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[エストニアの小説] 第6話 #4 ハンゾーヤ農園(全17回・火金更新)

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 ニペルナーティの頭はくすぶり、燃え上がり、神経の1本1本がツィターの弦のように張りつめた。しかし目の前で静かに幸せそうに眠っているカティは、よく肥えた牛や缶いっぱいに泡立つミルクの夢でも見ているのだろう。朝になったらこの子はどうなるのか。ニペルナーティはどうしたものかと考えていた。きっと失望して悲しくなり、涙をながす? 現実は何かといえば、自分には家畜など1匹もおらず、畑もなし、くねくねした道を歩くだけのバカげた旅があるのみ。ああ、日々のすべては神の手の中。その日々を神は1本の糸であるかのように手にし、1日また1日と、布を織っていく、どんな織り物になるのか、誰に想像できる?

 ニペルナーティは熱くなった額をこすった。からだ中に汗が流れた。この男は何一つ悪いことを考えたりはしていなかった、そうではないか? 自分は金持ちだと自慢したかもしれないが、この子を騙そうとはしてはいないだろ? もしここで、秋の星々が空高いところで輝く、夜の静けさの中で、膝をついて祈ることができるなら。神様に一粒の幸せをこの女の子に送ってくださいと願うことができるなら。たくさんはいらない。一粒の幸せでいい、2、3頭の角の生えた家畜とちょっとした土地があれば。
 すぐ近くで水がゴボゴボいう音が聞こえてきた。風が鼻をつくホップの臭いを運んできた。空には雲が流れている。暖かな風が大地を横切っていったと思ったら、突然とだえた。まだ朝ではないだろ? ニペルナーティは起き上がった。朝だ、もう、もう夜ではない? 長く、暗い秋の夜はどこに? ニペルナーティは恐ろしくなって空を見た。薄青い光がもう雲の間から漏れている、森のりんかくが闇から現れた。カティはもぞもぞ動きはじめた。ああ、夜はどこに行ってしまった、夜は去ってしまった。幽霊のようにあっという間に消え去った。カティはもうすぐ目を覚ますだろう。二人は旅立つことになる。

 なんと冷え冷えとした朝なんだ! からだ全身に震えがきたが、それは寒さのためではなく、不安と緊張によるものか。すべての日々は神の手の中にある、ニペルナーティは繰り返し思う。そしてカティが目をあけ、にっこりするのを見た。
 「寝過ぎてしまった」 カティは言う。「もうずっと前に、歩きはじめていたはずなのに」
 「そうだ、そのとおり」 ニペルナーティはそう言ったけれど、自分の声ではないように感じた。「もう時間を無駄にできない、さあ、急ごう」
 カティはさっと立ち上がり、前の晩の食べものをもち、自分の持ち物をまとめ、準備万端。
 「この毛布を農場に戻さなくては」 カティはそう言って微笑み、拳で目をこすった。
 「古いソリ用の毛布のことかい?」 ニペルナーティは気にしていない風で、足でそれを押しやった。「気にすることはない。農場の人がすぐ干し草を取りにやってきて、毛布を見つけるさ」

 道に出ると、カティが言った。「足はもう全然痛くない。夜まで歩けそう。でもすぐにあの森のところまで行けるから。家まで1時間とかからないんでしょ」
 「そうだ、家まで1時間とかからない」 ニペルナーティが静かに復唱し、カティのあとをついて歩きはじめた。しかし森に近づくと、ニペルナーティの足取りは遅くなり、前屈みになっていった。カティが肩越しにどうしたのかと後ろを見ると、ニペルナーティは不平をこぼした。「今日はきみは快調だね、たいしたスピードだ。ついていけないよ。ちょっと休もうか?」
 「もう?」 カティが笑った。「まだ30分も歩いてないけど」「ほんとに、まだ30分なのかい?」 ニペルナーティが首をかしげる。「もうずっと歩いてきたみたいだ。正直言って、今日はあまり調子がよくない。からだ中が痛い。風邪でもひいたかな」「家についたら、あたしが面倒をみるから」 カティがそう言って、足を速めた。「あとちょっと我慢すれば」
 「もうすぐ家だな!」 ニペルナーティはため息をついて、足を運んだ。「ああ神様」 ニペルナーティはひとりごとを繰り返す。「すべての日々は1本の糸のように、あなたの手の中に。あなたの息子に、幸福を一粒わけてくれませんか?」
 二人が森を抜けると、広々とした畑や平原が目の前に現れた。大きな農家が隣りあっていくつもあり、それぞれ庭と穀物畑に囲まれていた。カティはびっくりして足をとめ、手にしていた荷物を落とした。
 「どれがあなたの農場なの?」 カティが目をこらして訊いた。「むこうのあの家? 赤い煙突のある。それとも大きな牛小屋のそばの家なの? それかあの湖のそばの家? 教えて、トーマス、早く教えて!」

 トーマスは顔をあげることすらできない。見もせずにでたらめに言う。「あれだ、牛小屋のある」 指差したものの、見ることはしない。「あー、ここは天国!」 カティは興奮して喜びの声をあげた。「あの家だと思ったんだ、牛小屋のある家。あの家がいちばん好き。よく肥えた牛がいるのは、あそこしかない。15頭のよく肥えた牛。でもあたしたち、この道を行くんでしょ、トーマス、そうでしょ。この道があなたの農場につづいてるんでしょ」
 「そうだ、この道だ」 ニペルナーティはそう答えて、踊るように歩くカティの後ろをグズグズと歩く。「わたしの魂が神様の手の中にありますよう!」 そうため息をついた。


