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V.ガブリエル・フォーレ、人物とラヴェルへの影響

・人間として、教師としてのフォーレ
・国民音楽協会
・『耳で聴く風景』、とその失敗
・『シェエラザード』序曲、そして批判
・初期の歌
・『亡き王女のためのパヴァーヌ』

ラヴェルは1889年、14歳のときパリ国立高等音楽院に入り、そこで15年間過ごしました。ここでアンチオーム、シャルル・ド・ベリオ、エミール・ペサール、アンドレ・ジェダルジュ、ガブリエル・フォーレに音楽理論や作曲を学んでいます。この章は「IV. ラヴェル、作曲をはじめる」の続きです。
参考:
III. ラヴェルの時代のパリ国立高等音楽院 
IV. ラヴェル、作曲をはじめる

 ラヴェルはアンドレ・ジェダルジュ*のクラスで数年間を過ごした。対位法を学ぶ道筋において、生まれながらの機械好きの指向と、複雑な和声展開への関心が、ラヴェルの知性を高め、細部の構築をさらに入念なものにした。対位法をものにしないことには、立派な作曲家になることは不可能だと気づいたからだ。のちにラヴェルは、アンドレ・ジェダルジュの貴重な教えに多くを負っていると語っている。しかしラヴェルを教えた教師の中で、影響力が最も強かったのはガブリエル・フォーレだった。

*アンドレ・ジェダルジュ:フランスの作曲家、音楽理論家。1856〜1926年。世界最高水準の音楽教師と言われた、ナディア・ブーランジェを教えたことでも知られる。原典ではHenriとなっているが、Andréの間違いと思われる。

 フォーレの音楽が国外で知られていなかったことは不運だった。同胞の作曲家たちの多くは、彼がフランスの作曲家の中でも最高の一人である(一番でなかったとしても)と信じてきた。フォーレの音楽は基本的にフランス的である。エレガントで抑制があり、明快にして優雅、大げさなところや圧倒するようなものはない。

 ガブリエル・フォーレは1845年、6人兄弟の一番下の息子として誕生した。先祖に音楽家がいたようには見えない。祖父と曽祖父は肉屋で、父親は学校の教師だった。フォーレが4歳のとき、モンゴージーに居を移し、一家は父親が勤める校舎につづく建物に住んでいた。後年、フォーレはその美しい庭と校舎に隣接する礼拝堂を回想している。フォーレは教会音楽を愛した。父親はフォーレが8歳になると、パリに息子を連れていき、教会音楽を教えるニーダーマイヤー校に入学させた。

 子ども時代のフォーレは従順で勤勉なところがあった。学科の中で音楽は、他の生徒を大きく凌いでいた。フォーレは優しく理性ある性格で、孤独を好み、夢見るようなところがあったが、ニーダーマイヤー校は、フォーレのこの性向の大きな歯止めとなった。たとえば生徒は大きな教室で、一斉にレッスンを受けていた。15台のピアノに、15人の生徒が並び、集中力を養うという思い切った教授法だった。

 1860年、若きサン・サーンス(当時25歳)が、ニーダーマイヤーに教師としてやって来た。サン・サーンスは年若いフォーレに大きな刺激を与え、のちに生涯の友となった。フォーレを「かわいい肥えた猫」と愛を込めて呼んでいた。

 フォーレは20歳になると、レンヌでオルガン奏者の職を得た。それに続く数年の間に、フォーレはパリに戻り、サン・ノーリー・デル教会、サン=シュルピス教会、そして最後にはマドレーヌ寺院のオルガン奏者となった。

サン・ノーリー・デル教会 Photo by Peter Potrowl

この間、フォーレは多くの歌曲や室内楽曲をつくり、またフィガロ紙の音楽評論家に指名された。フォーレはソネットのパロディを書いて、友人たちを楽しませるところがあった。(フォーレの息子、エマニュエル・フレミエの話)

