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IV. ラヴェル、作曲をはじめる

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・シャブリエとサティの影響
・最初の作品『古風なメヌエット』と『ハバネラ』
・文学作品からの影響

 パリ音楽院に入学してすぐ、ラヴェルはエマニュエル・シャブリエ*の作品と出会い、その輝きとユニークさのとりこになった。ついにラヴェルはもとめていた「新しさ」や「生き生きしたもの」、「音楽の語りの素晴らしさ」を発見したのだ。ラヴェルはシャブリエの楽曲を熱心に学び、四手連弾のピアノ曲『3つのロマンティックなワルツ』をいっしょに弾こうと、ビニェスを説得した。
*エマニュエル・シャブリエ:フランスの作曲家。1841〜1894年

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 二人の少年はシャブリエの音楽を心から称賛していたので、この高名な作曲家にぜひとも会いたいと思っていた。そして『3つのワルツ』をマスターすると、モーリスはビニェスにこのように提案した。「ムッシュー・シャブリエに、この曲を聞いてもらえるか頼んでみようよ。ぼくらの解釈をどう思うか教えてもらおう」

 ビニェスは半信半疑だった。「名もない学生の演奏を、あの偉大な作曲家が聞いてくれたりするかな?」
 しかしシャブリエは二人が心配するような、人を寄せつけない人物ではなかった。二人の16歳の少年を、誰にもそうしているように誠心誠意で受け入れた。そして『3つのロマンティックなワルツ』に注意深く耳を済ませた。ところがシャブリエは、途中で何度も演奏を中断させ、様々な批評や反対意見を加えたので、二人の自信はぐらついてしまった。

 アレクシ=エマニュエル・シャブリエは、活気に満ち、人を惹きつける魅力にあふれた巨漢だった。生命力とユーモアにあふれ、心から笑い、鋭いウィットを瞬時に発した。批評家がシャブリエの音楽をセンチメンタルだとか、「この上ない悪趣味」と非難したとしても、音楽の輝きや新奇性を否定はできなかった。
 シャブリエは自分のもっとも大切なことである作曲活動に専念するまでの15年間、内務省で仕事をした。その時期のことを「失われた15年」と後悔とともに語っていた。ところがひとたび作曲に専念しはじめると、「失われた15年」はまたたく間に埋め合わされた。シャブリエは主として独学でやってきた。シャブリエが従来のやり方や伝統に収まらなかったのは明らかで、その作品には豊かな独自性と想像力が投影されていた。それはフランス近代音楽の発展に大きく貢献した。
 シャブリエは同時代の主要な作家や画家の多くと親交を結び、その中にはヴェルレーヌ、モネ、マネ、ルノアールなどがいて、すべて保守反動派の人々だった。またシャブリエの音楽は、これらアーティストの色合いや印象主義の反映でもあった。

 シャブリエのユーモアある想像力は、たくさんの歌の題名にも現れている。『太った七面鳥のバラード』『ばら色の豚たちのパストラル』『小さなあひるたちのヴィラネル』といった。しかしシャブリエはオペラ『いやいやながらの王様』(3回舞台に乗ったものの、1887年に火事でオペラ=コミック座が消失した)や豊かでカラフルなオーケストレーションの名作、狂詩曲『スペイン』でその名を知られた。
 シャブリエからラヴェルが受けた影響は、初期の作品の多くで明らかである。『グロテスクなセレナード』(残っている最初の作品:1893年)には、シャブリエのスタイルが色濃く残っている。ラヴェル自身、『亡き王女のためのパヴァーヌ』はシャブリエの影響を強く受けており、自分の初期の成長にとって非常に重要であったと認めている。

 父親のジョセフは、モーリスの音楽教育期間のすべてにわたって強い関心をもって、その進展を見守っていた。新しい作曲家たちへの息子の熱意を父も共有していた。モーリスがある日、音楽院から帰ってくると、父親が見知らぬ人と話をしていた。無頓着な服装に尖ったあごひげ、ユーモアに満ちた眼差し、小さなアパートの客間はその男の存在感で満たされていた。
 「わたしの息子は近代音楽にとても興味をもっていましてね」 父親はモーリスをそのように紹介した。
 「人はわたしをモダン(近代)と言うけれど、それは称賛ではないんです」 その客、エリック・サティ*は皮肉っぽく笑いながらそう答えた。
*エリック・サティ:音楽界の異端児と言われたフランスの作曲家(1866〜1925年)

