会的な位置付けや役割が、西側諸国と違うことはあるでしょう。ただ資本主義国でも近年、欧州などで国防分野での女性の活躍に期待が高まっているそうです。

オランダでは男女を問わず、17歳以上の国民が徴兵リストの志願対象となりました。オランダの国防相は「女性と男性は平等の権利を有しているだけではなく、平等の責任も負っている」と述べたそう。この背景にはジェンダー平等推進や人材不足の他に、軍隊の役割の変化や多様性もあるようです。戦争の形態変化(ハイブリッド戦争など)による任務の多様化で、肉体的要件が必ずしも求められないことが考えられます。女性徴兵制が現在敷かれている国としては、イスラエル、ノルウェー、スウェーデン、北朝鮮などがあります。韓国でも女性の徴兵制は近年議論になっているようです。(参照:日経新聞ウェブ版)

性自認の話に戻ると、日本では、自分の性を変更するには6つの要件を満たしている必要があるそうです。
⓵二人以上の医師により,性同一性障害であることが診断されていること
⓶18歳以上であること
⓷現に婚姻をしていないこと
⓸現に未成年の子がいないこと
⓹生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
⑥他の性別の性器の部分に近似する外観を備えていること
(「裁判所」サイト、性別の取扱いの変更より)

なかなか厳しい基準のように見えます。必ずしも意味ある要件に思えないところがあります。このような日本の法律の厳しさに対して、最近の傾向として、カリフォルニア州、ニューヨーク州、英国、スペイン、ベルギーなど、自らの性自認よって性別を変更できる国や地域が増えているそうです。「手術どころか医師や臨床心理士の診断書すら不要、とする法律さえ、もはや珍しくない」と、文藝春秋ウェブ版の記事にありました。これを「セルフID」と言うようです。(参照:「経産省トイレ裁判」が残した課題)

さきほどの経産省のトランスジェンダー女性職員は、トイレ使用に関して違和感があると主張する女性職員への省内説明会があった後、「女性らしい服装や化粧で勤務するようになった」という記述がありました(文藝春秋ウェブ版)。こういう表現「女性らしい」〇〇は今でもよく使われているようです。女性らしい服装や化粧、歩き方、喋り方、振るまい、これが社会にとっての性別分けの本質の一つ(安心納得材料)ということなのでしょうか。

女性であることと、女性らしい見え方をすることは直接は関係ありません。

だいぶ前のことですが、トランスジェンダー女性が東京都の区議会議員*に当選したことがあります。そのときニュースで見たその議員は、女性であることを納得させるに充分な容姿と仕草、振るまいをもった人でした。年配のちょっと頭の古い男性なら「普通の女性よりずっと女らしかった」などと誉め上げそうです。それは全くのところ、その人の個性であったのかもしれませんが、私はちょっとがっかりしたのを覚えています。女性であるということは、見え方としてまずこのようでなくてはいけない(このようであるはず)、と示された気がしたからです。

結局のところ、トランスジェンダー女性は、いわゆる一般的に女らしい女と見られるような容姿や仕草をロールモデルにしている(あるいはさせられている)んだ、という落胆です。

この見た目の性の特徴らしきものを計る基準を「パス度」と言うそうで、自分の性自認が、第三者から見て外見上合っていれば、たとえば「この人は紛れもなく女性に見える」ということであれば、パス度が高いということになります。

でもこれって……. ルッキズムそのものですよね。こういうものを基準にして人を判断することはどうなのか。先ほどの経産省の職員の話でも、このパス度の高さが、判決の基準の一つになったことが書かれていました。

最高裁が支持した形になった東京地裁判決も、A氏の女性トイレ使用を制限した経産省に対する人事院の判定を違法とした根拠の一つに、「パス度」の高さを挙げていた。原告は〈行動様式や振る舞い、外見の点を含め、女性として認識される度合いが高いものであったということができる〉というのである。

文藝春秋ウェブ版『「経産省トイレ裁判」が残した課題』より

これを読むと、日本社会およびそこで暮らす人々の男女観というのは、なかなか変わりにくいものなのだなとわかります。「パス度」とは言い換えると、「生理的に(許せるとか許せないとか)」ということなのかもしれません。たとえば日本では、2、30年前まではホモセクシャルの人を「生理的に気持ち悪い」と言っていたようなことです。
この「感覚による判断」は、日本社会ではそれなりに優位性があり、「論理」や「知」の部分より多くの人が共感しやすい部分でもあります。
日本の人々のこの部分が劇的に変わってくると、もっと暮らしやすい社会がつくれるのでは?
わたしはそのことを望んでいますし、感覚と知性の両者がよいバランスをとったとき初めて、意味ある判断が生まれるように思います。

 以上、性別に まつわる問題を思いつくままに書いてみました。いかがでしたでしょうか。

*注釈1:東京都の区議会議員の方は今も立派に活動し、職務を続けているようでその点で尊敬に値します。

*注釈2:男女を違うものとして明確に分ける、という社会習慣や制度について、一つ思い出したことがあります。最近オランダ国立バレエ団の練習風景をYouTubeで見たのですが、男性、女性ダンサーが混合で基礎レッスンをしていました。伝統的なバレエレッスン風景でいうと、通常は男性、女性のクラスは分かれていて、別々に基礎練習をします。しかしバレエの基礎訓練というのは、実は男女でほとんど差がありません。女性も強い筋力やジャンプ力を必要としますし、男性もしなやかさ、優美さ、細やかさが求められるます。そのための基礎訓練には定型(メソッド)があって、男女同じなのです。ただ日本ではバレエ漫画に描かれるような「女の園」的な面(雰囲気)が、バレエ団やバレエ学校にもあります。女性クラスは女性のみ、という風景が普通です。舞台でのリハーサル前のレッスンなどを除けば、混合クラスはないかもしれません。オランダ国立バレエは作品、演出、舞台が非常に先鋭的・現代的で、古典作品の上演でも(お姫様王子様の世界を超えた)新しさに溢れた解釈を見せています。おそらく上演作品の現代性と日々のレッスンのあり方とは、深く繋がっているのでしょう。

*この記事の冒頭に書いた新プロジェクト、woman composersについて以下に紹介しています。10月半ばスタートの予定です。
「作曲する女たち」プロジェクトについて

タイトル画像として使用したアーティストのアンナ・キーズさんは、トランスジェンダー女性です。ドキュメンタリー映像作家、トランスの活動家でもあるようです。
Title photo: artist and animator Anna Keyes of New York Transgender Advocacy Group, Photo by Heathart(CC BY-SA 4.0)


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