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[エストニアの小説] 第6話 #9 救世主ニペルナーティ(全17回・火金更新)

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 「父さん、父さん」 家に入った息子が窓越しに声をあげた。「こっちに来て、困ったことになるよ! 雄牛をもっと怒らせるつもりか? 冗談ではすまない、やつにやられてしまうぞ。家に入って、父さん!」

 息子の声には恐怖がみえた。ヤーンの妻のリースは、フェンスの杭の間で顔をゆがめ、農場主の一挙手一投足を燃えるような目で追った。本当のところは、夫のヤーンが恐がって、父親に警告しているのが不満だった。なんで邪魔するのよ? この人はいきり立つ家畜をどう扱うかくらいよく知ってる。そして雄牛は言うことをきいて、罰を受けるべきなの。どうしてこの雄牛は、ニシンの桶を壊すのか? なんでバター桶をドブに投げ捨てるのか? 納屋に行ってこの雄牛に餌をやるのも簡単じゃない。こいつはいつもこっちを睨みつけ、不満げで、気が狂ったみたいに角を振り立てる。だから、ヤーンは口をつぐんだ方がいい。あんたの父さんはどうすればいいかちゃんとわかってる。

 「家に入って、父さん!」 息子は収まらない。
 父親のヤークはグイとウォッカを飲み、ポケットに瓶を突っ込み、雄牛の方に歩み寄った。
 「恐がってるのか? この野蛮な牛が」 ヤークはにやりとして訊いた。「お前の主人が恐いか? じっと見るな、こっちに来い、おとなしく俺のパンチを受けろ。あー、たいしたならず者だ、お前は問題児だ、お前は悪魔の手下だ! 分別と従順さを叩きこんでやろう、ブリキみたいに真ったいらにしてやろう。お前は怒って、角を主人に突き立て地面を蹴るか? 待て、俺にどうやって従えばいいか教えてやろう」

 ヤークはムチで雄牛の頭を2、3度打ち、雄牛の真ん前にすくっと立った。しかし雄牛が退くことはなかった。グルリと一回りすると、頭を低く下げ、赤くなった怒りの目で主人を見た。鼻を大きく鳴らすと、白い湯気が輪を描いた。
 「なんてやつだ!」 農場主のヤーク・レオークが言った。「こいつは俺を恐がってない。たいした傲慢やろうだ!」
 農場主はまたムチを振り上げ、雄牛を打ち、また打ち、もう1回打った。雄牛の面前で、自分も動物になったかのように唸り声をあげた。この男は雄牛と同じくらい大きくて、強靭だった。羊皮のコート、上着、チョッキはボタンが外れ、前がはだけていた。毛皮の帽子の垂れがパタパタと揺れていた。ヤークはしっかりと大地を踏みしめた。

 「父さん、父さん!」 息子のヤーンが恐怖の声をあげた。「中に入って、入ってってば、父さん!」
 「俺はどこにも逃げんぞ」 ヤークが言い返した。「ちっぽけな子牛など、恐くもなんともない。こいつは俺の家畜だ、俺に従わなくては。このちくしょうめが、ハンゾーヤの主がどう家畜を扱うか、従わせるか見せてやらなくては。こいつに市に行く方法を教えてやる」
 ヤークはムチを放り投げると、地面から太い棒を拾った。
 ところがヤークが腰をかがめたその瞬間、雄牛が飛びついて角で主人をついた。ヤークはすっ飛ばされ、そこでじっと横たわった。しかし雄牛の方も、びっくりしたのか、足を取られたのか、よろめいて膝をついた。このやり合いをじっと見ていたニペルナーティが、隠れていたところから素早い動作で跳んできて、カートの綱の切れ端をつかみ、雄牛が立ち上がる前に、それを鼻輪に通した。ニペルナーティは雄牛を納屋の扉に縛りつけ、農場主のところに駆け寄った。
 「ああ、救い主よ、愛する神の息子よ」 ヤークが声をあげた。「いよいよ俺もおしまいだ! すぐに牧師と医者を呼んでくれ。俺はもう死ぬ。懺悔をしたい、神に魂をあずけたい」 ニペルナーティは慣れた風に主人の傷口を検証した。臀部に損傷があり、脇腹にも擦り傷があった。
 「牧師も医者も必要ない」 ニペルナーティがもったいぶって言った。「これくらいの傷は、ここで治せる」 
 「すごく痛い、がまんできない!」 ヤークが大声をあげた。「俺はまだ生きてるのか、それとも死ぬところなのか? 雄牛はどこだ、あの地獄からきた雄牛はどこだ。俺の血を見て、なんでまた襲ってこないんだ。あいつをおとなしくさせたのは誰だ」「わたしです」 ニペルナーティが自慢げに答えた。「もう雄牛は綱でつないであります。若い雌牛のようにおとなしくなってますよ」
 「で、あんたは誰だ?」 ヤークがうめき声をあげながら尋ねた。「あんたの名前は? 俺の命の恩人さんよ」
 「トーマス・ニペルナーティです」 そう答えた。「あなたみたいな地主ですよ。おそらく遠い親戚じゃないかと」
 「で、ニペルナーティよ、遠い親戚なのか?」 ハンゾーヤの主が訊ねた。「そんな名は聞いたことないな。だがあんたはいい奴のようだし、いいときにここに来た。みんな恐がってた。息子は家に走り込み、その妻はフェンスを飛び越えて逃げた。あんただけだ、俺と同じように勇敢なのは。あー、痛い痛い、たまらん。俺が死んでいってるとは思わんのか、このひどい一撃から回復すると?」

