見出し画像

第一章 第一話:帰国の誓い

 成田国際空港に降り立った小田夢佳は、一瞬、日本の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。イタリアのヴェローチェ・アズーラでの長い日々を経て、彼女の足元に広がるのは懐かしい故郷の土地だった。

空港の外に出ると、彼女を出迎えたのは照りつける太陽と、まるで歓迎するかのように微笑む桜の花びらであった。

「ただいま、日本。」

彼女の心は既に次なるステージへと向かっていた。日本に戻る決意を固めたのは、イタリアのチームが解散を迫られる中、新たな挑戦の場を求めてのことだった。
自分が得たすべての経験と知識を活かし、国内でまだ弱小とされる女子ロードバイクチームを一つの頂点に導く―その熱い想いが彼女を突き動かしていた。

待ち受けていたのは、自転車ジャーナリストとして名を馳せる姉の小田七美だ。七美は夢佳の帰国を心から喜び、空港のゲートで温かく抱擁した。
「おかえり、夢佳。すごく待ってたよ。」

「久しぶり、七美姉。日本に戻ってきて、本当に新しいことが始まるんだって実感してる。」

姉妹は空港を後にし、車で夕暮れの道を進んだ。車窓から見える景色は、夢佳が長年慣れ親しんだ風景と変わらず、それでいてどこか新鮮に映った。姉妹の会話は、夢佳の海外での経験から、これからの計画に及ぶまで多岐にわたった。

「イタリアでの生活はどうだった?」

「多くを学んだよ。特に自己管理とチームプレイの大切さは、どんなトップレベルの競技にも通じるものがあると感じた。でも、やっぱり日本の土を踏むと、ここで何か新しいことを始めたいと強く思うね。」

夢佳の目には、揺るぎない決意が宿っていた。イタリアで培った技術と経験を生かし、新たなチームで自分自身の限界に挑む。そのためには、日本国内でまだまだ発展途上の女子ロードバイクシーンに新たな風を吹き込む必要があった。

夕日が道路をオレンジ色に染め上げる中、夢佳は窓から外を眺めながら、心の中で新たなスタートを誓った。この国で、自分が世界で戦ってきたすべてを試す場所を作る。それが彼女の新しい目標であり、情熱だった。

ただ夢佳はまだ国内でどのチームに加入するかは未定であった。なのでまずはその辺を考える必要がある。とにもかくにも夢佳は七美の運転する車で自宅まで帰ることにした。

ちなみに七美の運転する車は自身で手に入れた星動自動車製の「スターライト」というステーションワゴンであった。この星動自動車は、日本国内の男女のロードレースにおいてニュートラルカーまたはチームカーとして長年利用されている。

スターライトは2012年に登場して3代目となる。七美の乗っているのが3代目で、納車されたばかりだ。

「夢佳、この車、昨年夏(2023年)にデビューして、今国内のロードレースのニュートラルカーに使われてるのよ。私は発売前に先行予約していたから、かなり早く納車されたの」

七美は自慢げに日本に帰ってきたばかりの夢佳に話す。夢佳は少々あきれ気味であったが、久しぶりに顔を合わせるということもあり、その相変わらず感に安堵した。

「すごくいいよ。なんか乗り心地が急に変わったけど、これは欧州車にもついてる電子制御サスペンションが付いているの?」

「流石夢佳、あんたはロードバイクだけでなく車にも詳しいのだから」

そう、夢佳はイタリアチーム在籍時にイタリア国内で使える免許を取得していた。イタリア国内での練習などの間は自動車で移動することもあったからである。自動車の運転は、同じ20代とは思えないほど安全で安心できる運転技術を有している。

「この車は電動ターボハイブリッドだからね、ターボの中に発電機能付きモーターが付いていて、低速時にはコンプレッサーを駆動してターボラグをなくし、巡航・減速時には廃熱エネルギーを電気エネルギーに変換できるのよ」

自慢げに説明する七美に、夢佳は
「そんなの知ってるよ。私を誰だと思っているの(笑)。貯められた電気で走行用モーターを駆動したり、その他補機類を駆動するぐらいわかってるわよ。それに超高度運転支援システムにAIが搭載されていることも知っている。そんなことよりも、七美姉は私がいない間どうだった?」

そう聞き返される頃には、首都高速道路の料金所を通過して高速に入っていた。

「(ポンポンポン…)よし、ハンズオフ機能ON。もちろん充実していたわよ。動画チャンネルの登録者も15万人だし、マルチ配信プラットフォームのフォロワーも1万人。音声配信も5万人よ。いろいろロードバイク・クロスバイクについてレビュー動画や記事配信しているからね。昨日もあんたがレースで使っていたロードバイクメーカー華陽サイクルのロードバイク試乗インプレッションの仕事だったからね。その話聞かせてあげようか?」

七美は、「スターライト」のハンズオフ機能をONにして、ステアリングから少し手を離した状態で、前を向いたまま話す。

「その華陽サイクルの新型話聞かせて。まだ出せないと思うから、誰にも話さないよ」

その後、七美は夢佳に新型ロードバイクの話をした。
そうこうしていると、実家近くの道路まで近づいていた。

「ハンズオフOFFにしてと、夢佳、もうすぐ実家につくよ。お母さんもお父さんも楽しみに待っているわよ」

「そうだね。それにしても、この車本当にハイテクすぎるね。最近話題のEVではないけど、ハイブリッドでここまでの車は見たことがないね」

「でしょ。これこそ星動自動車の真骨頂よ。だから20年以上前から日本のロードバイクレースに車両提供されているわけよ。この車なら夢佳をはじめとした選手も安心してロードバイクレースができるわけよ」

