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カズオ・イシグロ「リベラルな考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければ」

イギリスの作家、カズオ・イシグロが最近『クララとお日さま』という小説を発表したことで、さまざまなメディアでインタビューを受けています。いくつかのインタビューを読んで、ショックを受けたことがあったので、それについて考えてみたいと思います。

タイトルで引用したのは、以下のような話の中にあったもの。

 小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
 しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
東洋経済オンライン、2021.3.4、倉沢美左によるインタビュー

リベラル以外の人たちがどんな世界観をもっているか、簡単に切り捨てたり、相手にしないのではなく、その人たちの世界観を誠実に正確に語る、そういった多様性が必要だ、とカズオ・イシグロは言っているのです。そのような視点をほとんど持ってこなかったわたしは、これを読んでかなりショックを受けました。

確かに、いまの世の中、メディアやSNSなどによって構成される発言の場では、リベラルな考えや意見が大手を振っているというか、そうではない発言がしにくい状況なのかもしれないと思います。またリベラルと言っても、必ずしも深い考えに基づいたものでないものもあり、世の中の流れの中で、そのように考えるべきだから、ただ従っているだけという人々もいるかもしれないという思いもあります。一種の思想の流行のような。

たとえばトランプ前大統領に対する見方は、人種差別的態度、移民排除やさまざまな暴言などに集約されていて、ひとたびその方向の新たな情報が出れば、メディアもSNSもハイエナのようにそこにたかって攻撃し拡散につとめる、という感じがします。いかにトランプが悪人だったとしても、そのような人々のある種の「熱狂」は、見ていてあまり気持ちのいいものではありません。

前述のカズオ・イシグロの考えでは、このようなトランプを支持する人がいるのであれば(まあ、大統領になっているのですから少なくない数の人がいるわけです)、その人たちがどのようなことを考えているのか、なぜトランプを支持してもいいと思っているのか、「誠実に、正確に」語ることが必要だというわけです。たとえばそういう人を主人公にした小説であるとか。そのとき、この誠実に、正確に、というところがとても難しいことのように思われます。リベラルの人にとってもそうですし、強力なトランプ支持派の人にとっても、身びいきではない、公平な語り方をすることは難しそうです。

ではいったい誰であれば、誠実に、正確に、そのような立ち場をとる人を語ることができるのでしょう。難しいのは、どんな語り方をしても、「批判的」あるいは「身びいき的」のいずれかにしか、その意見が受け取られない可能性があること。

わたしはトランプ支持者ではないですが、たとえばトランプの自国主義については、アメリカがそうなるのはある意味良いことではないか、と考えてきました。民主党、共和党どちらの党も「アメリカは世界の警察」といった覇権主義を長くつづけてきて、ベトナム戦争からイラク戦争、アフガニスタン紛争など地球上の大きな争い事を率先してやってきたわけです。冷戦後も単独覇権をとりつづけてきた世界から、アメリカが手を引くことは、いいことのように見えました。(もしかしたら最終的にオバマ元大統領がその方向に進もうとしていたのを、トランプが受け継いだと見えなくもありません。)

こういった見え方は、トランプを絶対悪とみる観点からは、出てきにくいように思います。こんな考えをどこかで口にすれば(たとえばSNSで)、すごく叩かれそうな気がします。トランプの政策に賛同するなんて!といった。

しかし冒頭で書いたように(だからカズオ・イシグロの話にショックを受けたのですが)、わたし自身はまさに、彼がいうようなリベラル(リベラル以外の意見を排除する者)に属していると思われるのです。最近の記事「クローズドなら何を言ってもいいのかなぁ?」などは、その典型かもしれません。たとえばこの中で、「軽口をきいても大丈夫な人間性を獲得するまでは、口をきく際は、よくよく考えて、緊張して話すくらいがちょうどいいのでは」などと書いているわけです。これって他者を対等と見なしていない、上から目線の発言だったかもしれません。