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 サティは同時代の音楽家の中で評判の人物だった。才能はあるものの極端にエキセントリックで、あらゆる伝統に逆らうことを喜びとしているように見えた。また保守派の人々を耳障りな不協和音や自作につけた奇妙なタイトルで憤慨させるのも好きだった。『梨の形をした3つの小品』『ジムノペディ』『ひからびた胎児』『不味そうなコラール』『真夏の夜の夢のしかめっ面』といったもので、これはサティの奇妙な思いつきのほんの一部に過ぎない(これらの作品を「気取ったユーモア」と呼ぶ人々もいた)。

 エリック・サティは1866年、スコットランド系イギリス人の母とフランス人の父のもと、フランスのオンフルールに生まれた。早い時期から、世界のあり方に対して反抗心を見せるところがあった。サティが仲良くしていたのは叔父の「ウミドリ(See-Bird)」で、その人の独創的で慣習にとらわれない性格は周囲をあきれさせていた。
 12歳のとき、エリックはパリに引っ越した。そこで父親は小さな音楽出版事業をはじめ、息子に音楽を学ばせようとした。1879年、エリックはパリ音楽院に入学した。しかし「大きな建物は居心地が悪く、見た目も醜い。町の刑務所みたいな場所で、楽しいことが中には何もない、さらにはその外にもない」と言って、嫌がった。音楽院にいる間、エリックは音楽の基礎を身につけるための勉強に、非常に反抗的だった。後になって、この時期に怠けたことを後悔した。

 徴兵を免れるため、若き日のサティは寒さに身をさらし、気管支炎で死にそうになった。その回復期に、フローベールの『サラムボー』を読み、そこから著名な組曲『ジムノペディ』の着想を得た。サティの楽曲のいくつかは好意的に受け取られたが、失敗に終わったものの方がずっと多かった。そして年月がたつ内に、ひどい貧乏に陥っていった。パリ郊外のアルクイユに住居を移したが、そこはクローゼットのように小さな住まいで、絶望と意気消沈の日々を過ごした。ラヴェルの父がサティに最初に出会ったのは、その住まいの近くにある質素なカフェだった。
 やがてサティは自分が成功を逃したのは、若い頃の不勉強のせいだと思うようになった。それで1905年、もう40歳近かったが、すべて学び直す決心をして、作曲の学校としてどこよりも厳格、厳正なスコラ・カントルムに入学した。友人たちの多くがこの計画にくぎを刺した。その中には、1917年に意見の相違で関係を断つまでは親しい友だったドビュッシーもいた。「気をつけろよ」とドビュッシーはサティに忠告した。「きみは危険なゲームに挑んでる。きみくらいの年齢になれば、自分を変えることはできない」 それに対してサティはこう応えた。「ここでしくじったらもう救いようがない。根性がない証になる」 
 サティは誰よりも独創的な性格の持ち主で、「何にでも驚いてみせ、いつまでも素朴な子どものままだった」と言われる。サティは皮肉屋だが、親切でもあり、すぐに憤慨するがすぐに謝りもする。動物と子どもを愛し、自分の少ない資金を使って、近所の貧乏な子どもたちを田舎に連れ出したりもしていた。

