演奏と翻訳は似てる?......再創造とは

「再創造」って英語だとなんて言うのかな、と。recreation?でもこれだとリクレーション=気晴らし、娯楽、保養と同じになってしまう。でも二つ目の意味として、再構築、再現、作り直しの意味もあるようです。(英辞郎)

Oxfordの辞書で確認してみたら、こちらでも二つの意味があって、ほぼ同じ。
1. [名詞] Activity done for enjoyment when one is not working.
   (仕事以外の楽しみの活動) 
2. [名詞] The action or process of creating something again.
   (何かをもう一度つくる行為やその過程)
となっていました。1.には起源として、中世後期には「精神的な癒し、慰め」といったことも含まれたようで、ラテン語のrecreatio(n-)から、古フランス語の recreare(再度つくる)を通ってきたもののようです。

まあ、creation(クリエーション)は、創造、創作、作品といった意味なので、re-creation=再創造に直訳的につながります。逆になんでこれが「娯楽」とか「保養」になるかの方が不思議、というか飛躍がありますね。

さてこのrecreation=再創造です。このように考えるのが普通なのかどうか、あるいは「再創造」という言葉は流通しているのか、日本語として一般に。ちょっとわかりませんが。「再現」なら使われていると思います。では再現と再創造は同じなのか。ほぼ同じ範囲の行為を指しているように見えますが、意図が少し違うかもしれません。

再現の方は、何かをもう一度示してみせる、といった意味が強く、たとえば「再現ビデオ」と言えば、何か事件が起きてその様子を説明し、描写するために俳優が演じたもの。そこでは作品(再現ビデオ)の創造性はあまり問われません。オリジナル(出来事)にいかに近く、本当らしいかが焦点になります。

一方再創造の方は、再構築だったり、もう一度作る、ということなので、単なる再現以上のものがありそうです。

そこでタイトルにあげた「演奏」と「翻訳」を、再創造という面から見てみたいと思います。ポップスやロック、ジャズ、アンビエントなどの場合は、作曲者と演奏家が同じ場合が結構あるので、ここではすでに死んでいる昔の人の作品を現代人が演奏する「クラシック音楽」のケースを見ていきます。

クラシック音楽における演奏とは何か、と言えば、17世紀とか20世紀とか過去に書かれた作品を、残された楽譜を頼りに、楽器(声を含む)なり指揮なりで表現することです。昔であればあるほど、手かがりの多くは楽譜に書かれたものから汲むしかなく(手書きだったりもする)、それにプラス、その時代の演奏の習慣などの知識から類推するわけです。

ここで思い起こすのは、「楽譜に忠実に演奏すること」という忠告(アドバイス?)と「原典に忠実に翻訳すること」という教えがとても似ているように感じられることです。どこの国でも演奏や翻訳について、このことが一番大事なこととして言われているかどうか、ちょっとわかりませんが、少なくとも日本ではそのように見えます。

確かに、これは間違ってはいません。いや、大筋では合ってます。楽譜に関係なく気ままに自分の裁量で演奏していたら、「間違ってるよ」あるいは「それ誰(何の)の曲?」と言われてしまいます。翻訳も、気に入らないところを省いたり、適当に変えて訳していたら、「作家に対する冒涜(ぼうとく)だ」とか「訳が大幅に間違っている」と言われるでしょう。

最近読んでいた作曲家の藤倉大さんの自伝『どうしてこうなっちゃったか?』の中で、藤倉さんが子どもの頃、ピアノの練習でモーツァルトやベートーヴェンを弾かされて、楽譜通りだと面白くないからといって、勝手に音程や和音を変えたり、退屈なところは適当にカットしていたと書いてありました。もちろん先生からは叱られます。ただこのことが高じて、だったら100%自分がいいと思う音楽を書けばいいや、ということで作曲家になったとのこと。この手の話は、後に作曲家になった人、シンガーソングライターになった人のエピソードとして割と聞きます。

やっぱり演奏というのは、他人の作ったものを(なるべく? いや絶対!)その通り弾くことが前提。それが面白くない、違う風に弾きたいという人は(そういう欲求、欲望の強い人は)演奏家ではなく、作る方が向いているのでしょう。