たしかにここ数年以上、いやもっともっと前から、人権について、男女差別や人種差別について、動物福祉について、食品の安全や環境問題についてなどなど、リベラルな人が取り上げることの多い課題に関心をもち、ブログで発言したり、それを含む小説やノンフィクションの翻訳出版もしてきました。だからリベラルと言われればその通り。また伝統や古い慣習を尊重する態度も、どちらかと言えば欠けています。つまり分類としては、保守派には入れてもらえないタイプです。

ただリベラルだったとしても、カズオ・イシグロのインタビューを読んでからは、自分がリベラル以外の他者の考えや意見を簡単に排除したり、切り捨ててきたかどうか、考えつづけています。

そしてリベラルと言っても、他のリベラルを自認する人々といつも考えが同方向ということでもありません。チベット独立問題への理解はそういったトピックの1つです。

これに関しては、『世界消息:そのときわたしは』という葉っぱの坑夫のプロジェクトで、アトランティック誌に掲載された、アメリカのジャーナリスト、ピーター・ヘスラーの「中国人の目をとおしたチベット」を翻訳、掲載したことがあります(2016年11月)。チベット人の独立を求める抗議行動は、日本のメディアでもずっと取り上げられてきた問題です。中国は悪であるという論調は、他の国々同様、日本でもほぼ定まっていると思います。

それ以外の見解、分析はあるのか、ないのか、と調べていたとき、ピーター・ヘスラー氏のチベット・レポートと出会いました。出だしはこんな風です。

欧米では「チベット問題」には答えがでている。<チベットは中国の一部ではない。1951年に武力で併合される前は独立国だった。中国人は残忍な占領者であり、チベットの伝統文化を破壊しようとしている。(中略)> ひとことで言えば、欧米の視点からはチベット問題への解答はただ一つ、「Free Tibet」、チベットに自由を。

ヘスラーは中国各地に長く在住し、大学などで英語やジャーナリズムを教えながら、ニューヨーカーなどに記事を書いている人。チベットについての記事は、アトランティック誌、1999年のもので、発表時期はかなり前のものでしたが、そのレポート自体は他では知り得ない、チベットに住む漢人やチベット人に直接取材したものだったので、翻訳してコンテンツとして載せる許可を著者から得ました。記事はこちら。(20000字弱)

ここでは詳しくは書きませんが、ヘスラーの記事によって、チベットが抱える根本的な問題や、教師などの仕事をするためやって来た漢人の若者が、チベットをどう捉えているか知ることができました。それは一般のニュースなどから得た情報や、それによる印象とは少し違うものでした。意外なこととして目に映るいっぽうで、ある種のリアリティも感じました。中国あるいは中国人は、占領者にして文化を破壊する存在、という一面的な見方からは抜け出ることができたように思います。

現在ニュースになっている新疆ウイグル自治区の人権問題にも、同じような側面があるのかもしれません。ユニクロの柳井社長の「これは人権問題というより政治の問題」という発言にもいくらかの真実が含まれており、自社への弁護のためだけではないものがあるという見方もできます。

しかしこういった別の見方に触れたり、探ったりすることだけでも、反リベラルと見られてしまうことがありそうな気もします。本来のリベラルとは、もっとオープンな議論ができる人であり、思想ではないかと思うのですが。

チベット問題以外では、たとえばフェミニストとしてのあり方が、他の「リベラルなフェミニスト」の人たちと自分は違う、と感じることがあります。フェミニズムは人権問題の1つとして、リベラルの中の1つの局面と言えると思います。わたしはフェミニストであると自認していますが、活動家でもないですし、他のフェミニストと思想を共有しているかどうかもわかりません。