 モーリス・ラヴェルはエリック・サティの熱烈な崇拝者となった。新進気鋭の若手作曲家モーリスは、サティの楽曲を弾いたり、分析したりすることに夢中で、飽きることがなかった。ある日、モーリスは『ジムノペディ』を音楽院のクラスに持ち込み、その変わったハーモニーで同級生を驚かせた。突然教室にやって来たピサール教授は、自分の耳が信じられなかった。
 「きみは何を弾いてるんだ、ラヴェルくん」 そう言うと、とがめるように楽譜を取り上げた。「ジムノペディだって? ふ〜ん、どういう意味だ? エリック・サティか!」 教授は楽譜を教室の隅に投げ捨てた。「こんなクズみたいなものを手にとるんじゃない、いいかな。本物の音楽とは言えないものだ」
 しかし保守的で古い考えの音楽家たちからの批評が、ラヴェルのサティへの忠誠を揺るがすことはなかった。サティの方も苦笑いしつつ、ラヴェルの自分への献身を密かに喜んでいた。「彼は会うたび、わたしにたくさんのものを負っていると主張するんだ」

 1910年、ラヴェルはすでに著名な作曲家となり、インディペンデント音楽協会の援助のもと、サティの作品のコンサートを開いた。プログラムには以下のような見解が含まれていた。

 エリック・サティは、現代アートの歴史において、真に特別な場所を占めています。時代に少し先駆けて、この隠遁者は愛らしい曲を何曲か書いてきました。残念なことに作品はそれほど数多くはないのですが、近代的な語法と予言的なハーモニーで人を驚かせています。

 このコンサートは、中でも若い音楽家たちの間で、サティの作品が流行する始まりとなった。「6人組」(その年「近代」を主導する作曲家だった6人*)は、サティを自分たちのリーダーだと称賛した。しかし不運なことに、サティは金銭的には利益を得ることはできなかった。悲惨な貧しさは変わることがなかった。着ていく服がないため、自分の名を冠したコンサートに、出席することすらできないこともあった。「音楽家の王子」と喝采されて、「音楽家の王子は金持ちにはならない、貧乏人だ」とサティは応えた。しかしながら、素晴らしい成功を収めることができなかった代わりに、エリック・サティはフランスの若手音楽家の未来の進路に深く関与したと思われる。若手音楽家たちは(ドビュッシーを除けば)、誰よりもサティのあとに従った。
*6人組:Les Six。20世紀前半にフランスで活躍した作曲家の集団。ジョルジュ・オーリック、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、ルイ・デュレ、フランシス・プーランク、ジェルメーヌ・タイユフェールの6人。(写真左から)

6人組

 ラヴェルがサティを深く理解したのは、最初のいくつかの歌を書いているときだった。『愛に死せる王女のためのバラード』(1894年)『暗く果てしない眠り』(1895年)。どちらの曲もサティの影響が現れている。中でもそのタイトルの付け方に(後の作品にもこの影響が見られる。たとえば著名な楽曲『聖女』『マ・メール・ロワ』の中の「美女と野獣の対話」など)。

 ラヴェルの最も早い時期の楽曲(『グロテスクなセレナード』や前述の二つの歌曲)は出版されなかった。ラヴェル自身もこれらの曲を、発表するほどの価値のない初歩作品と感じていた可能性もある。あるいは最終的に、あの高潔なピサール教授は正しくなかったのではないか、作曲においては独創的であることは欠点にならない、と思ったかもしれない。いずれにしてもラヴェルの次の作品は、従来の様式を踏襲したものになった。


 出版されたラヴェルの最初の作品は、1895年の『古風なメヌエット』で、親友のリカルド・ビニェスに捧げられた。この作品をラヴェルはクラシックの伝統に近づけてはいるが、タイトルはどこかわざとらしい。奇妙な矛盾や逆説を好むラヴェルの生涯にわたる性格を予見させるものだった。しかし楽曲には、タイトルに表現された「禁欲的な含み」を否定する、際だった革新性が現れてもいた。このメヌエットはラヴェルの独自性と、様式の縛りの中で風変わりなものを作り上げる能力を証明する素晴らしい実例だった。ロラン=マニュエルは「学問の厳格さと大胆な探索の衝突、、、秩序と冒険の戦い」と表現する。20歳のモーリスが、教師の教えに従おうとするが、不協和音や「近代的」なハーモニーに抵抗しきれない姿を想像することができる。