 「いや、あなたは死にはしませんよ。ちゃんと治りますって!」 ニペルナーティは自信ありげに答えた。「2、3週間、寝ていれば治ります」「2、3週間、寝てるのか?」 ヤークが驚いて声を高めた。「俺のところの穀物を誰が収穫する?」
 「わたしが手伝いましょう」 ニペルナーティがにっこりした。「わたしは頑丈な男です。わたしの農場ではもう収穫がだいたい終わってます。だけど今ここでそれを話してる暇はないですよ。すぐにあなたを運んで傷の手当てをしなくては。たいした一撃を受けてますからね」
 「こんな風に、ちょうどいいときに、農場に人が現れることがあるもんだ」 ヤークは嬉しそうに言った。
 ニペルナーティはヤークを助けて歩かせ、大声で叫んだ。「みんな、ここの農場の人たちはどこにいる? 農夫やメイド、息子のヤーンにリース、どこに行った? 早く来てくれ、ヤークおじさんを中に運ぶんだ。助けが必要なことがわからないのか? 人の命がかかってるんだ。早く、こっちに来て!」
 息子のヤーンが家から飛び出して来た。妻のリースもフェンスを乗り越えて庭に入ってきた。カティは門のところで立ち止まり、モールマーは畑から戻ってきた。
 「生きてるのか? 父さんは生きてるのか?」 息子のヤーンがこわごわ訊いた。「雄牛があんなに酷く突進するのを、あれ以上見てられなかった。すぐに寝室に走っていってベッドに潜りこんだ。あいつが父さんのはらわたを押しつぶすのを見たくなかった。誰があいつをなだめたんだ、納屋に縛りつけたんだ?」
 「わたしですよ」 ニペルナーティが自慢げに言った。「もしわたしも一緒になってベッドに潜りこんでいたら、ご主人の血が1滴、2滴、残ってるだけだったでしょう。でもわたしはちょうどいいときに来ました。雄牛にひざまずかせて、縄で結んだんですよ」
 「そうなのよ、そうなのよ。この人が全部やったんだから」 リースが声をあげた。「あたしは全部見てた」
 「そうだ、その通りだ」 ヤークもそう言った。「この人が俺の命を救ったんだ、俺の親戚のやつがな」
 「今ここで話してる時間はない」 ニペルナーティが言った。「ヤークおじさんをベッドに運んで、傷の手当てをしなくては。かわいい看護婦も連れてきますよ。大事なヤークおじさんはこれで安心です。カティ、どこにいる、カティ」

 門のそばに立って近寄ろうとしなかったカティが、走ってきた。「この人が看護婦さんかい?」 ヤークがカティを見て言った。「あんたと一緒に、この子は来たんかい?」
 「おじさんを早くベッドに運んで」 命令口調でニペルナーティ。「わからないのかい、おじさんは出血で気を失いかけてる」 農夫のモールマーがヤークの足を、息子のヤーンが頭を抱えた。それにニペルナーティとリースが手を貸した。そうやって農場主は家の中に運ばれた。