 1877年、フォーレはサン・サーンスとワイマールへ旅し、そこでフランツ・リストと出会う。その少しあと、ワーグナーとも知り合いになる。しかしワーグナーの音楽には、その大音量と大仰さのため打ちのめされることになる。フォーレは生来のものとして、過度の強調に恐れをもち、それは味わいを消すものと考えて、静かで明快な自分の音楽の方を好んだ。「親密さのある詩人」とフォーレは呼ばれていた。フォーレの格言:小さな音で、多くのことを言う。

 フォーレの『レクイエム』(最高傑作ではないか)は、1866年、父親の死のすぐ後に書かれた。歌劇『ペネロープ』はその20年後の作品である。しかしフォーレは、主にピアノ曲と室内楽曲で知られている。フォーレの作品はどれも、繊細な美しさと詩的な魅力に溢れている。またそこには和声的な革新もあり、独自性と当時の音楽に対して挑戦的とも言えるものがあった。とは言え、音楽愛好家を驚かせるほどのものではなかった。

 1896年、フォーレはパリ国立高等音楽院の上級作曲科の教授となり、1905年には音楽院院長になった。この時期に、フォーレにとって悲劇の時代がはじまった。ベートーヴェンやスメタナがそうであったように、聴覚を失いつつあったのだ。当初、このことを周りの人々に隠そうと努めた。妻だけが苦境に耐えるフォーレを知っていた。妻に宛ててスイスから次のような手紙を送っている。

わたしにとって最も大事な守るべきものを失いつつあることに打ちのめされている。わたしは常に、ひどい惨めさに襲われ、意気消沈させられている。

Philippe Fauré-Fremiet, Gabriel Fauré

 どうしたことか、さらなる歪みがフォーレの苦悩に加えられた。低音部の音が3度高く、高音部は3度低く聞こえるのだ。不平を言わずにこの苦境に耐えていたが、ついにこのことは明らかになり、1919年、フォーレは音楽院を辞任するよう請われる。そのときまでにレジオンドヌール勲章を得ていたものの、それによって「音楽家として欠ける」という屈辱を相殺させるのは難しかった。そこからさらに5年間フォーレは生き延び、不運にもめげず、作曲をつづけた。生涯最後の作品は、80歳のときに書かれた弦楽四重奏曲で、死の数週間前に完成し、最高傑作の一つとされている。

 ガブリエル・フォーレは非常に優しく、気取らない性質の人物だった。難聴が進むと、フォーレの音楽は(ベートーヴェンがそうであったように)、新たな地平へとたどり着き、さらなる深さを獲得した。生涯をとおして、フォーレは自分の理想に正直だった。「楽しみのため、便宜をはかるため、うまくやるために音楽をつくらない。本当に自分の内にあるもの、自分の中から聞こえてくるもののみを書く」と言って。

 著名な作曲家マスネが20年近く作曲科の長を務めたあと、フォーレが1896年にやって来て、カビ臭い音楽院に新しい、解放的な空気を教室に持ち込んだ。フォーレのクラスは、昔ながらの授業とは違い、まるで楽しいサロンのようだった。そこでフォーレはホストを務め、輝かしい若き音楽家たちを受け入れ、大いなる興味をもってその作品に耳を傾けた。批評をするというより、提案をした。類まれな音楽への理解力は、その影響下にいた幸運な学生たちへの大いなる刺激となった。自身は古い学派の元に育ったわけだが、フォーレは広い心をもち、新たな様式に大いなる興味を抱いていた。自分の生徒たちに、創造性を発揮するよう勇気づけた。

 フォーレはときに、厳しい批評をすることもあったが、判断が早計であったと気づけば、いつでも自分の意見を変える用意があった。あるときフォーレはラヴェルの提出した作品を手厳しく批判した。しかし次の授業では、自分の判断は早計であったかもしれないと思い、再度作品を見せるようラヴェルに頼んだ。

 「でも、もしもう一度この作品を出して、あなたがやっぱり良くないと思えば、自分を責めることになります」とラヴェルは答えた。

 「わたしの方が間違っていたかもしれない」 そう寛容な師は返した。

 ラヴェルには卓越した能力があるとフォーレは認識しており、多くの提案や示唆をしていた。若いラヴェルの成長にとって、それはかけがえのない助けとなっていた。あの輝かしい「水の戯れ」と弦楽四重奏曲には、あきらかにフォーレの影響が見られた。ラヴェルはこの両作品を「わたしの愛する師、ガブリエル・フォーレへの献辞」とすることで、それを認めている。フォーレの死の2年前、1922年に、ルヴュ・ミュジカル誌はフォーレを称える特集号を出した。ラヴェルは室内楽曲『ガブリエル・フォーレの名による子守唄』をそこに寄せている。