そう、この3代目スターライトは、先代から高速道路限定でのハンズオフがさらに進化して渋滞時~時速60㌔から、100㌔・120㌔(新東名など一部区間)に拡大されたのだ。それに同一車線車線維持機能の質は、世界トップレベルで、このレベルに到達しているのは世界を見ても星動自動車を含めて4社しかない。

これは星動独自開発の画像認識AI+制御AIとトリプルカメラ+ミリ波レーダ+GPSのおかげである。この機能はロードバイクレースにおいてもスターライトをベースとしたニュートラルカーを運転するドライバーも信頼するほどである。

「でも夢佳、あくまで超高度運転支援システムだから過信は禁物。夢佳も運転していいように保険買い替えてあるけど、運転するときは注意して使うのよ」

「わかったよ。七美姉の言うこと守るよ。あとイタリアで使っていたトレーニング用のダイレクトトレーナー式とエスプレッソマシーン、電動ミルを空輸してるよ。あとの便で来る予定。でもかなり運賃かさんだよ」

「もう。夢佳ったら向こうでチームメイトにいろいろ教わって調子に乗るからよ。まあでも準エースとして頑張ってきたのだからね。それにブランド立ち上げてそこでの報酬もあるから何とかなるじゃん」

「そうだけど~。まあなんとかなるね(笑)まあ私のダイレクトトレーナーは最新のハイテクなのだけど、わがまま言ってしまい乗ったまま仕事もできるようにしてもらったの」

「まじー。そういや送られてきた写真で見たけど、PCやタブレット・キーボードを置くことが出来るようになっていたわね。本当にあなたはもう考えることが異常だわよ。さすが日本女子ロードバイク界の絶対的エース様ね(笑)」

「やめてよ七美姉。あっそうだ。カフェラテも明後日マシーンが届いたら作ってあげる」

実は彼女はイタリアでチームメイトに勧められてイタリアンエスプレッソの店に通うようになった。もちろんロードバイクのレースに影響しないようにカフェインコントロールもしていたのである。ただ夢佳は自転車競技に限らず、一度ハマると、その沼から抜けられなくなる。

そのためレースや練習がない日にはそのカフェ(イタリアではバル)でエスプレッソの入れ方やラテのやり方までマスターしてしまったのだ。そこのオーナーもこの日本人は一体何者だと舌を巻いていたのである。

よく日本語で「天は二物を与えず」という言葉がある。ただ彼女はその言葉に反して、バリスタ顔負けのレベルまでに達していたのである。

一般の人からするともう凄すぎてどう表現したらいいかわか分からなくなる。本職のロードバイク選手としての才能だけでなく、バリスタとしての才能まで開花してしまったのである。

夢佳は恐るべき才能を秘めているのかもしれない。でも夢佳はバリスタなどにはなる気は全くない。彼女はあくまでロードバイク選手として果たしたい夢があるのだから。

「あんたみたいに何でもできる人がうらやましいわ。でも私は私よ。妹に負けていられないわよ」

七美もそう言いながらも心の中では、妹夢佳のことを誇らしく思っていた。そうしているうちに実家に到着したのである。高校3年生にイタリアに渡ってから9年ぶりの実家である。夢佳はイタリアに渡ってからは、ロードバイク競技に専念するためにあえて実家には帰省していなかった。

日本国内のレースも20歳の時に出場して優勝した日本選手権一回限りであった。それ以外は欧州の女子ロードバイクレースで活躍し続けていたのである。

正直20歳で日本選手権を制した時は、圧倒的な強さを見せて2位以下を引き離す圧勝であった。そのため翌年からは一切出場しなかった。日本選手権で連覇するより女子ロードバイクレース最高峰で戦っていたほうが自分にとってはるかに成長になると考えていたからである。

9年前に七美が見たときの夢佳とはまるで別人のように超進化をして帰ってきたのである。考えていること、話していること一つ一つがもう国際基準である。
ただ家族との会話では、あどけなさや幼児っぽいところが出てくるのが夢佳の特徴である。逆に言えば、そのぐらい自分を自己コントロールできるようにイタリアでいろいろ学んできたのである。

のちに明らかになるが、イタリアで彼女は最新の医学・科学の知識も習得してきたのである。

七美が自動駐車機能で車を止めると、玄関から二人の両親である知子と宏大がほほえましい顔で迎えていた。夢佳はラゲッジルームから向こうで使っていたロードバイクと旅行ケースを取り出して、知子と目が合った。

「お母さん、ただいま戻りました。9年ぶりだね」

「夢佳。おかえりなさい。本当に夢佳なのね?」

知子は思わず涙を流しながら夢佳に抱き着く。その後ろで宏大も目頭を熱くしていた。

「夢佳、お帰り。よく帰ってきてくれた。お父さんはうれしいぞ。さて、いろいろあっただろうからひとまず家の中に入って着替えてくれ。今後のことは後で決めたらいいからな」

こうして帰国一日目はあわただしく終わりを迎えたのである。

 その夜は、夢佳の帰国と9年間イタリアでの活躍を祝って、イタリア料理でささやかなパーティーが開かれた。そこには、とある人物も招かれていたそれは夢佳のライバルでもあり良き先輩でもある椎名理沙であった。

夢佳の2歳先輩であり、現在国内のロードバイクチーム:メテオ・サイクルチームに所属している。夢佳と並ぶ国内女子ロードバイク界のスターである。

絶対的エースの夢佳に続く実力を持っており、夢佳・理沙のWエースと言われるほどである。夢佳が小学校高学年から同学年の全国大会で優勝を続けているころからの付き合いである。今では家族ぐるみの中でもある。この日は、理沙は両親とともに小田家に招かれていた。

