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渡辺茂子歌集『湖と青花』

新輯覇王樹叢書第219篇 関西覇王樹叢書第37篇 不識書院刊(令和元年9月)



 帯文


一首一首の歌をよく読むと、それぞれの歌のもつ味わいが微妙に深く連鎖し、豊かにひびき合う。
これは不思議なチェーンストーリーである。歌の背景にあるのは、みずうみと青花を原点としたマリン・ブルーの美しいバラードだ。


水浅葱に明けゆく今朝のみ空よりこぼす雫やあお花ひら

空の碧に溶けつつ開くあお花ようつしみの惨告げざらめやも

爪染めて摘みゆく花の籠のかさ 幾世重ねし近江のをみな

腰かがめ花びら摘みゆく近江のわれは摘みゆく世のはかなごと

越えて来し女の一世友禅の裾に広ごる青き野の花


『湖と青花』


ふるさとといつより呼びし季ごとにかなしき彩見す琵琶のみづうみ
(巻頭歌)

かなしみをがむと湖に来たる日よ淡き水色のスカーフ巻きて

自画像に描かむ誇りを持たざればま白き画布の日毎褪せゆく

あを花紙浸せば沁み出す青冴えてもつともやさしき彩と思へり

生きゆくはかたしと問へばみ仏は小指をゆびの先の風を聴けとや

折り鶴に息吹き入れてをさな児は世のかなしみを一つづつ知る

時々は夫の書斎に寛げる犬とわたしと夏の木漏れ日

二人して選べる鯛は小振りなり銘酒一本提げて帰らな
(巻末歌)


( 渡辺茂子 覇王樹同人、関西覇王樹編集代表 )



培われた努力の成果

小西久二郎(「好日」選者)

本集の作品は五章に分かれているので、私独断で一章につき二首を抄出、作品の真意を追究することにした。

先ず第一章の二首は次の作品である。


白銀しろがねの月の祈りや幾千の冬鳥ねむる湖のしづもり

メタボだと言はるる犬と我が影と二つ並びて月を見てゐる


一首目はしろがねの月の祈りだろうか。幾千の冬鳥がねむる湖がしずかであると、冬鳥 に寄せる思いが出ている。冬鳥は渡り鳥でゆりかもめ、鴨、白鳥など。二首目は面白い歌 だ。「二つ並びて」に犬との仲などみえるが、率直な表現にすくわれたといえよう。

第二章では次の二首をあげることにした。


腰かがめ花びら摘みゆく近江のわれは摘みゆく世のはかなごと

渦まきて鯉跳ねゐたり熾烈なる生き求めよと子に言ひやらむ

 
一首目は腰をかがめて花びらを摘むというから青花か。その近江の女に対して、自分は世のはかない事を摘むというなげきの作品。
二首目は渦をまいて鯉が跳ねた。鯉のように勢いのあるはげしい生きを求めよと、子に言ってやろうと親心を内包している。