 フォーレのクラスに入って1年後(1898年3月)、ラヴェルの音楽は国民音楽協会で初めて演奏された。この文化団体は1871年、サン・サーンス、マスネ、フォーレなどによって設立された。その目的は、「既刊、未出版によらず、芸術に心を傾けるフランスの作曲家の作品を奨励し、普及するために。様式のいかんを問わず、作曲家に芸術的に高い野心があることが明らかであれば、すべての音楽的な試みに光をあて、勇気を与えるために」とある。コンサートがパリの様々な会場で、隔週土曜日の夜に開かれた。一番多く使われたのがパリ8区のロシュシュアール通りの古いサル・プレイエルで、後にこれは壊され、フォーブール=サントノレ通りに新たに建てられた。この時代を先導する作曲家たちが皆これに参加し、ここで行われたコンサートを通して、自分の楽曲を世に知らしめることができた。

 20代前半になったリカルド・ビニェスは、ピアニストとしてのキャリアを成功させていた。ラヴェルの最も親しい友人であり、その作品に大きな信頼と尊敬を寄せてきた人物であると言われてきた。それで国民音楽協会で演奏を頼まれると、プログラムの中にラヴェルの楽曲を含めた。

 ラヴェルはこの時期に、卓越した楽曲『ハバネラ』に『鐘の鳴るなかで』を加えて組曲とし、サティを思わせる空想的なタイトル『耳で聴く風景』と名づけた。これをラヴェルは四手による2台のピアノのために作曲し、ビニェスの第1ピアノに対して、マルト・ドロンが第2ピアノを弾くために選ばれた。

 若い作曲家にとって、最初の演奏の公開は気持ちの高ぶる瞬間だった。ラヴェルは聴衆の中に着席した。「どんな風に演奏されるのだろう。曲を好きになってくれるだろうか? 聞き逃されてしまうだろうか。モダン過ぎはしないか?」 モーリスは聴衆がどのように受け取るか心配げに見守った。

 しかしなんということか。『耳で聴く風景』は惨憺たる結果に終わった。ビニェスとマルト・ドロンはプレイエル製の最近発明されたピアノで演奏した。「2台のピアノが一つに」と言われ、向き合ったグランドピアノのカーブがそれぞれの凹凸に収まり、四角い形の中に収まっている。そのため、二人の演奏家は向かい合っていたものの、楽譜がピアノ台に立てられていたため、互いの顔が見える状態ではなかった。そして『鐘の鳴るなかで』には、2台のピアノが交互にリズムを交差させる、いくつものシンコペーションの部分があった。ところがビニェスとマルト・ドロンは、リズムをとる合図を送り合うことができず、途中で交互に弾くべき場所を、二人一緒に弾いていることに気づいた。その結果、(正しく弾けば大胆な表現となるべき)音楽はひどい不調和の連続となった。聴衆はこの「音の虐殺」に憤慨し、不満の言葉をあらわにした。評論家たちも揃ってラヴェルの作品をこき下ろした。そのため、最近の人気作品『ハバネラ』でさえ、賞賛を受けることがなかった。

 仕方のない失敗であり、この悲劇についてラヴェルが友だちを非難することはなかった。ビニェスの方は若い作曲家にとってこれがどれほどがっかりすることか、そこまで想像できなかった。ラヴェルは自分の気持を表に出すことを拒み、いつも自分の内にしまい込んだ。そして真のアーティストがそうであるように、この失敗を新たな作品に力を注ぐことで忘れた。『シェエラザード』序曲である。

 ラヴェルはその頃、アントワーヌ・ガランによる『千夜一夜物語』のフランス語版を読んで、色彩豊かでドラマチックな空想物語を音楽にすることを思いついた。最初は、オペラ作品を書くつもりでいた。しかしそのときは、序曲だけで終わった。