「あれ、理沙さん来てくれたのですね。お久しぶりです。私が20の時に出た日本選手権以来でしたね」

「夢佳久しぶり。七美さんにお誘いしてもらったの。てかオンラインでは何度も会っているじゃない。だから久しぶりって感じしないわ」

「そうでしたね。でも直接顔を合わせるのは久しぶりですから思わず言ってしまいました。あと理沙さんのお母さん・お父さんもお久しぶりです」

「夢佳ちゃん久しぶりね。あなたの活躍は、知子さん・宏大さんから聞いていたし、理沙からもいろいろ聞いていたわよ」

「そうだよ。君の活躍は理沙同様に娘のようにうれしかったよ。チームの解散とかいろいろ大変だったね。話せる範囲でいいから聞かせてね。今後のことで何か力になれたらと思っているよ」

「お二人とも本当にありがとうね。夢佳に代わってお礼をするわ」

「知子さんそこまでしてもらわなくてもいいですよ。私たちの中ですからお気になさらずに」

こうした会話をしたのちに、夢佳がイタリアで購入した高級白ワインを開けてささやかなパーティーは始まった。夢佳のイタリアでのレースの話や生活のこと、文化の違いなど理沙とのオンラインでのやり取りでは明かされなかったことを沢山話すことができた。

「理沙さんも欧州でレースしたいと思いませんか?」

「もちろん願わくは欧州で戦いたいけど、今は自分のチームでの役割を果たすことが優先事項かな。でもそれがひと段落したら挑戦するのもアリかもね(笑)」

「理沙、母さんも僕ももし欧州に挑戦するときは止めたりしないよ。理沙が納得するまでとことん挑戦してきなさい」

「お父さんありがとう」

「理沙ちゃんなら絶対欧州でもうまくいくわよ。夢佳よりレース成績が上になったりして(笑)」

「もう七美さんやめてください」

「一同(笑)」

こうして一日は更けていく。

「理沙さんたち、本日はありがとうございました。今後国内では良きライバルとしてまたよろしくお願いします。どこのチームに所属するかはわかりませんが、レースに出たときは理沙さんに挑戦する気持ちで戦います」

「望むところよ。お互いに進化を止めずに日本女子ロードバイク界を引っ張っていこうね。こちらも張り切らないと、絶対的エースの国内復帰だからね。とにもかくにも今日はゆっくり休んで、明日以降再スタートを切れるようにするのよ。どこのチームに加入するかまた教えて」

「もちろんです。しばらく国内のレースのことを把握していませんでしたから。今どうなっているかしっかり情報収集しますね」

「では私たちはこの辺りで失礼します。今日はありがとうございました」

そう言って理沙とその両親は、徒歩と電車で帰宅の途に就いたのである。

 その後夢佳は、久しぶりの実家でのお風呂を済ませて、高校3年生の夏以来の自分の部屋に踏み入った。

部屋は両親が当時のままにしておいたのである。なおその隣には姉七美の部屋があったが、七美は今は同じ市内で一人暮らしをしている。そのため部屋は別の用途に転用されている。

尚子の実家は、夢佳がイタリアに渡る前に大幅リノベーションをしている。それも知子と宏大がDIYして作り替えたのである。知り合いの大工が経営しているリノベーション専門の会社の協力のもと自分たちの手で作り替えたのである。

宏大は後述するが、アウトドア会社を経営しているが、当時はまだ創業間もないこともあった。そのためあまりお金をかけることなくリノベーションするために、元から趣味としていたDIYを生かして自分たちで作ったのである。当然、地震対策も施されており、震度7クラスの揺れが来ても耐えられるように設計されている。また、害虫対策や換気対策も施されている。

ただ夢佳がリノベーション後の実家に住んでいたのは1年間ほどであった。
夢佳の部屋は、女子高生そのものの部屋であった。26歳の立派な社会人であり、女子ロードバイク界の絶対的エースの立場にはそぐわない感じはしなくない。

リノベーション前は、実家にはたくさんの家具があったが、それらはすべて売却して、おしゃれで場所を取らないギミック満載の壁内蔵収納が設けられている。

夢佳の部屋の壁にもギミックがある。スライド式本棚の奥に今時の収納スペースがある。そこには家族しか知らない秘密のものがあった。

「あぁ懐かしい。私にとっては、心の支えでもある『マジカル☆ハーモニー』シリーズ。ちゃんといてくれたのね」

「そうよ。夢佳の大好きなアニメだからそのままきれいに置いておいたのよ。定期的にほこりが付かないようにしてあげたわよ」

そう、夢佳にはイタリアでのコーヒー愛以外にも秘密の趣味があった。それはニチアサでやっている『マジカル☆ハーモニー』シリーズのファンであることだ。女児に大人気のアニメで今でも最新作が放送されている。

夢佳はイタリアでもネット配信でずっと視聴し続けていたほど大ファンである。ただイタリアには収納スペースに置いてあ
るものを持っていかなかった。競技に専念することが主な理由である。
そこには、幼稚園児の頃から高校2年生まで集め続けてきた『歴代のマジカル☆ハーモニーの絵本』と自分が世代であった初代『マジカル☆ハーモニー・ドリーム』の変身玩具、そして子供向け変身衣装が置かれていた。

2作品以降は変身玩具、子供変身衣装などはさすがに購入しなかったが、絵本や主題歌のCDなどは購入してもらっていた。

そしてその隣には、中学生で購入してもらった初代『マジカル☆ハーモニー・ドリームのキャラクターの大人用衣装がきれいに置かれていた。これは初代シリーズが10周年記念で、玩具メーカーから限定受注販売された衣装だ。

子供向け変身衣装の大人サイズで素材やデザインを忠実に再現したものである。よくあるコスプレ衣装と一線を画すものであった。かなり人気があったためすぐに販売終了となったものである。懐かしさに目じりが熱くなった。