 ハンゾーヤの農夫、マディス・モールマーは馬に餌をやり、牛を小屋から出し、鎌をとぎ、次は何をしようかとあたりを見まわす。この日、マディスは農場で一人だった。他の者全員が、ハルマステの市に昨夜から行っていた。この家の息子のヤーンとその妻リースも一緒だった。
 マディス・モールマーは背の低い、痩せた男だった。その肩は両手のひらを合わせたくらいしかなく、顔はしかめっつらで醜かった。誰かがハンゾーヤの農夫を後ろから見たら、大人の男ではなく、ガニ股の羊飼いの少年と見間違えただろう。マディス・モールマーがすきに手をかけ、鎌を手に取り、重い穀物を持ち上げようとすると、強靭な男たちが走ってきて、この男の強さや頑丈さ、粘り強さを称賛した。その姿は男が穀物袋を抱えているのではなく、短い曲った足の上に乗った袋が、納屋にむかって歩いているように見えた。
 しかしマディス・モールマーは、文句を言うことなしには何事もしようとしなかった、何一つだ。理由があってもなくても、いつもため息をつき、愚痴を言い、嘆いていた。農場を去ると脅すことなく、1日たりとも過ごすことがなく、にも関わらず、この農場で30年間も働いていた。この教区を超えて出かけることすらなかった。母親が羊飼いとしてここに連れてきて以来、多くを求めることのないダニみたいに、この農場に巣食って暮らしてきた。とはいえ「ここを出ていく」という脅し文句を言うのが好きで、ルーズで怠けぐせのある雇い主を見くびっていた。まるで犬みたいに、この男はいつも歯をむきだし、燃え上がる森みたいにシューシュー音を放っていた。

 実際のところ、この男は健全な年寄りで、勤勉にしてきちんとしたところがあったが、不平を常に言っていた。牛を見て、立ち止まると顔をゆがめて愚痴をこぼす。「困ったやつだ、食べて、ただ立ってるだけ、この役立たずが。ちょびっとしかミルクを出さない、ミルク缶にポトリ、こんだけの価値しかない。このしょうもない嫌われもののケモノが。おまえを役に立つよう、どうしてくれようか」 今度は豚とライチョウを見る。「この脂肪だらけの甲虫が、おまえは何のために生きてるんだ? えらそうに、ブーブーいうばかりで、お高くとまってんのか。おまえにすきを引かせたら、いいかこのオイボレ、額に汗してやっと餌が得られることがわかるだろうよ」 すきであろうと荷車であろうと、大鎌であろうと熊手であろうと、犬であれ羊であれ、この男は落ち度を見つけては、それを呼びつけて心からの嫌味を言う。そんな風にいつもブツクサ言いながらうろついて、ハアハアフウフウ言って、小言を放ち、怒った犬みたいに吠えたてる。彼はヤーク・レオーク(この農場の主人)も放ってはおかない。アブみたいに主人にとりついてブツブツ言いつづける。主人はまるで聞いていないのだが。つまり耳などかさないということ。

 「あの60になるオイボレ爺が」 マディス・モールマーは主人のことをそう言う。「誰か気の利いたやつがオイボレ爺の棺桶を家に持ち込めば、農場は息子の手に渡る。しかしあいつはブラブラして、酒を飲み、わめきまくり、死ぬ気など一向にない。死ぬ気はないんだ、妻をめとりたい、哀れにも楽しいハネムーンさえ夢見てる。真夏の暑い日だろうが、凍る冬の寒さの中だろうが、オイボレ爺はいつも兎皮の鳥打ち帽をかぶり、羊皮の上着を着て、膝までのブーツを履いてる。それにこいつはバカでかい、鼻だけでも他の男の頭の大きさだ。肩幅は村の門くらいある。その足はオークの古木みたいに太い。こんな巨人が歩けば、地鳴りが起きる。こいつが荷馬車に座れば、それだけいっぱいだ、荷は積めない」

 ヤーク・レオーク爺は、そこで用事があろうとなかろうと、祭りや市に行くのが大好きで、いつも息子のヤーンを連れて出掛けていく。すると市の人々は声を掛け合う。「レオーク親子が来たぞ、レオーク親子が来たぞ」 それでハンゾーヤの主人は蚊に襲われたみたいに人々に取り囲まれる。この見た目そっくりな二人の巨人親子は、飲んだり歌ったりが好きだった。この親子がたっぷり酒を飲むと、女のような高い声で歌いはじめ、誰もそれを止められない。そしてさらにウォッカを飲み、互いの甘く鳴り響く歌声に陶酔すると、夜が更けるまでさえずりは止まらない。夜になって、父親が息子を持ち上げて荷馬車に積むと、家路に向かう。息子はウォッカを飲むと酔っぱらってしまう。父親ほどには飲めないので、いつも父親が息子を荷馬車に積み込むことになる。息子の頭を脇に抱えて、家に戻る。

 この二人、父と息子は仲のいい友だちだった。出かけるときはいつも一緒だった。ところが息子が30歳になったとき、妻を得た。それを父親はまったく喜ばなかった。「このバカが」 父親は叱った。「こいつが妻をめとるって? もうちょっと待て、俺が自分のいい嫁を見つけるまでな。そうすりゃ、結婚式をいっぺんにできる。なんでこのバカが急ぐ必要がある。しかしこいつは俺を無視した。二人で部屋でいちゃいちゃしてる。この俺、ハンゾーヤの主人はハネムーンを楽しんでる二人を、ただ見てるだけだ。俺には何も面白くも楽しくもない。しょうもないやつらだ、年長者に対して尊敬の念がまたったくない!」

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'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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