[エストニアの小説] 第6話 #2 15頭の丸々した乳牛(全17回・火金更新)
カティが反論しようとすると、ニペルナーティは強く胸に抱きしめて、こう言った。「自分の目で見てごらん。空には青い切れ目が出てきている、あれは夜に向かう印、そして雲のない星の夜になる。いいかい、反対しないで、不満を言わないで。今日これ以上歩くのは酷いことだ、いくらわたしの農場がもう近くで、わたしの森が見えていてもね。もう一晩だ、旅の最後の夜になる、こうして外で眠るのは。ここで気持ちのいい寝場所をつくってあげよう。ライ麦の干し草の俵で君のベッドをつくる、わたしのコートは毛布がわりだ。寒くはないだろう。必要とあればライ麦を百束でも持ってきて、君が想像もできないようなベッドをつくってあげる。だけど今は、ちょっと待っていてほしい、可愛いカティ、君のために食べるものを見つけてくるから。それから君の足を洗える、きれいな泉の水を探してくる。ここでちょっと待っていて。すぐに戻るから」
ニペルナーティは立ち上がり、出ていこうとした。
「ダメダメ」 カティがそれを止めた。怖がっている。「あたしも行く、這ってでも一緒に行く。あんたから離れるのはいや、一歩たりとも離れるのはいや!」
ニペルナーティがため息をついて、カティの隣りにすわると、おとなしくなり、小さな声でつぶやいた。
「ほら、あんたはまた不機嫌になった、あたしに不満があるんだ。だけどあんたの可愛いカティはこういう子なの。叩いたり、命令したり、罰を与えたりはできる、でもちょっとでもあたしを置いていくことはできない。あたしは哀れで頭が足りないの、あんたがあたしを置いて逃げるのが怖い。水を探しに行って、2度と戻ってこない。怒らないで。牛の首につけた鐘みたいに、あたしはあんたにくっつく。で、あんたはあたしから逃げられない。あんたは、あたしのことを心から思ってるわけじゃない、そうだよね。それに哀れで足りない女の子をかまう必要がある? あたしは持ちもの全部もって、この小さな荷物を手に家から出てきた。あたしには靴さえなくて、この木綿のスカートは穴だらけ、小さい穴、大きい穴、ふさぎようもないくらいたくさん開いてる。自分がどんだけ貧しくてみじめか、今ならわかる。暗くて寒い小屋に住むのが似合ってるって。だけどあんたは金持ちで、農場があって、牛小屋には15頭もの牛がいる。なんであたしみたいなのに、気を向ける? あんたは今、こう考えてる、きっと。どうやったら、この役立たずの女の子を、ゴボウの実みたいにくっついて離れない女の子を追い払うことができるか。それを考えて、気分を悪くしてる。15頭もの丸々とした乳牛がいて、毎年、子牛が生まれてくる、あんたそう言ったよね」
「15頭もの丸々とした乳牛」 ニペルナーティが悲しげにその言葉を繰り返した。「15頭全部が丸々しているわけじゃないし、すべての牛がミルクを出すわけでもない。本当のことを言えば、15頭のうちまだ子を産んだことのない雌牛もいれば、子牛もいる。数は確かに15頭の雌牛だが、まだ角のないものもいて、からだが弱く、足も弱く、目もまだちゃんと見えていない。ちっちゃな子牛について言えば、ただのミーミー言ってるだけの役立たずだ」
しかしカティは、このニペルナーティの言葉さえ聞いていない。
「15頭も牛がいる」 カティは夢見心地。「家畜がいて、それもたくさんいる。馬に豚、羊に鶏。全部あんたのものなんだ。1日に3回はミルクがとれて。それからガチョウや七面鳥もいるんじゃないかな。大きな農場にはたいていガチョウやカモや七面鳥がいるもんだ。雄牛もいるの、トーマス」
「ああ、1頭いる」 ニペルナーティが静かに答えた。
「気性は荒い?」
「気性は荒い」
カティはニペルナーティの首に手をまわして、恥ずかしそうに、無邪気にこう言った。「あんたに言うことがある。でも怒らないでほしい。自分があんたを好きなのか、牛が好きなのかよくわからない。毎日毎日、あんたの後をついて歩いていて、自分が牛や馬や羊のことを考えてるって気づいた。あんたのことじゃなくてね。悪いかなと思うけど、あんたの奥さんになることより、牛や馬がいっぱいいてモウモウ、ヒヒーンって鳴くのを聞くのが幸せなんだ。あんた、怒ったかな?」
「いや、ちっとも」 ニペルナーティが作り笑いをする。「わたしも動物が大好きだ」