そして知子が後ろから肩を叩いて何か袋を渡した。それは9年間イタリアで準エースまでに成長した夢佳へのプレゼントであった。

「夢佳、お母さんからのプレゼントよ。今の夢佳なら余裕で購入できると思うけど、日本に帰ってきてから使ってもらいたいと用意したのよ。開けてみて」

「ありがとう。なんだろう」

夢佳は嬉しそうに受け取ると、その中身を空けてみた。かなりたくさん入っていたので驚いた。中から出てきたのは、夢佳もびっくりな物であった。

「マジカル☆ハーモニーをモチーフにした夢佳のためのサイクルジャージとサイクルパンツよ。そしてサイクルヘルメットよ。もちろん夢佳のことを考えて、ヘルメットの形状は、夢佳がイタリアで使っていたのと同じメーカーのヘルメットにデザインをしてもらったのよ。サイクルジャージとサイクルパンツも同様よ。ただし、誰が見てもマジカル☆ハーモニーとわかるようでは、さすがに夢佳も恥ずかしいと思うから、オマージュとして作ってもらったの」

「本当だー。わかる人にはわかるけど、子供っぽさがまるでなく、かっこよくデザインされているね」

「そうでしょう。今後チームに加入したらチームのサイクルジャージとサイクルパンツを使用することになるでしょうから、プライベート限定で使用してね」

「うん、ありがとう。それとまだ中に入っているけど何かな?」

「それはね、完全に家だけで使ってよ。遠征先などでは、さすがに使えないものよ」

どこかで見覚えがあると思ったら、それはなんと『マジカル☆ハーモニー・ドリームのパジャマ一式であった。幼稚園児の頃に、知子に買ってもらったパジャマそのものであった。

「これどうしたの、大人版もあったの?」

「そうよ、これはね、マジカル☆ハーモニーシリーズ20周年を迎えたでしょ。それを記念して玩具メーカーが10周年記念で出した子供用変身衣装の大人版と同じコンセプトで、今度は初代マジカル☆ハーモニー・ドリームの当時の子供パジャマをそのまま大人サイズにして商品化したのよ。もちろん大人向けにデザインしたパジャマも販売されているけどね。でも夢佳が駄々をこねてしぶしぶ買ってあげたパジャマだったからこちらの方がいいかと思って購入したのよ。だから家で寝るとき限定で使ってね。冬用と夏用それぞれあるからね」

「ありがとう。うれしいよお母さん。これなら日本での自転車レースにも身が入るよ。早速今夜から使ってみるね」

そう言って風呂上りに来ていた今のパジャマを脱いで下着姿になり、マジカル☆ハーモニー・ドリームのパジャマを着用した。サイズはぴったりで、収納スペースに内蔵してある鏡で見ると当時の自分をそのまま大きくしたかのような自分がいた。知子と抱き合って、お休みの挨拶をしたのち9年ぶりのベッドに入った。

ベッドは有名アスリートも使っている某メーカーのベッドである。ただしカバーはマジカル☆ハーモニーシリーズのキャラクターが描かれている。夢佳はその後すぐに夢の中にいざなわれた。

 翌朝ぐっすり眠れたのか朝6時に目が覚めた。二日酔いの影響もそこまでなく、起きれたのである。ここから夢佳の日本国内での自転車競技キャリアの再スタートとなる。

そうして夢佳が日本国内に戻ってきたことは、自転車競技界全体に広がっていたのである。夢佳の実力は、女子ロードバイクだけでなく男子そして、マウンテンバイクレースやCX競技などの選手にも知れるほどであった。そして良きライバルの理沙は当然としてそのほかの女子ロードバイク界の選手も夢佳がイタリアから9年ぶりに帰国したことを知る。

彼女たちにとって、夢佳が国内のレースに参戦することは大変脅威である。自他ともに認める絶対的エースが復帰するとなるとそれは一大事である。それに欧州の最高峰レースで鍛えられ、進化してきた彼女に今敵う人などいるのだろうかといった状況である。

もちろん彼女が20歳で優勝して以来出場していない日本選手権だって今後は出場する可能性がある。そうなるともう独壇場になるかもしれない。そんな警戒感が各選手・チームに漂っている。

ただまだ夢佳はどこのチームにも加入していない状態であり、これから加入先のチームを決めないといけない。しかし彼女の場合は、ほかの選手と違い自ら足を運ぶ必要はない。絶対的エースであり誰もがその才能を認めるわけだ。

なので帰国翌日からは、実家には各チームから加入のオファーの手紙がやってくる。夢佳は日本自転車競技連盟から各国内実業団に対してオファーの手紙は、連盟経由でと定めてもらっていた。

夢佳は帰国前に連盟の会長と直接やり取りをして、帰国後、国内レース復帰までの日程を綿密に決めていたのである。彼女からすると当たり前であるが、ここまで用意周到なのはさすが天才といった感じである。

彼女からすると実業団は選び放題の立場である。実業団側には、彼女の帰国に合わせて今シーズンの計画を変更するところもあったそうだ。それは彼女をエースとして迎えることを想定してのことである。

ただ彼女は、9年間国内から離れていたので、現状の国内レースがどのような状況であるかまず把握する必要があった。そのため彼女は、日本車を運転するための手続きをもしっかり済ませていた。

帰国後一週間は、遅れて到着した荷物の整理と自分の部屋の改装に取り掛かっていた。一人暮らしを引き続きすることは彼女からすると苦ではなかったが、せっかく父が再度リノベーションしてくれた実家に同居することを決めた。そのために自ら電動ドライバーを使って自分の部屋をリノベーションすることになる。ロードバイク競技に打ち込むためと、趣味も自己コントロールの範囲で楽しむために決断したことだ。