でも「楽譜通り演奏する」「原典に忠実に訳す」と言っても、「通り」や「忠実に」をどう実現するかはまた、別の問題のように思えます。楽譜も原典もオリジナルのテキストという意味で、ほぼ同じ位置づけになりますが、それを「演奏」という形で具現化する、実際に耳で聞ける音にすること、そして「翻訳」により読者の理解できる言葉にすること、この変移あるいは変異の過程で何か(物理作用、化学作用の両方)が起こります。それはメディア(媒体)の違うものに「内容物(contents)」を移す際には、必ず起きることといっていいと思います。

そしてこの変移に意味があるのは、そこで「再創造」が起きるから、と言えます。単に左にあったものを機械的に右に移すのではなく、右に移すときにイマジネーションや知識を最大限に使って、いわば新たな現象を引き起こすのです。なかったものを発生させる、つまり一種の創造行為なのです。ただオリジナルがある(演奏者や翻訳者が発案、発想したものではない)ということで、無からの創造ではありません。

これと近いものにたとえば映画制作があります。原作となる小説や評伝があって、それを元に映画の台本を書き、俳優が演じる場合です。小説というテキストが、脚本と演出と俳優の演技とカメラワークによって映像という違うメディアに変移します。映画の場合は、演奏や翻訳と違って「原作に忠実に!」とはそこまで言われないかもしれません。それはテキストと映像ではメディアの違いが大きいからでしょうか。原作のまま、真っ正直にそのまま脚本をつくったら、面白くないものになってしまう可能性もあります。原作は読まれるために、それに合った手法で書かれていますし、映画は人間がしゃべるので、生き生きした会話のやり取りが求められます。

オペラの場合も、これと似たところがあります。オペラの題材は、オリジナルで書かれることもありますが、よく知られた小説が選ばれることも多いようです。たいてい作曲家の頭の中にアイディアがあって、ある題材を台本にできないかと案を練るわけです。さきほどの藤倉大さんの場合だと、H・G・ウェルズの『世界最終戦争の夢』を題材に、『アルマゲドンの夢』というオペラを書いています。また『ソラリス』というオペラでは、同名の小説からイギリス人の友人と一緒に脚本(英語)を書くこともしています。そう、作曲家は台本を自分の手で書くこともあるようです。確かモーリス・ラヴェルも、『沈んだ鐘』というオペラを共同で脚本化しています(このオペラは未完成)。そしてその台本を元に、音楽を書くわけです。この場合、元テキスト(小説など)→ 台本 → 音楽とメディアが2回変移(変異)することになります。

映画やオペラでは、元のテキストからどれだけ素晴らしい飛躍(衣装や舞台背景、ロケーションの選択、映像の質、配役などによって)が起きたか、が評価の対象になったりもします。再構築や再創造があらかじめ期待されているように思います。ここではどれだけ原作に忠実かが厳しく問われることはそれほどありません。

しかし音楽の演奏や本の翻訳では、この「忠実度」がしばしば上位に置かれたりもします。これは低いレベルでの話なのか、あるいは日本の中での話に限定されることなのか、ちょっとわかりませんが。

つまり演奏や翻訳では、recreation=再創造がそこまで重視されていない、あるいは期待されていないのでしょうか?

楽器の演奏ということを考えるとき、クラシック音楽の場合、楽譜が基本情報になりますが、この楽譜も1種類だけ正統的なものがあるとは限りません。一般的には日本では、モーツァルトのピアノソナタであれば、普及版として手に入れやすい全音や音楽の友社のものがあると思いますが、それ以外にもウィーン原典版*など違うバージョンも存在します。また最近では、IMSLPの楽譜ライブラリーを利用すれば、様々な時代の楽譜を手に入れることも可能です。
(原典版:作曲家の自筆譜や筆写譜、初版本、版下などの出典に基づいて校訂・編集されたもの。ウィーン原典版の他に、ヘンレ版、ベーレンライター版などがある。これとは別に「校訂版」というものもあり、演奏家や学者が演奏の際、参考になるよう表現上の指示を書き加えたもので、エキエル版、パデレフスキ版、コルトー版、ブゾーニ版などがある。)