 ラヴェルの最初の発表曲があのように不成功だったにもかかわらず、国民音楽協会はラヴェルに1年後に曲を発表する機会を与えた。あるコンサートで、ラヴェル自身の指揮で『シェエラザード』序曲を演奏するよう招いた。というわけで、ラヴェルは『耳で聴く風景』で被った悪いイメージを埋め合わせたいと思った。主だった批評家たちが参加し、その中に著名な評論家ピエール・ラロがいた。つまるところ、若い作曲家たちのキャリアにとって、これほど重要なものはないと言っていいものだった。

 ところがまた、演奏は失敗に終わった。聴衆は『シェエラザード』を褒めなかったばかりではい。もっと悪いことに、あけっぴろげにからかった。桟敷席からはやじが飛び、口笛とブーイングに満たされた、、、批評家は無慈悲にラヴェルの楽曲をずたずたに引き裂き、中でもピエール・ラロは立腹の極地だった。

ムッシュー・モーリス・ラヴェルはパリ音楽院の若き学生で、同級生や教師は彼をめぐって大騒ぎしています。もしこれが「クラシック音楽の様式による」序曲であると、ラヴェル氏が信じるのなら、我々はラヴェル氏が相当な想像力を発揮していることに賛成せざるを得ません。彼のスタイルはグリーグの構造を思い出させ、さらにはリムスキー・コルサコフやバラキレフにも及びます。全体のプランや音と音の関係性において、同じような支離滅裂さがあります。さらにそういった手本の中で際だつ特質が、この学生によって過剰に表されているのです。

Pierre Lalo, in Le Temps , June 13, 1899

 この早い時期にあってさえ、ラヴェルは自分の確かな能力を感じていた。友人のアンリ・フェブリエ(音楽院時代の同級生)に次のように語っている。自分が何をしたいかわかっている、あとは達成するだけだ(“J’ai trouvé ce que je veux dire, et je le réaliserai.” )。批評家たちは先見の明がなく、この作曲家が何を言おうとしているか理解しなかったため、ラヴェルは彼らを無視し、自らの内に湧き上がるものに集中することにした。ラヴェルはもとより何ごとにも超然としたところがあり、皮肉たっぷりの態度をとることがあった。初期の作品発表の失敗によって、ラヴェルは内気になり、それは批評に対しての鎧となった。さらにそれが外部の意見に対しての軽蔑へと発展した。

 『耳で聴く風景』『シェエラザード』序曲は、後の作品の中でそれぞれの断片が見られるものの、出版されることはなかった。ラヴェル自身はこの序曲のことをあまり考えることはなかった。「悪い出来だし、全音階で埋め尽くされてる。あの曲ではうんざりするようなことばかり」 しかし『シェエラザード』のアイディアはラヴェルを捉えて離さなかった。1903年、ラヴェルはタイトルといくつかの主題を三つの歌の組曲の中でつかっている。

 ラヴェルは初期の『愛に死せる女王のためのバラード』と『暗く果てしない眠り』以来、いくつかの歌曲を作曲してきた。1896年、まだ21歳だったラヴェルが書いた『聖女』は、マラルメの娘ジュヌビエーブに捧げられた。この歌では、ゆっくりとしたコード進行が、マラルメの詩の暗く宗教的な空気を表している。歌声の方は、夢のような空想の中、ステンドグラスのある古代の大聖堂でうたわれ、金色の森の中に寡黙な聖者が立っている:

沈黙の音楽家….

ラヴェルはこの曲を解決しない9の和音で終わらせる。それは皮肉な、あるいはもの問いたげな印象を残す。

 1898年には『二つのエピグラム』(マロの詩による)と題した美しい歌がつづく。『私に雪を投げるアンヌへの』がルネッサンス期の宮廷の風格や荘厳さを思わせるのに対し、『スピネットを弾くアンヌへの』はもっと軽やかなスタイルをとっている。この二つは1900年に、国民音楽協会で、アルディ・ティによって歌われた。同時期に書かれた『とても退屈(Si Morne)』は、ヴェルハーレンの詩によるものだが、これは未出版のままだった。