材料などは、父親が出すと言ってくれたが、さすがにそれはよくないと自分のお金で工面をした。彼女からするとたやすいことである。

行政面での必要な手続きを済ませたほか、実家の通信についても彼女が費用を出すことを両親に伝え、その手続きもしたりして一週間はあっという間に過ぎた。部屋はかつての女子高生部屋から超一流のアスリートの部屋へと変貌した。隣の元姉の部屋との壁を取っ払い一つの部屋とした。そして効率よく使えるように工夫をしたのである。

部屋のオフィスエリアには、イタリアから空輸して持って帰ってきた特注の超最先端のハイテクサイクルトレーナーを配置して、トレーニングしながら仕事もできるようにした。

パソコンとタブレット、スマホを固定する器具と、最新のキーボード並びに書類を置ける机を設けている。またこれは左右に稼働するので、スタンディングデスクとしても使える。その隣には、使いの折り畳み式スタンディングデスクを配置した。

そしてサイクルトレーナーの反対側には、下半身トレーニングのためのマシーンが置かれた。ベッドは、部屋の左側、元の夢佳の部屋側の壁収納が内蔵されていないところに移動した。ギミック付きの壁収納は、半分がロードバイクレースで使うサイクルウェア類とクリート付きサイクルシューズ、並びに超高級サイクルウェア&超高級サイクルヘルメットの置き場所を自分で作った。

そして反対側の端には、『マジカル☆ハーモニー』関連のこれまでの商品やこれからも買うだろう商品の置き場所を確保した。絵本などは、その収納スペースを土台として戸棚に並べた。

反対側の戸棚には、自転車関連の専門書籍や関連する医学・科学書籍などがずらりと並んでいる。この戸棚は、地震が起きても倒れない構造になっている。そして収納スペースの真ん中に私服などがしまわれるスペースを設けた。

なお服は、帰国前にかなり整理をして不必要な服は、イタリア国内のNPOを経由して貧困家庭の方の支援に回したのである。夢佳は整理整頓が得意で、すぐに物を捨てられるのである。ただし他人の物は、本人の許諾なしには絶対捨てたりはしない。

そして小学校で使っていたランドセルは、すでに母親にお願いして貧困家庭の子供たち支援の団体に寄付をしている。そのため今あるのは高校の頃の制服と中学校の頃の制服が置いてある。中学校の制服は通っていた学校が今も同じ制服なので、寄付をする予定である。

ただ高校の制服は若干デザインが変わっていることと、夢佳が思い出として持っていたいと思っているため、捨てずにコスプレ衣装的に利用するために置いておくことにした。ちなみに高校2年生まで来ていた服は、8割がた寄付やフリマで売るなどして処分をしている。

彼女は社会問題にも関心があるので、そうした服などを寄付することも抵抗は一切ない。

「よし、これで国内でのレース復帰に向けての準備は終了。さあ、ここからまずはオファーをもらっているチームの中からどこにしようか決めないと。その前に今日は自分のブランドの新商品の開発に向けての会議があるから、急がなくちゃ」

「夢佳、晩御飯はいらないよね。今日あなた東京で仕事だよね」

「そうだよ。内閣府の民間委員の仕事と自分のブランドの仕事があるから。お母さんごめん」

そう言って、夢佳はこの日朝から朝食をとって、新調したばかりのスーツに袖を通した。こちらは、夢佳がオーダーしたスーツで、自転車関係の仕事で使用する。

夢佳は家を出て歩いて5分ほどにある最寄りの駅から東京の中心部に向かった。イタリアで購入したカバンには、日本製の超高性能ノートPCとAndroidタブレット、電動歯ブラシ、そして簡単な化粧道具とサイクル用の水筒を入れて出ていく。歩いている姿は、さすがアスリートである。夢佳は骨密度の強化のためにランニングもしているため、歩くフォームは一般人とは違った。

朝あくびをしながらせわしなく会社に向かう同年代や上の世代の会社員たちに交じり歩く。もし自分が自転車競技に打ち込んでいなければ、今この人たちと同じようにストレスを抱えながら出勤をしていただろうと考えると、ぞっとしてきた。

(急速にAIが発達しており、ニュースではホワイトカラーの仕事が9割もなくなると言われている。この人たちは本当に大丈夫なのかな?私みたいに、もちろん厳しい世界であるが、自分がやりたいことをとことん追求して目標に向かう仕事をしたほうがいいと思うのに。ただ与えられた仕事ばかりやって給与をもらっているようでは、この先厳しいと思うけど)

と心の中で呟きながらも電車に揺られて都心部に向かう。

満員電車の中は、本当に窮屈そのものである。強靭で鍛えられた下半身は、それを何とか耐え忍ばせていた。同じ車内の会社員や学生は、まさか日本女子ロードバイク界の絶対的エースがいることなど考えもしないだろう。

彼らにとっては、早く会社や学校につきたいと考えているはずである。中にはもう退屈だと感じている人もいるだろう。少し前までのコロナ禍から日常を取り戻して、それがストレスになっている人もいるだろう。

そんな中、夢佳は途中の乗換駅でその殺伐とした満員電車を降りて、乗り換えの電車に乗る。今度は2両連結されている2階建てのグリーン車に乗り込む。グリーン車は特急普通車並みの快適さで、PCを立ち上げて本日の仕事の準備をした。

とはいっても自身が展開しているブランドの開発会議で使われる資料の確認と、スタッフに対する指示をメールで送信。そして民間委員として参加する政府の会議の事務局とのやり取りを済ませるだけである。

