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その文章、誰のものですか? (コピペとオリジナルの境界線)

文章におけるauthorは誰か、あるいはauthorとは何か、について考えてみることにしました。
*タイトル写真は太宰治(1948年撮影/public domain)

著者、執筆者、作家、書き手=author。何か文章を書けば、そしてそれをどこかに発表すれば、書いた人はauthorになります。ツイッターやフェイスブックに何か書いた場合も、どこかのメディアに記事を寄稿したときも*、あるいは小説を書いて応募した際も、書き手=author(オーサー)です。
*ネット関連の記事寄稿の規約では、納品後の著作権はクライアント側に譲渡されることがあるようです。ただクラウドワークスは、2020年9月にこの規約を変更しました。これについては後で詳細を。

authorであることは、掲載される媒体の大きさや影響力とは関係なく、いつでもどこでも成り立つ関係です。文章を書く → 書いた人=author。

最近ときどき気になることとして、書いた文章の「オリジナル性」はどのように判断されるのかということがあります。もうかなり前のことになりますが、大学の卒論でコピペが多用されている、という問題がありました。今も状況はそれほど変わらないかもしれません。

すでに存在する「情報」を利用するのは、さまざまな場面で普通に行なわれていますし、受け手がそうする(情報を受ける)ことには、多くの場合、問題ありません。しかし受けた情報を再利用する場合は、気をつける必要があります。

これに関連して、自分の書いた文章がどこまでオリジナルであるか、という認識が書き手の中でどこまでクリアになっているか、ということも問題としてあります。

文章のオリジナリティとは何なのか、はっきりさせる必要がありそうです。

たとえばどこかのメディアに記事を書く場合、それが依頼を受けた仕事としての文章であれば、1記事いくらとか、1文字いくらとかで計算されます。書いたものに対価が払われるのですから、オリジナルなものである必要があります。つまりどこかで見たことのあるような記事、聞いたことのあることばかり書かれた文章では、まずいという。あっちの情報、こっちの情報を貼り合わせたような記事は、オリジナリティ度が低いと考えられます。

ただ最近ネットの記事を見ていると、そういうものは多いように感じます。スポーツ関係の試合の結果記事などは、どれもこれも同じだったりします。オリジナリティという点では、限りなくゼロに近い。それがコピペによる文章なのか、と言えば、一応、事実関係に即して(当たり障りのないことを)自分の手で文字を打っているのだからコピペではない、とは言えます。

ではオリジナリティがある、という場合は、何がコピペ的文章と違うのか。

それは書き手の視点があるかどうか、ではないかと思います。同じ情報、事実関係を手にしていた場合も、書き手の視点の定め方によって、内容は大きく変化します(するはずです)。つまりある事実(サッカーの試合であれば、試合の進行状態、結果のスコア、各種スタッツ、各選手のパフォーマンスデータなど)から、あるいは実際に試合を観戦した印象から、書き手が自分で考察したことを書けば、それはオリジナルな文章になります。そういう記事は、(視点の定め方に賛否両論あったとしても)読む価値が高いと言えます。一つの見方が表れているからです。

では書き手の見方が表れない文章というのはあるのか。

これは知り合いのライターから聞いた話ですが、クラウドワークスのようなネットの仕事依頼サービス通しで記事を書いたところ、書いた原稿の文字数が、クライアント側から知らされたものと、自分がカウントしたものと大きな差があったというのです。1文字計算で請求を起こすので、原稿料に差が出た、つまり少ない文字数でカウントされたため、請求額が低く見積もられていた、とその人は不満を言っていました。

クライアント側は、本文のみをカウントしたとのことで、主題となっている人物のプロフィール(略歴)や引用文、小見出しなどはカウントされていなかったそうです。文字カウントのルールについて、書く側があらかじめ確認(了解)していなかったのでしょう。

日本語における文字カウントのルールというものがあるのかどうか、Googleで検索してみましたが、クライアント側によって一般公開されているものは見つかりませんでした。

一つ見つかったのは「Yahoo! 知恵袋」で、引用文やhttps://…..ではじまるアドレスなどはカウントされるのか、という質問でした。それに対する答えとして、「依頼側のプロです」という人が答えていたのは、数えないのが普通です、というものでした。理由は「引用文はライター自身が考案、作成したものではないから」とのこと。