わたし自身のフェミニストの定義は、「他の人権同様、性別やジェンダーに関わらず、人間には同じ価値がある」と考える人、それだけです。

たとえばフェミニストの多くの人が主張する「人工妊娠中絶は女の権利である」には全面的な同意はしません。女性に権利があるとするのなら、同様に男性にもあるはず。生命に対する義務や責任についても同様です。なぜ「女の権利」となっているのか、といえば、女性の体内に胎児が存在し、そこに所属しているように見えるからでしょうか。でも実際には仮の宿のようなもので、胎児は女性に所属しているわけでも、女性の所有物でもないはずです。たしかに妊娠期間中は母体と胎児は一心同体に近く、体内の子どもが原因で女性の日々の活動に支障が出ることもありますが、だからといって、出産するかどうかを決める権利が全面的に女性にある、とするのは腑に落ちません。(「人間の権利である」とするなら、とりあえず公平性は保てます。ただ、それはそれでまた深く大きな問題となるはずです。)

人工妊娠中絶が合法化されること自体には問題はないと思います。フランスでは1975年にヴェイユ法ができるまで、これを犯した者は堕胎罪によって処罰されていたようです。日本では1948年より優生保護法と呼ばれているものがあり、これによって中絶が法的に可能になりました。しかしそれは「不良な子孫の出生を防止する」ことを主たる目的としていたため、1996年に「母体保護法」の名に変わりました。合法化によって、やむを得ず中絶する場合、母体に危険のないよう手術ができるようになったことは良いことです。

母体を危険から守るということと並行して、フランスでは1970年代に「わたしたちのからだは、わたしたちのもの」というスローガンが掲げられ、避妊や人工妊娠中絶の自由を求める運動が生まれたそうです。この「わたしたちのからだは」のわたしたちとは、女性を指していると思われます。フェミニストの多くが、「人工妊娠中絶は女の権利」と主張しているのは、このあたりの流れを汲んでいるのでしょう。

合法化を勝ち取るために、フランスでは「女の権利」という人権上の主張を表に出した可能性もあります。それだけ法律的に認めさせることが、ヨーロッパでは難しかったとも理解できます。ただ考え方の基本として、「人工妊娠中絶の決定権は女性にある」とするのは、やはり公平性を欠くように思います。

「チベット問題」や「中絶に関する女性の権利問題」は、ある意味、一般的な解答(結論)が出ていると思われるトピックとして例にあげました。この二つに関するわたし自身の考えは、必ずしもカズオ・イシグロの言う「リベラル以外の考えをもつ人の意見」「多くの人にとって不快なもの」の典型ではないかもしれないですが、このような境界線上にある、どちらとも言い難い、でもリベラル側から攻撃を受けかねない考えも、実際にはたくさん存在するのではないかと想像します。

リベラル以外の人の感情や考えも知る必要がある、そういった考えをもつ人の世界観も芸術の中で表現されるべき、というカズオ・イシグロの考えに衝撃を受けたものの、現在のところ、100%理解できているわけではありません。すぐには飲み込めなくとも、考えつづけていこうと思っているということです。具体的にはどんな考えに対しても、どんな立ち場の人の発言にも、「聞く耳をもつ」ということでしょうか。発言する、ということ以上に、いまは、人の考えに耳を傾けることの重要性が増しているのかもしれません。

*この記事では「リベラル」という言葉を、「保守あるいは現状維持ではない、個人の自由や多様性を尊重する新しい考え方に積極的な思想、人々」の意味で使っています。
しかし現在この用語は、その解釈に大きな差異が生まれている、ということをニューヨーク市立大学のヘレナ・ローゼンブラット教授の記事で知りました(クーリエ・ジャポン)。この言葉は立ち場によって多様な意味で使われていて、中には相反するものもあるとか。アメリカでは現在、「リベラル」のレッテルを貼られることを嫌がる傾向もあるそうです。

見出し画像 by kuboyuka:なんとなくピンときて、みんなのギャラリーから選んだ1点。最初に思ったのは、リベラルな考えをもつ以外の人って、たとえばこんな感じだろうかと。保守に寄った考えをもつけれど、自分なりの生き方がある人。でもじっと見ていると、基本リベラルな考えをもちながらも、自分とは反対の意見をもつ人の話も、誠意をもって聞ける人、のようにも見えてきました。kuboyukaさん、ありがとうございます。

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