 ラヴェルの作品で最初に好意的に受け取られたのは、『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。古いスペイン宮廷ダンスの繊細な描写が、深い優しさと内なる感情を隠した風格ある書法で表され、人々の想像力を強く刺激した。

 『パヴァーヌ』は16世紀ごろのイタリアかスペインに起源をもつ古代の宮廷ダンスである。その名はラテン語のpavo(クジャク)から来ていると言う者もいる。パヴァーヌは金持ちの娘たちの結婚式で、祝祭の日には王と女王をもてなすために演奏された。ゆっくりとした踊りで、踊り手たちが、広間を3回まわるだけの充分な長さをもって終わる。

亡き王女のためのパヴァーヌ

 ラヴェルは『パヴァーヌ』というタイトルには特別な意味はない、と言っている。単に「音の響きが好きだったから」とのこと。しかしこの作品について、たくさんの物語が編まれてきた。レイモン・シュワブは『青い物語』の中で、「ラヴェルに捧げた物語、『亡き王女のためのパヴァーヌ』にちなんだ『なぜなぜ赤ちゃん(Infante Porquéporqué)』」を生き生きと描いた。

 この物語の中で、ブルーの錦織りのガウンを着たマドモアゼル・ナゼナラ(なぜなぜ赤ちゃん)は、王様の前で、10歳の誕生日に、自分のために作曲された『パヴァーヌ』を踊る。この子が歩けるようになってからずっと練習してき演目だ。ダンスは成功するものの、この子はそれに目もくれず、静かに自分の部屋へと引きこもる。その日以来、彼女は外の世界への興味を失う。そしてただ『パヴァーヌ』の曲だけを聞きたがる。じょじょに彼女はからだが麻痺していき、ほとんど盲目となり、ついには死を迎え、模範的な信心深さの中、ブルーの錦織りのガウンを着たまま、まっすぐに天国へと向かうのだった。

 天使たちが彼女を導き、支えるが、王女は『パヴァーヌ』をなんとか聞こうとし、地面にひれ伏す。天使たちは彼女を聖セシリアの元に連れて行く。小さなこの子は聖人の神々しいメロディを楽しめない。目が見えず、麻痺状態となった王女には、聴覚だけが残された。天国の強大な音調は、この子を無感覚にしたまま。王女が唯一望むこと、それは自分の『パヴァーヌ』を耳にすることだけ…..

 『亡き王女のためのパヴァーヌ』のゆっくりとしたテンポは、悲しみの感情を強調したいがために、ときに誇張して演奏されることがある。ラヴェルは一度、この曲を真面目ではあるが創造性のない子どもの演奏で聴いた。「いいかい、わたしが書いたのは、死んだ王女のためのパヴァーヌなんだ。王女のための死んだパヴァーヌじゃない」と優しく言った。

 ラヴェル自身は、この作品を高く評価はしていなかった。曲の輪郭が弱々しく、シャブリエの影響を強く受けすぎていると見ていた。後年になってラヴェルは、「良くないところしか見えず、良いところが見えなかった」と語っている。ロラン・マニュエルは、「この作品は、ピアノの演奏がさほどうまくない若い女性たちから賞賛を得た」と述べている。

 19世紀の終わりの年に書かれたこの曲は、ラヴェルの人生における、初期の終わりでもある。この時期に属するのが、未出版の『グロテスクなセレナード』『愛に死せる女王のためのバラード』『暗く果てしない眠り』『耳で聴く風景』『シェエラザード』序曲、歌曲『聖女』『二つのエピグラム』『とても退屈』、そして『古風なメヌエット』と『亡き王女のためのパヴァーヌ』である。これらの作品はどれも、美しいメロディと緻密さがあるものの、ラヴェルはこれ以降、さらに自分の音楽を探索し、自分にとって本質的な表現様式へと発展させようとしていたのではないか。

 20世紀の始まりに、基礎づくりのための充分な訓練、思いやりのある指導、刺激を与えてくれる新たな友人たちといったものを手にし、ラヴェルはキャリアにおける第2期を始めるタイミングにあった。音楽の世界に、自分独自の特別な才能をめいっぱい反映させる時期である。



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