第三章の抄出作品は次の二首である。


踏むも紅葉仰ぐも紅葉と語り合ひ比叡の晩秋冷え忘れたり

つはものの血潮に染まりし過去あれどそよぐ尾花の穂の白つづく


一首目は紅葉の最盛期の比叡の作品で、晩秋の冷えを忘れた事によってその佳さが判る。

二首目は湖北吟行という。賤ヶ岳、小谷、姉川など合戦が多かった。然し、今尾花の穂の白がつづくと平安を喜んでいる。

第四章の作品二首は次のように抄出した。


夫と子のあはひに佇ちて湖岸に冬鳥待つときさ らぎの朝

宥しつつゆく残生か掛け違ひたるボタンの光る夫の胸の


一首目は夫と子の間に佇って、湖岸に冬鳥を待っている寒いきさらぎの朝をという。冬鳥は渡り鳥だろうが、鴨など砂浜に並んでいる事があり、それを待つ親子の仲が伝わる。

二首目はゆるしながらゆく残り少ない生だろうか。掛け違ったボタンが光っている夫の胸のあたりにと、夫婦とはそういうものだろう。

第五章からは次の作品をあげてみた。


幾とせを匂ひし木犀今はなく子はさはさはと新車を磨く

人恋へばみづうみに佇つ慣はしもことばを持てるもののさびしさ


一首目恐らく何十年も匂ってきた木犀だが、今は失い。子は気持よく新車を磨いている。時代の流れと思考の格差がみえる。

二首目は人が恋しくなると湖にきて立つ習慣も、言葉をもつ者のさびしさである。自らの体験から出てきた結論と言えるだろう。

このように各章から二首ずつを抄出、感想をのべてきたが、本集の真価はそんな単純なものではない。何十年という長い歳月をかけて培ってきた努力の成果である。作者は自らの作品をあとがきで「私の等身大」というが、どの作品を取り出してもいい、それが叙景歌、 生活詠、家族詠を問わずに主観をとり入れて、作品を形成している。そこに作者独自の世界があり、質的高揚を目指している。こうした安定した作品群に我々は吸いこまれてしまう。つまり、本集は「渡辺短歌」の集大成と断言してもいいのではないか。


❖ 対峙から同化へ

田中 成彦(「吻土」代表)

この歌集ほど題名と本質が一致する書は稀であろう。五章に配された約五十の連は「みづうみ」に始まり「湖をめぐりて」をもって締め括られる。まず巻首の一連から。


ふるさとといつより呼びし季ごとにかなしき彩見す琵琶のみづうみ

うみにありて過ごしし半生のきよしと言はねど碧をあたたむ

白銀しろがねの月の祈りや幾千の冬鳥ねむる湖のしづもり


滋賀県出身でなく、移り住んで来た当初は 他郷者として湖国に対き合う他なかったろう。 一首目は過去の経緯が色濃く出ている。
「愛しき彩」は湖のみならず自身の生でもあり、それは二首目においてより深く述べられる。
印象的な三首目の「月」「冬鳥」も、作者と対峙する存在として把握されている。

次に巻尾の一連から、


湖東平野を追ひかけてゆく雲の影今日の私は鳥の眸をして

比良嶺にぼあんと湧きくる綿雲よきのふの過誤は忘れてしまふ
 
「風が違ふね」このひと言のほかはなし湖の果てなる乗り換への駅


これらにおいて作者と近江とは抱き抱かれる一体に同化した。「今日」「きのふの」「このひと言」などの短い限定辞が要の役を果たしている。以下はこの間の作から。


水浅葱に明けゆく今朝のみ空よりこぼす雫やあを花ひら


露草の一種「あを花」は著者の住む草津の市花に選ばれた。清らかな青が水に溶けやすく、手描き友禅の〈下絵〉に用いられるとも。 その慎み深い色こそ著者の慈しむところであろう。一首に見る空と地の交わし合う美感、語句の響き合う音感にそれが窺える。


ひとり行くは孤独にあらず穂すすきの落暉に染まる湖までの道


「孤独にあらず」というのは、逆に孤独を意識する日もあったゆえか。湖の自然が著者を慰めてくれる存在になったのである。


ゆりかもめ一羽の意志に統べられて薄明のなか比叡越えゆく

かなしみのひと夜の明けて雪降るに光となりて翔く鳥の群れ


巻頭とは異なり、自身も統べられる群れの一羽に重なっている。二首目も現実を超えた夢まぼろしに近く、それゆえに「かなしみ」の中身をあえて問う人は無かろう。

自身や家族を詠む歌にも秀吟は多い。


本音では歌は成らざりしかすがに虚に寄りゆくもいさぎよからず

藍染めの小さき袋購ひぬ入れてもみむか吾がはかなごと

どこまでを過去と区切らむ行き戻り成らざることの身に多くして


殊に家族の登場する作品の微笑ましさは本集の快いアクセントとなっている。


言ふたびに花の名前を違へては定年の夫庭の草引く

宥しつつゆく残生か掛け違ひたるボタンの光る夫の胸の

月を見よと久しぶりなる子のメールいかつき男の子も詩人となるや

二人して選べる鯛は小振りなり銘酒一本提げて帰らな


最後は巻末の一首。日常の一齣を描きつつも、夫婦の歩む先には人間普遍の楽土が想われる。その充足感が、厳しく寂しく詠まれたこの歌集に豊かな味わいを加えている。


近江遊行「帰去来兮」(かえりなんいざ)

