見出し画像

[エストニアの小説] 第6話 #10 収穫期(全17回・火金更新)

もくじへ

 「だが、あの子はウォッカを飲んだりはしないだろ?」 ヤークが尋ねた。
 「一滴すら」とニペルナーティ。「誰かが飲んでいると、目をそむけるくらいですよ」
 「わたしの息子には妻がいるが、酒好きだ。あんたが飲んでいて、すぐにでも酒を勧めなかったら、リースは自分でボトルをつかんで飲みはじめる。いつも市や祭りがあれば、男どもと一緒に行きたがり、家畜は家に置いていく。リースは生涯、農場主の妻にはなれまい。俺が自分の妻を見つけてこないかぎり、ハンゾーヤに女主人はなしだ」
 「わたしのところのカティはいい子ですよ」 ニペルナーティは陽気な声をあげた。「10の教区をまわっても、あんな子は見つからない。でもああいう子を手にするには、骨折りも必要です。パリイオエ教区のことを聞いたことがありますか? ここから3日先のところです。ここに着くのに、カティとわたしは3日間歩きました。いいですか、ヤークおじさん、最近では良い妻を見つけるには、男はそれなりに遠くまで行かなくては。本当のことです、どこにでも女の子や娘はいっぱいいますが、いい妻になるような者は皆無です。蝶よ花よと甘やかされた子たちばかりで、スカーフをスカートみたいにして腰に巻いてね。こういう子と結婚などしたら、夫は放っておかれます。でもわたしのところのカティはいい子です。遠くから来た子です、パリイオエ教区からね」

 「そりゃあんたにとっては簡単だろうよ」とヤーク。「あんたはまだ若いし自由だ。だがな、俺くらいの年になってみろ、それがどんだけ羨ましいことになるか。あー、俺のハンゾーヤは女主人なしのままだな。そう俺の心が言ってる」 するとニペルナーティは唐突に立ち上がり、こう言った。「わたしはなんというおしゃべりなのか。あなたの時間を邪魔してます。もうとっくの昔に畑に出ているべきでした。そう言いましたよね。それにおしゃべりはあなたのからだに良くない。あなたは休むなり眠るなりした方がいい。何か必要になれば、カティにここに来るよう言っておきます。カティはすぐに来て、面倒をみてくれますよ。あの子の世話ですぐによくなるはずです」
 「ああ、あんたはいい人だ、いい親戚だ」 ヤークがニペルナーティの背に向かって声をかけた。

 ニペルナーティは外に出て、立ち止まった。とても幸せな気分で、一日に満足していた。口笛を吹き、ツィターを探した。もし手の届くところにそれがあったなら、愉快な曲を弾いたことだろう。2日前に、星空の元、ライ麦俵のところで祈ったことを、ついに神様はニペルナーティの願いを聞き入れてくれた。
 すべてがうまくいきそうだ。カティは牛小屋で、牛たちと一緒にいて幸せを感じているだろう。
 「カティ」 ニペルナーティはそう呼んで、静かに薄暗い牛小屋に足を踏み入れた。
 牛たちはもう小屋の外に出ていっていたが、子牛が1頭、小屋の隅に立っていて、カティがその前にひざまずいて話しかけていた。
 「あんたのこと、なんて呼んだらいい?」 子牛をなでながらそう言った。「どんな名前がいいかな、コウシちゃん、アメツブちゃん、それともレンジャクさん? ああ、そんなかわいい名前じゃだめ、あんたは男の子。かわいい目であたしのことを見てるね。あんたは小さくて、まだ子どもで、かわいい。だけどすぐに大きくなる。尖った角が生えてきて、目が赤くなって、あんたの父さんが今朝したみたいに、あたしに突っかかってくる。そして狂ったみたいに怒りだして、あたしのことなんか忘れてしまうよね。ミルクや干し草で育ててやったあたしのことなんか。そうなの、コウシちゃん、あたしのことなんか忘れてしまうの?」
 「そんなことはない!」 ニペルナーティが笑いながら、子牛に代わって答えた。「そのときには、この子は君のものだ」
 カティは飛び上がって、子牛から少し離れ、恥ずかしそうに立ちつくした。
 「なんでそんなに驚く?」と、ニペルナーティ。
 カティが近づいてきて、にっこり笑った。「男の人は牛小屋に入っちゃだめ。男の人の場所はないの。あんたはもうとっくに畑だと思っていた」
 「うん、うちの農夫がオーツの畑に行ってるから大丈夫」 自信満々なニペルナーティ。「ヤークおじさんは眠ってる。で、カティを探しにきたんだ。そうしたら可愛いカティが子牛の前で、ご機嫌取りをしてる」
 「それにしても、あんたには素敵なおじさんがいたんだね」 カティが嬉しそうに言った。「おじさんの息子とその奥さんは好きじゃない。二人は意気地なし。だけどおじさんは立派。あの人が雄牛に向かっていったのを見た? あんなに大きくて恐ろしくて、怒り狂ってる牛に向かって、片手にウォッカ、片手にムチを持ってね。みんな逃げていったのに、おじさんだけは恐がりもしないで、雄牛の目の前にドンと立っていた。あたしは門のそばで見ていた。恐ろしくて息をとめてた。心臓が爆発しそうにドキドキしてた。あんな風に怒った雄牛に向かっていくなんて、冗談じゃ済まされないこと。もしおじさんが棒を拾おうとして屈まなかったら、あいつは後ろに下がっていた」