URLをカウントしないのはわかります。が、引用文はどうなのでしょう。数えない、という考え方もわかりますし、数えるという考え方もあり得るように思います。数えない方が、おそらく日本では普通なのかもしれません。確かに記事を書いた人が、書いた文章ではないからです。

ただ「数える」という考え方をとるのが、必ずしも的外れとも思えないのは、ある記事の中で引用文を使う場合、そしてそれが本文にとって必要不可欠だった場合、たとえば本文で意図していること、伝えようとしていることを立証するために引用されているとき、それは内容に対する保証となります。

たとえば意見の異なる2者が、それぞれ主張を展開していて、その主張の正当性を比べて批評するときなどは、元になる2者の発言を引用せざるを得ません。引用(quotes)ではなく、地の文として書くこと(citations)も可能ですが、このように2者を対比する場合は、引用を使う方がより適切と思われます。それは2者の主張を表現のニュアンスも含めて伝えることができるからです。

quotesにするか、citationsにするかは、その文に対する適正によって選ばれるはず。文字数(原稿料)を増やすために、あるいは減らすためにquotes、citationsのいずれかを選ぶ(選ばせる)というのは、文章の質を保つという意味では正しい判断と言えません。

そう考えると、quotes(引用文)の場合も、地の文と同様にカウントすべきではないか、という見方が出てきます。citationsかquotesかの判断は、文全体をどう扱うか、という面から決定されるべきだからです。

そこで英語の記事では、どうカウントするのが普通か調べてみました。英語圏のワードカウントの基本には、大学の論文の書き方のルールがあるように見えました。西イングランド大学のポリシーによると、
本文に含まれるのは:見出し、表、引用文(quotes)、他の書き手の考えを地の文として引用したもの(citations)、リストなど。
*参考図書、付属書、脚注は、特別な場合を除いて含まれない。

引用文が含まれているのは、特に学術論文では、ある考えをどこから引いてきたかが重要で、それをそのまま提示することが求められるのでしょう。このことは論文以外の文や記事には当てはまらない、ということでしょうか。

大学の論文で文字数のルールを設けることと、商業文などで原稿料の計算のために文字数を数えることには、その目的に大きな違いがあります。商業文の場合、クライアント側にとっては、文字数計算で支払っている場合は、予算を大きく超える文字数の記事は却下ということが起き得ます。

事前策としては、クライアント側は、文字数を増やさないために、引用文や人物の略歴などは、文字数に含めないルールにしておいた方が良い、ということになります。

しかし、この考えは文章というものがどのように成り立っているか、文章において何が大切かを考えるとき、障害になることがあります。一つの記事、ひとまとまりの文章というのは、部分部分で評価されるのではなく、全体として意図が的確に表現されているか、実例・先例を使って具体性をもたせているか、各項目のバランスは適切か、などで良否が判断されるからです。

記事の中で、上の例の2者比較のように引用文の役割が大きい場合、引用文は本文の一部と考えることは可能です。ひとくちに引用文と言っても、引用文として適するものを各種資料をあたって探し、どの部分を入れ込めば適切か(公平か)、記事にとって有益かを検討し、適切な場所に置くことは、単純なコピペとはまったく違う作業です。ときに、原文が日本語でない場合は、日本語への翻訳作業もそこに入ってくるでしょう。これにはまた別途、翻訳という「労働」とスキルが必要になってきます。

同じようなことが、人物の略歴文にも言えると思います。これも日本語の一般記事の中で、割に軽視されている部分かもしれません。どこかの(あちこちの)サイトにあった略歴からコピペ+統合して略歴とする、のような考え方があるのかもしれません。

しかし略歴は書かれる本人にすれば、気になるし大切なものです。古いものはそのままでは使えませんし、新たな情報を加える必要があります。また短い略歴であっても、書き方によっては本文の内容を補強する重要な役割も担えます。なんとなく日本語の記事の世界では、略歴は一から書くものではなく、どこかにすでに存在するものから引いてくればいい、という指向、傾向があるように感じられます。何年にどこで生まれ、どこそこの大学を卒業…..のような定型文。それでどの記事を見ても、同じことしか書いていない、ということが起きます。