彼女のPCスキルは、偶然横に座っていた上級ビジネスマン以上の実力である。タッチタイピングのスピードも異常に速い。今からそのままどこかの会社に勤めていたら、かなり出世をしていたかもしれない。でもあくまでスポーツ選手であり、彼女もそのことを理解していた。

「よし、これでいいと。あとはブランド会議と政府の民間委員としての仕事、そして超党派の国家議員連盟での講演、並びに連盟との話し合いをするだけ」

「まさか夢佳選手ですか?」

隣の上級ビジネスマンが声をかけてきた。非常に丁寧な口ぶりで、物珍しさからではなかった。隣の男性は、20年以上も自転車競技・トライアスロン・水泳を趣味にしている人だそうだ。今はベンチャー企業の上席執行役員を務めているそうだ。顔を見た瞬間わかったそうだ。

男性にはこのことは内緒にしてくださいとお願いをしたうえで、いろいろお話をした。東京駅について、グリーン車を降りる際には、男性がエスコートをしてくれた。お互いに別れの挨拶をし、その場を後にする。

9年ぶりの東京駅は、かなり変わっていた。そして丸の内側に降り立った彼女は、その足でビルへと向かった。丸の内のビルの中に夢佳が立ち上げたブランドの運営を担ってもらっている企業が入居している。

この会社は、多くのスポーツ選手や有名デザイナーのブランドの運営支援をしている会社である。経常利益・利益率は好調で、今注目の企業である。今後都内から本社を移転させる予定で、夢佳が丸の内の本社での会議に参加するのがこれで最初で最後となる。つまり今回初めて本社に向かうのである。

オフィスに入ると、夢佳のために部屋が用意されていた。オフィスにはガラス張りの役員オフィスがあり、その中には役員の机があった。夢佳はその一角を用意してもらっていた。

「夢佳ちゃん、9年間イタリアでの活躍お疲れさまでした。これからの日本での活躍を期待していますよ」

会社の代表取締役CEOの男性と代表取締役COOの女性から祝福とエールを受けた。CEOの名前は織田健太郎で、夢佳の10歳年上の35歳で、COOが鈴木咲で37歳である。二人とも趣味でロードバイクに乗っており、副業で自転車系動画チャンネルを運営している。社員は役員を除いて、100名ほどである。役員は二人を入れて10名(取締役4、執行役員6名)である。

すると夢佳の目にとあるものが留まる。それはエスプレッソマシーンである。これは、取締役CFO(最高財務責任者)の女性が、バリスタとしての仕事を副業でしていることからマシーンを持ち込んでおいている。

社員のためにそのCFOが淹れてくれるのである。夢佳はその女性の方に許可を取って、自らエスプレッソ並びにラテを入れる。すでに出勤していた会社の社員は、驚いた表情で夢佳の周りに集まってきた。夢佳は一切動じることなく趣味で極めた技を見せた。そのCFOはもうたじたじになるほどであった。

その後ブランドの戦略会議が行われた。会議は効率よく行うことを徹底しており、最大でも30分で終わらせるようにしている。

「さて、現在のブランドの状況についての情報を皆さんのタブレットなどでご覧ください」

ブランドの運営を担当している社員が説明を始めた。コロナ禍以降、欧州では自転車が健康に良いということからかなりブームになってきている。日本でも自転車が再びブームになり始めている。

そのためウェアも欧州では順調に売り上げが増えており、順調に進んでいるようだ。ただ日本では思ったほど売り上げが上がっていないのが課題として浮かび上がってきた。

新規の女性サイクリストが思ったほど増えていないことがあげられている。そして夢佳が一番恐れている、あの低速モビリティーも影響をしていたのである。

「電動キックボードの規制緩和が大きく影響しているのではないですか?私がいたイタリアなどの欧州では、すでに個人所有以外の電動キックボードが禁止されています」

そう、2023年に日本では電動キックボードに関連する法律が改正されたのである。夢佳も欧州で電動キックボードに乗ったことがあるので、その利便性は理解している。一方でその危険性についても痛感しており、欧州ではその危険性とどこでも乗り捨てられるということがあだとなり禁止の国が増えている。

「そうですね。夢佳さんのご指摘の通りですね。その一方でヘルメットについては需要が一定数増えています」

「会議の内容とは変わりますが、この後政府の民間委員としての仕事があるので、そこでも触れようかと思っているのですが、個人的には電動キックボードは個人所有以外は禁止にしてもらいたいなと思っています。皆さんどうですか?」

夢佳からの質問にみんなは、大方危険性を危惧して禁止したほうが良いという意見を述べた。次世代の乗り物としては凄い技術であるが、その危険性は無視できないというみんなの思いが詰まっていたようだ。会議では、今後のブランドの国内でのブランディングにAIを活用していくことや、より女性のサイクリストを増やす取り組みをしている企業や団体と協業して進めていくことを確認した。

「夢佳ちゃん、日本で話をできて良かったよ。これからも引き続きブランド運営で一緒に頑張っていきましょう」

「もちろんです。こちらもよろしくお願します。私だけではここまでのブランドに成長できなかったと思いますので、CEOを筆頭に皆さんの協力があってこそです。頑張っていきます」

会議終了後まだ政府の委員会や自転車推進議連での講演まで時間があったので、会社のご厚意によってしばらくオフィスで準備をした。そこでオファーをしてきたチームからのメールやスキャンした手紙を確認してどのチームにしようか考えていた。

そんな中、とあるメッセージに目が向いた。そのチーム名に夢佳は見覚えがなかった。9年間イタリアにいたので無理はないが、それにしてもこのチームあったかな?と思った。その名前は「桜川レーシング」である。このチームこそ、のちに夢佳にとって大きな転機となるが、この時点ではそこまでピンときていなかった。