 「だけどわたしのことは見たのかな、わたしが何をしたか見なかったのかい?」と自信満々なニペルナーティ。
 「あんたのこと、もちろん見たよ」とカティが返す。「でもあんたのおじさんは本当にすごい! 雄牛に山みたいにのしかかって、手の中でムチが鳴っていた。シュッ、シュッって。今まであんなものは見たことがない。おじさんは雄牛に向かっていって、『おまえは俺の家畜だ、従え!』って。で、『いいか、どう振る舞うか教えてやろう』 そう言ったんだ。もしおじさんが牛の角を捕まえて、ひざまずかせたら、トーマス、どう思う? あの人ならやったと思う、ぜったいやった。あんたのおじさんがどれほど強いか。10人男がいたとして、おじさんをやっつけられる? なんて大きな人なんだ。あたしは見たことがない。たいした闘いだったね」
 「でもわたしが雄牛をひざまずかせたんだ、この手でね」 ニペルナーティはそう主張する。「わたしにもちょっとした力がある。もしおじさんと闘うはめになったら、どっちがやられるか、確かではない」
 「そうね、でも雄牛はちょっとつまづいたから」 そうカティは言う。「あんたはその間に素早く鼻輪を捉えた。でもあんたがおじさんを打ちのめすとは思えない。そうは思えない。それになんでおじさんが60歳だなんて、あたしに言うの? あの人は40歳を超えてるのかどうか。すごく強いし、まだ若い。息子のヤーンとは比べものにならない」

 「きみはあの年寄りをほめる必要なんてないんだよ」 見下すようにニペルナーティ。「あの男のことをきみはわかってない。カッとくるやつで、いつもわたしはあの男と問題を起こしてた。わたしがあいつをサウナから屋敷に移して以来、ここで主人気取りだ。いや、あの年寄りが元気になって歩けるようになったら、息子やその妻と一緒に、ここから追い出す」
 「トーマス、あんたは意地悪でかんしゃくもち!」 カティが声をあげた。
 「カティはあの年寄りが好きなのかな。おそらくわたし以上にね」とニペルナーティ。
 「ちがう、ちがうってば」 カティが赤くなって言った。「あたしのこと誤解してる。どうしてあたしがおじさんを好きにならなくちゃいけない? だけどおじさんが怒った牛に向かっていったのは、本当にすごかった。そのことを言ってるだけ、あの雄牛に向かっていったことをね。もしおじさんをどこかに追っ払ったら、あの人はどこに行くの? そんな風にあの人を追い出すことができるの? おじさんに恩があるって、言ってたよね?」
 ニペルナーティは頭をかいてため息をつき、こう言った。「もう少し考えてみなくちゃね。この恩義のことではいろいろあるからね」
 「ほらね!」とカティは嬉しそう。「みんながこの家で幸せに暮らせる。それにもし、あんたが約束したみたいに、もう一つ家をここに建てることになったら、全員が快適に住める。農夫やメイドたちもサウナに住めるし」
 そしてニペルナーティのすぐそばまで近づいて、恥ずかしそうに目をのぞき込んでこう言った。「あんたがハンゾーヤの主人だって、やっとわかったよ」
 カティは目を輝かせて辺りを見まわし、入り口のところまで歩いていった。そしてこう尋ねた。「おじさんにはお医者はいらないのね? 傷はそれほど酷くはないのね?」
 「医者はいらない」とニペルナーティ。「きみが世話をすれば治る」
 「あたしが?」 びっくりするカティ。「おじさんのそばに近寄ることすら心配だけど」
 「何を恐がっているんだ?」 ニペルナーティが訊く。
 「だってあの人はすごく大きくて強いし」とカティ。「そばに行くだけで頭がまっしろ。あの人の手ときたらシャベルより大きいんだから」