略歴文を引用文と同様に、本文には含めない(カウントしない)という考え方は、このようなところから来ているのかもしれません。

わたしはこれまでに、葉っぱの坑夫の出版活動の中で、たくさんの人物略歴を書いてきました。英語ではbio、またはshort bioなどと言われているものです。確かにこれは作品本体ではないし、一見、あまり重要な位置を占めてなさそうな文章です。でもその割に、未知の人物のバイオを書くことは、書き手にとってそれなりに労力を要し大変なところがあります。

最低でも書く分量の4、5倍の資料は読み込まないと、いい略歴は書けません。また複数の資料を(書籍など含め)参照する場合、その真偽を確かめる必要もあります。事実関係が違うものが出てきた場合、どのような判断をするか、どの部分を略歴に入れるか決めなければなりません。この作業は、本文を書くときとほぼ同じです。

このような意味で、記事に人物略歴が必要な場合、それを本文と同等に扱うのは正当ではないかと思います。

authorの権限について:
ところで音楽記事を書いているあるライターから、相談を受けたことがあります。その人は新譜リリースの際、発売前に発売元から音源提供を受けて記事を書くことになりました。記事の掲載先は発売元とは別のウェブマガジンです。マガジン側は事前に音源を聞けるのだから、記事を発売前の早い時期に発表したいと言ってきたそうです。ライターの人はそれを受けて、早急に記事を書くことにしました。その後マガジン側から、発売元から事前(記事掲載前)にチェックが入ると知らされました。そこに時間をとられる可能性があるから、なるべく早く原稿を提出してほしい、と。

そのライターの人は、掲載先のマガジンがチェックするのは当然として、自分のテキストがなぜ、発売元からチェックされるのか理解できなかったそうです。発売元側からすれば、音源を提供したのだから、それに関する文章のチェックはしておきたい、その権利がある、ということでしょうか。

このようなことは、日本では常識的に行われていることなのか。試しにアメリカの音楽関係の友人に聞いてみたところ、そんな交換条件のような話は聞いたことがない、と言われました。アメリカでは、近しい音楽関係者に、レーベルが発売前の音源を、同報メールをつかって提供している例もあります。広くレビューを書いてもらうためです。

音源提供者によるテキストの事前チェックについては、あるアメリカの音楽評論家によると、非倫理的なことで、ライター(その人はjournalistと言っていた)にとっては受け入れ難いことだと言います。

小さなことのようで、ここにはいろいろな問題が含まれています。アメリカの音楽評論家はなぜjournalistという言葉をつかったのか。それはその人が自分をジャーナリストだと思っているからかもしれません。ジャーナリストとは何かと言えば、文献だけでなくリアルワールド、リアルパーソンに取材して、そこから得た事実をもとに文章を書く人のように見えます。

では日本語で言うところのライターとは? ある記事によると「ライターとはクライアントから要求された記事を忠実に執筆する人」「主観をまじえないのがライター」とのことでした。クライアントからの要求、、、ということでいうと、コピーライターはここに入るのか。電気製品のマニュアルのような文章は、確かにここに入るかもしれません。ただ商品やサービスのキャッチフレーズになると、クライアントの要求に沿ってではあっても、それを超えるクリエイティブなものが求められます。

英語で「journalist writer difference」で検索すると、writerについてはどうも「creative writer」と「content writer」があって、前者はフィクションを書く人、後者は企業のためにネットなどで記事を書く人といった解釈がありました。日本で一般にライターと呼んでいるのはこの「content writer」のことでしょうか。

「creative writer」について言うと、creative writingは小説に限らないので、ノンフィクションを書く人もクリエイティブ・ライターだと思います。また上で言っているcontent writingはコピーライターの仕事の一部と重なります。そういう意味で、各ライターの厳密な線引きは難しいように思います。なんとなく感じるのは、日本で「content writer」的に仕事をしているライターの人には、authorという感覚はあまりないのではということ。