たとえばモーツァルトのピアノソナタNo.10(K.330)をIMSLPで見てみると、1783年、モーツァルトが作曲した年に出版された楽譜から、20世紀半ばに出版されたものまで数種類の楽譜がアーカイブされています。下の楽譜はモーツァルト自身の手書き原稿(あるいはそのコピー)である可能性もあるかも、だそうです。

モーツァルト「ピアノソナタ」No.10(K.330), 1783

もう少し時代を下って、1800年代末の楽譜になると、ずっと読みやすくなって今のものとほぼ同じです。

モーツァルト「ピアノソナタ」No.10(K.330), 1893

1段目の2小節目のドの音の上に「tr」「2 3」の文字があります。その下にa) の記号が振られていて、これはこの「tr」をどのように弾くかが欄外にあることを示しています。ちなみに「tr」はトリルのことで、2(人差し指)と3(中指)を使って交互に素早くドとレの音を弾くことを意味しています。ドレドレドレ、あるいはレドレドレドのように。下の楽譜の赤線で囲ったところがその説明です。三つ弾き方の例が示してあります。右側は「易しい」バージョン。

モーツァルト「ピアノソナタ」No.10(K.330), 1893

なんでこんな説明が必要かというと、トリルのような装飾音はいろいろな弾き方があるからです。というか、モーツァルトの時代には装飾音というのは演奏者の裁量で即興的に入れるものだったかもしれず、こうじゃなくちゃダメというのではなく、こうとか、ああとか、こうとか、で弾いてね、ということじゃないかと。(わたしの持っている音楽の友社の「ソナタアルバム1」のこの部分の解釈は、上の三つのトリルの内のどれとも違っている)

現代の日本人の場合、時代を経ているから「装飾音の弾き方」がわからないという理由のほかに、よその国のものだから、感覚的に「わかる!」という部分が少ないかもしれず。わたしのピアノの先生は、「装飾音というのは、日本人にはよくわからないね」と言っていました。似たものとして、日本の民謡とか演歌をうたうとき、喉をころがす(こぶしを効かせる)のは、日本人なら何となくわかるし、やれと言われたら一度もやったことがなくても出来ちゃうかもしれません。外国人がこぶしを上手くまわすには、お手本と練習が必要でしょうね。それと西洋音楽の装飾音は似たような面があると感じます。

こんな風に細かく説明したのも、楽譜を見て忠実に演奏するといっても、どのように楽譜を読むかという問題がある、ということを言いたかったからです。作曲された当時、当たり前だったことは、場合によっては楽譜にわざわざ書かれていないこともあり得ます。また楽譜にはこう書いてあるけど、作曲者は書かれた音符通りに音を刻むのではなく、もう少し伸び縮みするように弾いてほしいのでは?と感じることもあります。でも五線譜の楽譜には、書ききれない(書くとかえってわかりにくい)から、音を等価に書いてあるだけ、ニュアンスは弾く人が汲み取ってね、と。

翻訳の場合も、たとえば英語と日本語はまったく違う言語なので、さらにはそれぞれの社会のあり方や文化背景も違うので、英語 → 日本語、日本語 → 英語、と言葉をそのまま移し変えても、何が言いたいのか、という肝心の意図が見えなくなってしまうことがあります。

おそらく翻訳において一番重要なことは、作者(書き手)の意図を、移動先の言語にとって最も適切な、フィットする言い方で表すことかな、と。その意図を汲むというところが大切で、これは楽譜から音を立ち上げて演奏することと似ています。忠実という言葉が使われるとしたら、作者(作曲家)の意図に対して忠実に、と受け取るのが正しいように思います。一つ一つの言葉、一つ一つ音符や記号、に対して忠実にというのではなく。

この作者の意図を汲んで違うメディアで新たな表現を創出する、という行為が「再創造」であり、そこには何がしかの変異が起きるのだと思います。その変異を良しとするかしないか、がオリジナルへの忠実度の判断に関わってくるのでしょう。

