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フェミニズムを「勉強する」という人への違和感

フェミニズムという言葉が世の中に浸透してから何年も経った感覚があるが、それ故にフェミニズムに関しての発言で違和感を感じることが未だにある

「自分もまだまだ知らないから、勉強しなきゃいけない」

そんな言葉をよく聞くような気がする
謙虚に自分以外の価値観をインストールする視野の広い発言だとは思うが、私が違和感を感じるのは「勉強する」という言葉についてだ

勉強、、??
勉強といって思い浮かぶのは、自分の現状とは切り離された出来事や知識を身につける場面だ。
それもあってか「フェミニズムを勉強する」と聞くと、最近日本の書店に溢れかえってる「〜をする方法」、「〜の見方」といった類のhow to本をインプットするような感覚で他者の感覚を「勉強」したいのかな、と思ってしまう。

すごい違和感を感じるのは私だけだろうか?

人の感覚や見方は「勉強する」のではなく、「感じる」ものではないのだろうか。how to本のように「事実」をインプットして赤の他人としての感覚を「わかった気になる」のではなく、もしかしたら自分の近くにも当事者がいるかもしれないといった感覚で「感情を感じよう(理解しよう)」と努めるものなのではないだろうか。

(※「勉強」という単語へ私が個人的に抱くイメージからここまで発展させてしまったが、「勉強」へ抱くイメージが異なれば無駄な思考のお遊びである)

私が生まれた世代はそこまで男女の扱いの差というものを意識しなかった世代(特に私個人が気にも留めなかったという意識のズレもあるかもしれない)のためか、「フェミニズム」から連想される被害者・当事者意識は私は持っていない。
(女だからといって損した、嫌な気持ちを抱いたという感情は結果的に持っていない、というだけなので、実際は無自覚のフェミニズム当事者かもしれないが)

私のように「フェミニズムとは?」となる人からすると、やはり世の中を渦巻く社会情勢を理解する一環としてフェミニズムを「勉強する」、という文脈は至極真っ当なのかもしれない。

だが、やはり違和感を感じるのはなぜだろう。私だけなのかな。


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