のちに詳しく明かされるが、この「桜川レーシング」は設立一年目の弱小チームである。日本女子ロードバイク界の絶対的エース夢佳には不釣り合いのチームである。

「ふうん。まだ設立して一年目か。候補外ね」

と削除しようとしていた時にマウスパッドを誤って押してクリックしてしまった。するとそこにはびっしりと文章が載せてあったのである。他のチームとは違い、何か思いが詰まっているような感じがしたので、削除するのも申し訳ないと思い最後まで読んで削除しようと考えた。

しかし、そう思って読んでいくとこれがこの時間では到底読み切れないほどの情報量が詰まっていたのである。

「送ってきたのは運営会社の代表安西紗織。女性の人が経営しているのか。写真まで載せている。見た目、なんか近寄りがたい雰囲気をしているわね」
そう言って夢佳はそのメッセージを削除せずに重要フォルダーに入れたのである。これが今後の運命を大きく決めることをまだ知らない。その後、時間が来たので、会社の皆さんに挨拶をして次の予定先の内閣府までは歩いて向かった。

夢佳は日本政府が最近自転車政策を推進するために内閣府の外局として自転車政策推進局を設立し、その助言のための第三者有識者委員会の民間委員を務めている。そして日本の自転車政策に関わる人たちの悲願であった自転車政策担当大臣が設立されたのである。時の政権が国民に向けてアピールするために進めた側面もあると思われている。

ちなみに担当大臣はサイクリストであることが絶対条件である。内閣府担当大臣で唯一の専任である。夢佳はこの第三者有識者委員会の民間委員にして、男性ロードバイク選手と共にアスリートとして任命された。夢佳がリアルで会議に参加するのは初めてである。

それまではイタリアからオンラインで参加していた。夢佳にとっては非常に緊張することであるが、自転車先進地域欧州と比べて圧倒的に遅れている自転車後進国日本の現状について思うことはあったので、その辺を民間委員として忌憚なく提言をしている。

また夢佳は日本のメディアでの自転車の取り上げ方にも大いに不満を持っている。イタリアにいたので動画投稿サイトの既存メディア公式チャンネルで自転車関係の報道を見ている。

そのほとんどが悪質なママチャリユーザーを取り上げて、罰則の強化を進めるべきという論調である。コメンテーターはサイクリストの方は別として大多数の人が、罰則強化や欧州では導入されていない免許制を訴えていた。視聴者受けの良いコメントしかしない。これには本当に憤慨していた。

夢佳は日本のメディアにはこれまでインタビューも含めて直接答えることはなかったが、日本に帰国してこの状況を改善したいと思っている。この辺の問題も有識者委員会や超党派の議連の国会議員に対して訴え続けている。

メディアでの発信もしていくつもりでおり、姉の七美にも協力をしてもらい自転車後進国日本が自転車先進国の欧州と比較してどのぐらいの立場に追いやられているのかを広めたいとも考えている。

有識者会議で自転車政策専任担当大臣やそのほかの民間委員と共に活発的な議論を展開した。会議では、自転車政策の具体的な方策や、予算の使い道、教育プログラムの改善点などについて意見を交わした。

「議員の皆さん、ぜひとも日本で積極的に自転車政策の推進を図ってください。自転車専用の道路網を欧州並みに拡充するための予算措置や、自転車が絡む交通事故を抑止するための学校教育における安全教育の義務化、糖尿病予防や運動習慣の改善のための安全で交通ルールを遵守したサイクリングの推進などをよろしくお願いします。私も現役アスリートとして活動を続けていきます」

夢佳の締めくくりの力強い言葉には、与野党から集まった有志議員から拍手と同時に真剣に取り組まないといけないという思いが伝わってきた。時の政権のトップの総理とは違い、真剣にこの問題をとらえていることが伝わってきた。

夢佳は相手がどのように感じているかをある程度察することができるので、議員の本気度を肌で感じた。とはいえ、それぞれの所属政党がこの自転車政策についてどのように考えているのかはまた別問題となる。

なのでようやく日本でも政策が前に進む第一歩を進むことができると身を引き締めていた。そうやってあわただしい一日が過ぎてから一週間がたった。

この一週間はいろんなチームからのオファーを吟味しつつも自主トレーニングと練習を進めていた。久しぶりに参戦する日本選手権に備えての練習である。

日本選手権までには加入チームを決めることをすでに決めていたので、もう残された時間はそこまで多くない。そんな中であの時見た桜川レーシングの熱いメッセージが非常に気になった。

桜川レーシングについては、夢佳自身いろいろ情報収集をしていた。その情報を見る限り運営会社の経営状況もそこまで順風満帆でもない。またチーム成績も最下位に低迷していた。イタリア時代のチームとは真逆の状況である。ただ夢佳の中で何か新しい目標的なものが生まれようとしていた。

 あくる日曜日、この日は平日と同じ朝早くに起きて軽いランニングを終えて朝食をとったのち、改装した自分の部屋のサイクルトレーナーでトレーニングをしながら、日曜日の日課であるマジカル☆ハーモニーシリーズ最新アニメを見ていた。

このアニメを見ているときは、子供に戻った感じであった。サイクルトレーナーを漕ぐ姿は超一流アスリートであるが、まなざしは子供そのものである。この瞬間は何も考えることせず純粋にアニメを楽しむことができる数少ない時間である。

毎日の日課である基礎トレーニングが終わってから、日曜日は仕事を休む日としている。ただ正式に国内のチームに加入したら基本土日はレースに出場することになるので、日曜日の休みは貴重な時間となる。欧州でのレースも基本土日が中心であった。