村島 典子(「晶」同人)


水浅葱に明けゆく今朝のみ空よりこぼす雫やあを花ひら


一人の女性の謙虚で、誠実な人柄はそのまま歌柄である。一首にしずかに湛えられる抒情が気品を放っている。掲出歌に詠われている青花は、作者の棲む近江草津に古来より栽培され、友禅染の下絵の染料となる花。ツユクサの変種という。可憐な草花の露草はツキクサとも呼ばれ、古歌にも登場する。「かまつかが咲きしと告げくる母の声ふるさと阿波も青き空あり」「かまつか」は露草の別名。 郷里徳島の毋が電話に告げてきた季節の便りの花。
 
青、蒼、碧。その色は青花の色であると同時に、琵琶湖の水の色、近江の空の色、そして阿波の海と空の色、作者の心の色である。

作者は、郷里徳島から大阪の大学に学び、教職に就かれながら、短歌を続けてこられたという。その歌歴は五十年余にわたるが、結社覇王樹の歌人渡辺朝次にその才能と人格を認められ、子息と結婚されたという来歴の人。歌の師としての義父、おしどり歌人夫婦。一 つの物語をたどるような、作歌生活の道筋にもなるが、そのことを抜きにしては、この歌集『湖と青花』の鑑賞は不十分になるだろう。


湖の波にきらめく一片ひとひらの飛翔の影をおのが影とす

曖昧に省き来たりし助詞ひとつ厨に飛ばし玉葱きざむ

北指すはこころ淋しもコスモスの残花濡らせる高島時雨


結婚し、近江の人となって、琵琶湖のめぐりを歌に詠む生活は、教職を退いてから、さらに深まってゆく。湖の水と空を一身に浴びながら、古代から続く文化と歴史を繙く暮らしから生まれ出た歌は、生来の控え目で温和な作風にさらにしっとりとした抒情を加味していく。さらに言えば、近江の風土そのものが、短歌の風土と言うことができるとさえ思う。

湖をよぎる鳥影に己を自覚し、「助詞」にこだわりながら、台所に立つ。「高島時雨」は、そのことばのみで、この地でなお旅人として生きる作者の旅情を際立たせる。

「温藉平明」が覇王樹の社風という。平たく言えば「穏やかで平明な中に一本筋が通っている」ということだが、まさにその理念を実践しているのが渡辺短歌であろう。

本集はV章に分かれ、Ⅳ章までは十年ほど 前に準備されていたという。


転倒のははを預けて午前三時徒歩と決めたり八キロの道

蒼空に白旗のごとはためかす施設に持ちゆくタオル幾枚

鈴鹿嶺は緑日毎にふくらませ春の抒情にわれは病みたり

手術オペ終えてまなこ開くればさし込める朝のひかりのなんとなつかし


日常を直接詠まれることの少ない作風のなかで、これらの歌は、具体に沿った感慨がナイーブに表出していて、味わいが深い。

V章になると、孫や夫君が登場し、作品がより柔軟さを獲得している。


祈祷料は三段階です待ちうける格差はかくぞ心してゆけ

君といふ代名詞すでに失せたりと冬のひかりに老いし夫の背

人恋へばみづうみに佇つ慣はしもことばを持てるもののさびしさ


ほぼ同時期に刊行された評論エッセイ集 『落とし文 』が、歌集の背景を彩る。そこに 作者の歌の理念、原郷が垣間見える。




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