 ラヴェルには、厳密に言うと「若き日の作品」は存在しない。ごく初期の出版された作品から晩年の素晴らしいピアノ協奏曲やオーケストラ曲に至るまで、名作と言っていい完成度を見せている。少年期を少し超えたころ、まだピサール教授のもとで学んでいたとき、限られた作曲経験しかもっていなかったにも関わらず、非常に繊細で完璧な作品『ハバネラ』を書いていた。「最初の作品で、自身のすべてを表現するという、偉大な作曲家の一例」である。ラヴェルはこの曲に特別な愛着をもっていた。おそらく子どものころの、バスクの海岸で漁師たちを見て過ごしたのんびりした時間、そういった日々を思い起こさせるのだろう。『ハバネラ』は最初に公開されたときは、『鐘の鳴るなかで』と一緒の作品集<耳で聴く風景>に入れられた。12年後、ラヴェルはこの曲をオーケストラ曲に仕立て、著名な『スペイン狂詩曲』の中に入れ込んだ。それに加えて、歌曲に編曲もしている。 

 『古風なメヌエット』と『ハバネラ』の成功で、モーリス・ラヴェルはピアニストになる考えを捨てて、すべてを作曲に捧げることにした。音楽に関するすべてに飽くなき興味をもち、あらゆる方向に作品のインスピレーションを求めた。初期のラヴェルに大きな影響を与えたのは、シューマン、リスト、ショパン、ウェーバーである。しかしこれらの人々は、シャブリエやサティほどには、ラヴェルの成長や進化にとって重要ではなかった。
 青年期の感受性豊かな時期、ラヴェルはかなりの読書家になった。マラルメ、ヴェルレーヌ、ボードレール(呪われた詩人たち)といった詩人と出会い、彼らの深い音楽性に魅了された(後にラヴェルは彼らの詩で多くの歌曲をつくっている)。1860年にボードレールの『悪の華』が初めて世に出ると*、センセーションが起きた。なかでもラヴェルはこの作品に惹きつけられ、ここからの引用を自分のモットーとしている。「インスピレーションは、日々の仕事の報酬にすぎない」

*『悪の華』の初版は1857年、反道徳的とされた「禁断詩篇」6篇を削除し、32篇を追加した第2版が1861年(これが後に定本となる)に出版されている。

 エドガー・アラン・ポーはもう一人の愛する作家だった。『アッシャー家の崩壊』を音楽にしようと考えたことがあったが、実現はしなかった。ポーの物語詩『大鴉』を「音の代わりに言葉をつかった楽曲」と呼び、そのバランスの完璧さをほめたたえた。「真のバランスは、知性と感性の統合にある」とラヴェルは口癖のように言っていた。音楽と同じように文学においても、最終的な成果以上に、どのように物事が構築されるかに大きな興味をもっていた。ラヴェルは幅広さより深さを、遠くを見渡すことより小さく些細なことを好んだ。ポーの『構成の哲理』『詩の哲理』は、その分析的な作品性でラヴェルを惹きつけた。

 初期の時代には、あらゆるものが若いラヴェルの糧になった。読んだ本、聴いたり学んだりした音楽、そして生活そのものがラヴェルの芸術の完成のための要素となった。この時期、ラヴェルは自分自身を見つけることに悪戦苦闘していた。音楽院での苦労の多い練習や勉強だけでなく、「革新的な近代」(音楽の領域で奇妙だったり普通ではないものすべて)の探求や新たな分野での実験、こういったすべてによってラヴェルは進化し、1897年にはアンリ・ジェダルジュのフーガと対位法のクラスへと進んだ。また同時に、当時大作曲家であったガブリエル・フォーレの上級作曲クラスにも入って勉強した。

*ラヴェルは常に読書家だったが、天の邪鬼的性格から、文学に対して無関心を装っていた。ラヴェルの家の本は用心深く隠れた場所に置いてあり、ごく親しい友人のみがラヴェルの読書癖を知っていた。(著者註)

‘He Begins to compose’' from "Bolero: The Life of Maurice Ravel" by Madelene Goss
日本語訳:だいこくかずえ(葉っぱの坑夫)

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