この日は偶然日曜日が休みであった姉七美と母知子と共にとある写真スタジオに向かうことにした。実はここはマジカル☆ハーモニー20周年記念で期間限定で作られた施設で、大人も子供も一緒にマジカル☆ハーモニーを体感できるところである。

もちろん最新作のファンの子供たちが中心であったが、夢佳同様に歴代のシリーズファンの大人や女子高生なども訪れていた。夢佳が七美としたかったことは、この施設の中にあるなりきり写真を撮ることができる場所である。

よくある子供向けのマジカル☆ハーモニーなりきり施設の大人版といったところだ。そこでは衣装の貸し出しもあり、施設を運営している玩具メーカーの市販変身衣装、そしてマジカル☆ハーモニー・ドリーム10周年の数量限定大人サイズバージョン、さらに20周年記念で販売されている同じく数量限定の大人衣装などを着て体験することができる。

夢佳は七美と自分の10周年記念の衣装を身にまとって中で体験をした。幼稚園児の頃の自分がよみがえってきたような雰囲気になり、無邪気に楽しんだ。知子はそれをほほえましく後ろで見守っていた。

「お母さん、今日は楽しかったよ。これてよかった。リフレッシュになったよ」

「それはよかったわ。夢佳が幼児のように無邪気に楽しんでいるのを見たのは久しぶりだわ」

「夢佳ったら。私を差し置いて本当に遊ぶんだから。近くにいた子供たちもドン引きしていたわよ」

「七美姉に言われたくないわ。だって私同様にはしゃいでいたじゃない(笑)」

「一同(笑)」

その後、夢佳と七美はその衣装のまま知子と一緒に施設内のレストランで昼食をとった。そしてこの日ばかりは、普段の自分と違うマジカル☆ハーモニー・ドリームのキャラクターになりきって楽しんだ。

本来ならその後衣装を脱いで帰るのだが、持参したものなのでそのままの格好で自宅に帰ることにした。別に途中でスーパーに寄るわけでもないので良かったが、駐車場までは周りから少し異様に見られていた。でもそんなに極端に変に見られることなく、またロードバイク選手の夢佳であるとは誰も思わなかった。

行きは七美の運転だったが、帰りは知子が運転をした。夢佳と七美は疲れ切ったのか後部座席でスヤスヤ眠っていた。

翌月曜日、昨日リフレッシュできたこともありトレーニングにも力が入った。ロードバイクを載せた車を夢佳自ら運転して、トレーニングに最適なサイクリングロードまで向かい、そこで屋外トレーニングを行った。行いながらも頭の中では、最終的な加入チームを固めていたのである。

そのチームは迷うことなくあの「桜川レーシング」であった。何度も述べるが、夢佳の実力からすると完全に不釣り合いのチームであり、本来なら国内強豪チームに加入する方が夢佳の今後のキャリアのためにもプラスになるはずである。それが弱小チームを選ぶのはやはりあのメッセージの内容に夢佳自身が心を動かされたからに他ならない。

一体そのメッセージに何が込められていたのかは今後明らかになるだろう。そしてこの夢佳の決断が、女子ロードバイク界にとって大きな変化をもたらすことになるとは、この時点では誰も想像していなかった。


 その頃、埼玉県某所では、日々トレーニングにいそしむ「桜川レーシング」のメンバーたちの声が響いていた。ここは彼女たちの拠点であり、今シーズンに向けて最終調整をしていたところだ。

設立以来の成績は最下位に甘んじており、なかなか上に上がれるような状況ではない。ましてや運営会社の経営状況もあり、思ったようにトレーニングができない日々が続いている。

「また最下位か。どうしたらいいのだろう。もう今年ダメだったら選手を引退して一般企業に就職しようかな」

チームのキャプテン松浦杏奈が弱音を吐きながら他のチームメイトのトレーニングを見ていた。彼女はまだ知らない。自分たちにとっては雲の上の存在である夢佳が自分たちのチームに加入することを。

「何か魔法でもないかな?あの小田夢佳みたいな能力を身に付けられる魔法があればいいのに。まあそんなのないっか。彼女は特別な才能を持っているのだから絶対ありえないよな」

そうともぶつぶつつぶやいていた。繰り返すが夢佳がのちにチームメイトになるなど夢にも思っていなかっただろう。ついに歯車は動き出そうとしている。

トレーニングをしている選手たちの近くで仁王立ちしていた運営会社のCEO安西紗織は、一か八かの勝負として夢佳に出したメッセージの控えを読み返し、必ず彼女(夢佳)は来てくれると信じて選手たちを見守っていた。

隣では監督の浅井亮一がりりしい表情で今シーズンの予定を見ていた。温厚で情熱的な彼は、いつか「桜川レーシング」を国内トップレベルのチームに押し上げる夢を抱いていた。今のチーム状況ではそんなことは夢のまた夢であったが、何とかなると考えていた。

そんな彼も安西がひそかに夢佳にオファーを出していたことを知らなかった。

「さあ、みんな気合を入れて、今シーズンを頑張ろうか」

その言葉にメンバーはまたかと思いながらもその言葉を唯一の救いとしていたのである。果たして回りだした歯車はどのように転がるのだろうか?

夢佳が決断し桜川レーシング加入という一見唐突でありながら、明確な計画の入り口でもあったその夢は動き出した。果たしてこの決断はどうなるのだろうか?それは今後の彼女たちの交わりによって明かされるだろう。
まだまだ物語は始まったばかりなのだから…。

第一章 第二話へ続く・・・。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

このコンテンツがあなたにとって特別な存在なら、サポートをお願いします。あなたの支援が私たちの活動を成長させ、より良いコンテンツを提供できます。一緒に素晴らしい旅を続けましょう。感謝を込めてお待ちしています!