 「さてと、じゃあ、みんなそれぞれの仕事に戻って」とニペルナーティ。「オーツが畑で刈られるのを待ってる。リースも行って、わたしも後で行って手伝おう。カティ、きみはここでヤークおじさんの世話をして、それから家畜の世話もだ」「そうだ」 ヤークが嬉しそうに言った。「何もなかったみたいに、仕事は続けなければ。で、カティはここに残るんだな、それから家畜の世話をして」
 「傷の治療にタールがいるんじゃないかと」 畑に行きたくないヤーンが言った。
 「タールは必要ない」とニペルナーティ。「ウォッカで傷口を洗う。家のどこかにヨードがあるだろう。それと清潔な包帯も。わたしに任せてくれ」
 「でも、牧師か医者を呼んだほうがいいんじゃないか?」 息子のヤーンが訊いた。「必要ない、わたしがすべてやる、おじさんの面倒をみる」 ニペルナーティが揺るぎない声で言った。

 息子のヤーン、農夫、リースが畑に出ていくと、ニペルナーティはカティを牛小屋にやって、自分は農場主の世話をはじめた。傷に包帯を巻き終えると、毛布の中で休ませ、ベッドのそばにすわってウォッカを注ぎ、こう言った。「いい闘いだった。エホバの神みたいに、偉大なる罰を与える人だ。あなたは雄牛の前に立ち、雄牛は若い雌牛みたいにおののいていた。こんな勇敢な人は見たことがない。恐れることなく雄牛に立ち向かい、動揺したりしない」
 「あんたは俺におとらず不敵だ」と農場主。「で、あんたの名前はニペルナーティ、俺の親戚だと言ったな」
 「親戚関係については、わたしにもよくわからないんです」 ニペルナーティはウォッカをすすりながら説明した。「でもわたしの亡母がいつも言ってました。『トーマス、ハルマステに行くことがあったら、そこにはハンゾーヤの農園がある。わたしのところの農場もハンゾーヤと呼ばれてる。ハンゾーヤという農場が一つあって、そこの奥さんと親戚関係なんだ。そこに立ち寄ってみるといい。おまえの母さんの親戚がどうしてるか、見てくるんだ』 さらにこうも言ってました。『そこの農場の主の名前は、ヤーク・レオークで、奥さんはマリ・レオークっていう。二人には息子がいて、名前はヤーンだ』 で、わたしがここを歩いていたとき、死んだ母の願いを叶えてやろうと思ったんです」
 「そうなのか、わかった」 ヤークが言った。「あんたはちょうどいいときに来たもんだ。で、あの女の子も一緒に来たのかい?」
 「そうです、あの子も一緒に来ました」 ニペルナーティはそのように説明した。「貧しい家の子なんですが、とてもいい子ですよ。何も望むものはなく、ただ家畜や家の世話がしたいんです。で、わたしはこの娘をわたしの農場に連れていって、妻にするつもりです。でも彼女がわたしのハンゾーヤの農場にわたしの妻として来るかどうか、まだわかりません。そのことを話してないんです」

 「なんでまだ話してないんだ?」 ヤークが興味深そうに訊いた。
 「まだ腹がすわってないんです。家には気性の荒い叔父がいて、今はわたしのハンゾーヤの農場の主みたいな感じでいます。家に女の子を連れていったら、叔父はひどく腹を立てるかもしれない。騒動を起こすのは嫌なんです」
 「そういうことか」とヤーク。「だが、わたしはあの娘が気に入った。おとなしくて、内気な子だ。腰にひどい怪我がなかったら、自分からあの子に声をかけるだろうよ。で、あの子は家畜が大好きで、家の雑事をしたいわけだ。息子のヤーンには妻がいるけど、家畜も畑仕事も好きじゃない。妻のリースは来る日も来る日も、シンガーのミシンを買ってくれとせがむ。何か縫いものがしたいんだ、手芸がな。リースを牛小屋にやるには、手に棒をもって追わなきゃならない」
 「わたしのところのカティは、牛小屋から出てこさせるのが一苦労」 ニペルナーティは自慢げだ。「あの子を農場に連れて帰るときは、素敵な女性になってます。あの子がいれば、すぐにお金の中を転げ回るようになる。それにあの子は几帳面できれい好き、清潔なのが好きで、つつましくて、怠けたり、ゴロゴロしていられない」

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'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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