何年か前に、水村美苗さん(作家)と鴻巣友季子さん(翻訳家)の対談で、「透明な翻訳」ということが話題になっていました。日本では原文の姿が透けて見えるようなものをそう言い、アメリカでは訳された言語で元々書かれたかのような自然なものをそう言う、ということでした。つまりアメリカでは、訳出されたもの(仕上がり)の価値が問われ、日本では原典への忠実度(どんなテキストから訳されたかがわかる)が大事にされるというわけです。

村上春樹さんが訳した『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のこのタイトルは、原典の姿や香りを表しているという意味で、日本風の「透明な翻訳」に当たると思います。『ライ麦畑でつかまえて』はよく知られている方のタイトル。原文は『The Catcher in the Rye』です。この意味は「ライ麦畑のつかまえ役」で、子どもたちがライ麦畑で遊んでいて崖から落ちそうになったとき、捕まえて助けてやる人ということのようです。日本語訳はなかなかうまいかな、と。おそらく村上春樹さんの訳は後発なので、タイトルを以前のものと区別するために、そして村上春樹ファンならわかるだろうという期待のもと、英文をカタカナ化したタイトルにしたのかもしれないと想像します。ただ村上春樹以外の訳者が、このタイトルをつけるのは難しいかも。「ライ」と言われても、多くの人はライ麦畑を思い浮かべることはできないでしょう。

日本語訳が原典を尊重し、それに忠実であることを重視するのは、近代の日本文学が西洋文学の影響(翻訳作品)の中で生まれた、という事実と重なります。翻訳作品から近代日本文学(の文体や様式)は生まれた、ということはよく言われます。その意味で、村上春樹さんの翻訳も、タイトルだけでなく、訳全体がほぼ「日本式透明な翻訳」路線に沿ったものに見えます。村上春樹さんが書いた日本語の小説が、「翻訳調」と言われることがあることとも関係がありそう。

翻訳をしていて感じるのは(特に第1稿では)、書いている日本語が原文の英語の思考法や文体にかなり引っ張られる、ということ。なんというか、そのモードになってしまっていると言いますか。そのままだとかなり翻訳臭い文章になります。なので一旦原文から離れて、できれば時間的にも離れて、第2稿、第3稿と書き直していくことが必要になります。このフェーズをやっているときに再創造が起きます。自分が日本語のできる作者になった気分で、書いていくといったことです。かなり思い切って、全然違う表現にもします。言っていることが原文と違う? いやよくよく考えたら同じじゃね?みたいなことも起きます。

そして最終的に、あるいはどこかの時点で、再度、原文と付け合わせて、内容や意図が間違っていないか確認する、ということをします。

何年か前に、子ども向けの写真絵本を知り合いの小学生(低学年)の誕生日に送ろうと思い、中の英文を日本語にしたことがあります。訳しはじめたはいいのだけれど、結構な分量のテキストがあって、時間的に間に合うかどうかギリギリの感じでした。しかも相手の小学生は低学年なので、使える用語、漢字も制限があります。テキストを日本語化するだけでなく、その子ども向けの表現にしなくては、と。で、時間もないということで、かなりのスピードで走るようにして訳しました。それが逆に功を奏したのか、ポンポン単純化された日本語が吐き出され、結果、(自分としては)オリジナルの言語で書かれたような文章になりました。原文との最終チェックでも大きな問題はなく、無事、その子の誕生日に本と一緒に訳文を送ることができました。

これは一般社会に向けての出版物ではないプライベートなものなので、訳の自由度は大きかったし、その子の顔を想像しながら、その子のために訳したのもよかったかなと思います。ここで起きたことは、理想的な再創造に近い行為だったのかもしれないと感じます。昔話を自分のナラティブによって、小さな子どもにお話ししてあげるときの感じです。普段、こんな風に翻訳することはないので、その後の訳の進め方のヒントになりました。

翻訳、そして演奏。どちらもやはり再創造あってのものじゃないか、と改めて感じています。


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