 みんなが懸命に働いて1週間が過ぎた。朝から晩まで、ずっと畑で収穫がつづいた。仕事が終わって日もたっぷり暮れてから家に帰れば、人々はぐったりと疲れ、食事を済ませるとすぐに、言葉を交わすこともなくベッドに直行した。ハンゾーヤに住む農夫が一人、秋の収穫のために雇われた。それで畑にはいつも4人の男がいて、ヤーンの妻リースは5人目だった。カティは家の雑用をこなし、家畜の世話、料理、ヤークの世話をした。リースは一度ならず、カティも男たちと畑に出るべきだ、百姓の娘が農場の女主人みたいに振る舞っていると不満をもらしたが、誰もそれを聞いている暇がなかった。家族みんなで夜明けとともに畑に行き、暗くなってから家に戻った。ヤークの傷は治っていった。ベッドに横になってカティをそばに呼び、痛い痛いとうなり声をあげることを楽しんでいた。雄牛の角に突かれた傷はずっと前に癒えていた。カティの方も、少しの間、仕事から解放されるので、この年寄りのそばで過ごすことに不満はなかった。カティはこの病人の世話をし、枕をポンポンとたたいて整え、ケーキを焼いたりコーヒーをいれたりした。するとこの年寄りは、笑顔で、満足げに、この娘の姿を目で追った。

 そしてある日、雄牛が巡回業者に320クローンで売られると、ヤークはベッドを離れた。
 部屋の中を少し歩き、尻をつかんで痛い痛いとうなった。
 「酷い痛さだ、誰かに釘で突かれているみたいだ」 そうカティに不平をもらす。「どうかな、ハルマステまで行って医者に見てもらうというのは。この痛さはどこから来るか見てもらうんだ。ちゃんと立っているのさえ辛い」
 「お尻の具合を見てもらうのがいいでしょうね」 カティが賛成する。「ニペルナーティは傷に包帯をしたけれど、あの人は医者じゃないし。もしかしたら、よくない処置をしてるのかもしれない。そうすれば感染とか何かよくないことが起きる。足を切らなくちゃいけないとか、誰にもわからない」
 「冗談じゃないぞ!」 ハンゾーヤの主人が恐怖の声をあげた。「そうだ、ニペルナーティは医者じゃない。あいつは俺と同じ農夫だ。あいつが重い怪我や尻の痛みについて何を知ってる」
 ヤークは2、3歩あるくと、ベッドに沈み込んだ。うなり声をあげながらこう言った。「ああ、ダメだ、この傷のところが悪くなってるんだ、そうじゃなきゃ、こんなに痛いはずがない。医者にしか直せない、ちゃんとした処方でな。もしカティが、馬車で一緒に来てくれるならいいんだが。一人じゃ無理だ、病気だからな。溝に落ち込むのが関の山だ」
 カティは驚いて顔を背けた。「ダメです、ダメ。それはできません。トーマスがなんて言うか」
 「あのトーマスはいつも」 そう言ってヤークがさとそうとしたが、またうめき声をあげた。「あんたは口を開くと、トーマス、トーマスだ。どこかの雄牛みたいに、この傷で俺が死んでもいいのか? カティには同情心がない、人に対して憐れみってもんがない。意地悪で残酷だ、トーマスのことばかり言ってる。だがトーマスは俺の親戚だ、あんたが俺を助けることに文句などないはずだ。あいつ自身が、俺の面倒をみるように言ったんじゃなかったかな」
 「いつ、お医者に行きたいんです?」 カティがおどおどと訊いた。「明日、それともあさって?」
 「いますぐだ」 ハンゾーヤの主人が答えた。「尻が酷く痛くて、1時間もがまんできない」
 「少し待っていて。畑まで行って、ニペルナーティに話をしてくるから」とカティ。

#11を読む

'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?