カティはちょっと考えて、自分の傷だらけで土をかぶった足を見て、こう言った。「あんたがあたしの家の小屋に来たときのこと、覚えてるかな。もう夜で、あんたはドアをノックした。そして泊まらせてくれないかって尋ねた。だけど母さんの小屋はすごく狭くて、大人の男が寝る場所なんかない。それに家には子どもがいっぱいで、あんた見たよね。隅から隅まで子どもでいっぱいで、泣きわめいてた。母さんが食べるものをやってないからだ。するとあんたは出ていって、パンとミルクを持って帰った。それを子どもたちにやって、もう一度泊めてくれないかって頼んだ。母さんはあたしをそばに呼んで、こう言った。「妙な男が来たね、あたしをご婦人って呼んでる。そして泊めてくれって、見ればそんな場所がないのがわかるのに」 するとあんたが寄ってきて、小屋の中に入る必要はないと言った。入り口のところで充分、頭を置くのにちょうどいい丸太でもあれば、とね。そんな風だったよね?」 ニペルナーティは笑って答えなかった。
「それであんたは家の小屋の前でその晩寝たんだ。で、次の朝になっても出ていかなかった。家にそのままいて、子どもたちの世話をして、小屋の修理をしたり、家の主人みたいにふるまってた。あんたが湖まで走っていったら、子どもたちが声をあげてあんたを追いかけていったのを覚えてる? 湖に着いたら、遊ぶんだと思った。だけどあんたは砂とせっけんで子どもたちのからだを洗ってやったんだ。水の中に引き込んで、羊にするみたいに、一人また一人とひざの間に子どもを挟んで、からだを洗ってはゆすいだ。子どもたちが悲鳴をあげたり抵抗しても、無視してた。子どもたちは水から上がったとき、恥ずかしそうで気落ちしてた。叩かれたみたいに、一人ずつ家に向かって歩いていった。キャーキャー言ったり笑ったりなしでね。『明日は君を湖に連れていこう』 あんたはあたしにそう言った。『あたし、そんなに汚い?』 あたしは声をあげて笑った。するとあんたはこう言った。『君は汚くはない、でも湖に連れていく』 あたしはバカだから、多分、顔に土くれとか炭のかすがついてるんだと思った。あんたは汚れを見つけるに違いない。それであたしは日が昇る前に起きて、湖まで走っていった。それで湖でどんだけからだを洗ったことか。ゆすいで、からだの隅々まで汚れを掻き落として、何百回もだ。街にいるご婦人よりずっときれいになったと思った。それなのに家に戻ると、あんたは何にも気づかない」
「気づいてたよ」 ニペルナーティが言った。「君の髪はまだ濡れてたからね」
「そうだ、あんた覚えてるかな」 カティが言葉を挟んだ。「ちびのピープのシャツを縫ってやったこと。古いシャツはもうボロボロで、あの子のからだからずり落ちていた。裸で歩いてるみたいで、手も足もお日さまで焼け放題。あんたはちびのピープが可哀想だったんだね。店に行って布切れを買ってきて、自分で縫ってやったんだよね。あたしたちはあんたのまわりに集まって、奇跡が起きたみたいにじっと見てた。母さんもそれを見て、頭を振って、こう言った。『いいや、これはよくないことだ。知らない男がうちの小屋にやって来て、あたしらのためになることをして、お金や時間を使うなんてことは。もうこんなこと終わりにしなければ』 そのときになってあんたは口をきいた。ヘビにでも噛まれたみたいに飛び上がって、小屋の真ん中に立って、目をギラギラさせてね。『なんだって、なんだって!』 そう言って怒った。『ここでわたしが何かをやって時間をつぶしたって? 使ったのはたった2、3クローンだろう、ここに泊まるための代金なんだよ。それにわたしは誰も助けてはいないし、何も果たしてはいない。もしここから追い出そうというなら、出ていってもいい。でも希望が叶うなら、もう2、3日ここにいたい。この近くに、わたしは大きな農場をもってる。15頭のよく肥えた牛が牛小屋にいて、5頭の馬が畑を耕している。だけどライ麦畑での収穫で、わたしのからだは疲れ切ってる。少し休みたいと思った。だけど農場では休めない。それで少しの間、田舎をブラブラ旅してるんだ』
「あんたの言うことを聞いていて、あたしたちはポカンと口をあけて驚いていた。『じゃあ、あんたは金持ちの農夫なんだね』
そう母さんが小さく言うと、エプロンで小さなベンチを拭いて、それをあんたの方に近づけた。『でも金持ちの農夫がこのみすぼらしい小屋にいるのはよくない、ここは貧しい、恥ずかしいよ。もっと金持ちの人があんたを喜んで受け入れてくれるはず、こんなみじめな場所にいることはない』」
「するとあんたの目があたしを見た。そしてにっこり笑って母さんにこう言った。『もしかしたら、ここにいる別の理由があるかもしれないよ。わたしは独身だ、ここには若い娘さんがいる』 すると母さんが言った。『金持ちの農夫が、嫁を探しに貧しい小屋をうろつくって?』 あんたは頓着せずにこう答えた。『あー、なんであれ、わたしは充分金があり、一生困らずに暮らしていけるんだ』」
'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)
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