ここでauthorの話に戻ると、クラウドワーカーの書き手は、著作権に関して、2年前に規約が変更になるまでは、仕事の譲渡後はauthorの権利を失っていました。

つまり一般の文章に対する著作権法とは、違うルールが当てはめられていたということです。
一般の著作権法では、

1. 著作者は、次条第1項、第19条第1項及び第20条第1項に規定する権利(以下「著作者人格権」という。)並びに第21条から第28条までに規定する権利(以下「著作権」という。)を享有する。
 2. 著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない。

WIKIBOOKS「著作権法第17条」より

とくに申請などしなくとも、書いた人の権利(著作権)は自然発生するということが書かれています。「著作者人格権(Moral rights)」というのは、著作権の一部で、書いた文章が第三者に利用された場合、その利用の仕方によって、著者が精神的に傷つけられないように保護するためのものだそうです。

たとえば「慰安婦問題」について書いた記事が、第三者の記事の中で利用され、その利用のされ方に問題があった場合(誹謗中傷するために利用した、など)、この著作者人格権が持ち出され、侵害があったかどうか計られるということだと思います。

仕事依頼代行サービス通しの仕事で、原稿を渡して支払いが行われたのち、書き手の著作権が消滅した(クライアント側に譲渡された)場合でも、著作者人格権は残るようです。

著作者人格権の3つの権利
1. 公表権:著作物を公表するか・しないか、公表する場合どんな方法で公表するのかを決める権利
2. 氏名表示権:著作物を公表するとき著作者の氏名を表示するか・しないか、表示する場合本名かペンネームのかを決める権利
3. 同一性保持権:著作物の内容を勝手に変えられないようにする権利

記事制作代行サービス Proの記事より

著作権がクライアント側に渡ってしまっていても、著作物を公表するかどうかの判断、名前を表示するかどうか、内容が書き換えられていないことの確認、は著者側の権利としてあることは大きいと思います。

クラウドワークスには2020年9月まで、以下のような規約がありました。

第14条 本取引の成果物等に関する知的財産権及びその利用
1. 本サービスを通じてメンバーがクライアントに対して納品した成果物に関する著作権等 の知的財産権(著作権法第27条及び第28条の権利を含みます。)は、本取引の業務が完了するまでの間はメンバーに帰属するものとし、本取引の業務が完了した段階でクライアントに移転・帰属するものとします。

クラウドワークス利用規約(2020年9月30日以前)

海外の仕事依頼サービスUpworkの規約もほぼこれと同じでした。

しかしクラウドワークスは、その後、規約を以下のように変更しています。

第17条  本取引の成果物等に関する知的財産権及びその利用
1. ワーカーがクライアントに対して納品した成果物に関する著作権等の知的財産権(著作権法第27条及び第28条の権利を含みます。)は、本取引によって譲渡がなされない限り、作成した会員自身に帰属するものとします。なお、本取引の中において別途取決めがある場合は、同取決めが優先されるものとします。

クラウドワークス利用規約(2020年10月1日以降)

つまり書き手の権利(著作権)を優先し、一般の著作権法と同等にしているということです。これは意味のある判断のように見えます。もしクライアント側がどうしても著作物を会社側の所有にしたいという場合は、別途書き手との間で取り決めが必要になります。これにより依頼主側にも、著作権を手にする機会が与えられます。

書き手にとって、仕事上の原稿の著作権の有無は、それほど重要なことに見えないかもしれません。原稿料さえ払ってもらえればと。ただ著作物が誰のものか、authorは誰か、ということは、上で例としてあげた音源提供者によるチェック(検閲)のことなどを考えると、はっきり意識していた方がよさそうです。論理的(法的)には、音源提供者には著作に関する権利も責任もありません。原稿について意見や感想、あるいは指摘はできても、修正や訂正を強要することは難しいでしょう。ただ両者の力関係によっては、強い態度に出ることで、相手を従わせることは可能です。

文章を書くということは、それがどんな種類のものであれ、掲載がどんな媒体であれ、書いた人=authorに責任があり、また権利も同時に発生します(クライアント側に著作権が移った場合は、クライアント=authorになります)。このことは、ライターの書く姿勢や書く内容、書いたあとの責任の取り方などと密接に関係してくると思われます。

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