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佐田毅歌集『ほがらほがらの』

角川書店刊(平成25年2月) 新輯覇王樹叢書第223篇



直球のやさしさ

栗木 京子(塔)

平成二十二年七月から二十四年十月初旬までの三〇二首を収める第四歌集。東日本大震災をはじめ国内外に深刻な出来事の多かった時期であり、また作者本来の実直で正義感の強い作風のゆえもあって、日々の思いを嘆きと祈りを込めて詠んだ歌が印象に残った。


財源のなき国民の孤独死は隣の団地の二階にありぬ

液状化するゼロ地帯 亀裂には人形一体泥にまみるる

北風がわれを遅らすとほり道 プルトニウムの虹は凍るか

隣国の欲望もろに見せにけり真青の海の 竹島、尖閣


一首目は社会保障制度に救われぬまま孤独死した人を悼んでいる。「隣の団地の二階」という場所の具体にリアリティがあり、重いはずの命が「一つの死」として処理されてしまう理不尽さを浮かび上がらせる。

二首目は大震災後の液状化を見据える歌。下句の「人形一体」が可憐であるゆえにいっそう不安を突き付けてくる。

三首目では福島第一原発事故による放射能被害を憂えている。原発事故は多くの歌人によってさまざまに詠まれているが、「プルトニウムの虹は凍るか」という鋭く冴えた問い掛けはこれまでになかった訴求力を持っている。鮮烈であり、またじつにまがまがしいイメージを読者の心に呼び起こす。斬新な下句に対して、上句を体感に即して手堅くまとめていることも、一首全体のバランスを整えている。

四首目は竹島や尖閣諸島の領有権をめぐる中国や韓国との確執に目を向けている。「欲望もろに」に憤りが託されていて、掲出した四首の中で最も直情的に詠まれた歌と言えよう。下句で感情をそれ以上はあらわにせず、「真青の海の」と端的に抑えたところがよいと思う。無垢な海の青さが人間の欲望の醜さを際立てている。

こうした硬派の歌の一方で、身辺の自然や自身の身体にやわらかく眼差しを注いだ歌にも心惹かれるものがあった。


わが肺に宇宙の力満ちて来ぬ微熱の続く三日目の夜

沼近き老人ホームの灯が消ゆるみづすましとなりわれも眠らん

かごを持つ少年の網にもがきゐる蟬のいのちのいのち小さし


体調のすぐれない日も折々にあったようだが、作者の心はつねに前向きである。小惑星探査機「はやぶさ」の帰還に胸躍らせる一首目は、少年のように初々しい。二首目も下句の純真さによって歌の情景が豊かになっている。三首目は下句のしらべが魅力的な歌。「蟬のいのちの」と表したのちに、さらにもう一度「いのち小さし」と「いのち」を繰り返すことで、小さないのちの揺るぎない重みが迫ってくる。なつかしさと一抹の切なさ。立ち止まってゆっくりと味わいたい歌である。
他にも好きな歌は多いのだが、とりわけ心に残ったのが家族を詠んだ歌である。


待たさるる犬ではないぞスーパーに入りて出で来ぬ妻待つベンチ

看護師の娘にたまに会ふときはわが体調のわるきときなり

病二つ抱へ込みたる息子の十七年 十五年戦争より長くなりたり


いずれの歌も慈しみの奥にほのかな含羞が漂っている。ちょっとくすぐったそうな語調に家族へと寄せる信頼感がうかがえて、大いに惹かれたのであった。

まだら織りの白日夢

千々和 久幸(香蘭)

平明で直截な作品が持ち味の作者に次のような、自らに居直るように身を放り出した不思議な作品が含まれている。


さくら咲く土手に人なく風もなし禁忌を犯す人の待たるる

咲ききつたさくらのおくのその奥にさくらしかなし今年のさくら

菜の花の黄のいろ染まるからだぢゆう菜の花になる菜の花のいろ

灼熱の気をはらみたるわが臓腑 草も木も死に風はメス持つ


第一首目、問題は第四句。「禁忌」はタブーのことだが、作者はなぜ、どんなタブーを待っているのか。それがさくらの花に対する不心得者の乱暴狼藉程度なら、「禁忌」と言うはどのことはあるまい。
これまでは感じることの無かったさくらの圧倒的な美しさに気押され、これをかき乱したいというサディスティックな感情に身を貫かれたのではあるまいか。この生命の燃焼に対する嫉妬心は、後半生に迷い込んだ作者の名状し難い苛立ちであろう。

第二首目、ここでも眼目は棒立ちに近い第四句の断念である。去年までは「さくらのおくのその奥」には、さまぎまな意味づけと感情移入が可能な空間があったのだ。しかし今年は「その奥にはさくらしか」ない。この当然の事実に今更ながら戦慄し、それを生の根源に立ち戻って問い直しているのだ。このような身の捩り方は、ある達観に手をかざしながら未だその確証の得られない生の不確かな手触りに似ている。作者はその手触りを死の想念と交差させ、今年のさくらの美しさが心底「骨身にこたえた」(小林秀雄)のではあるまいか。

第三首目、即物的な事実そのままをなぞって読めば、どこにも不思議はない。悩ましいのは、いま自分を囲繞する全世界が黄の色に覆いつくされているという体感にある。全身が黄の色に満たされていく恍惚感は、明らかに臨死体験のイメージだ。ここでも作者はまだ見ぬ死を先取りしているのだ。

第四首目、「風はメス持つ」という洒落たフレーズが閃いた瞬時、この一首は成った。そしてこの犀利な結句に配する上句は、病み勝ちな作者が別のところで常々抱えていたものだ。今この世界で辛うじてかたちを持ち、存在を確認出来るものは「わが臓腑」と「メス」だけだ、という。ここにも死に憧れつつ、死を畏れる作者がいる。とは言えこの歌集の正面は、表題作「ほがらほがらの」を含む次のような作品だ。


造花ラニ囲マレ爺ノティータイム ヤレホーレヤホー ヤレホーレヤホ

ステロイドの副作用とぞ医師は言ふ 脳にカアと烏が鳴けり

よき子らと呑めばこころの充たされぬ 首のアトピー消えてゆきたり


いずれも不確かな生を扱いかねている自己を茶化し、囃したてることによって励まそうとする。その根にある自己肯定、楽天性が救いだ。その意味では第一、第二首目の下句は自らへの応援歌には違いない。ああそして第三首目の並々ならぬ娑婆っ気を見よ。
この作者に死は遠いのだ。後半生という曖昧で不確かな想念に死は去来しても、現実の作者に死ぬ気はさらさら無い。だから生と死がまだらに織りなす白日夢に騙されてはならない。恐らく作者はここに至って、初めて生という問いを抱え込んだのだ。


「ほがら」への執着 

平山 公 一(潮音)

私はこの歌集の読み方を間違っているかもしれない。 著者は「あとがき」で「闇夜の夾竹桃を見ると(中略)日本が〈ほがらほがら〉と咲き誇ってほしいという思いを込めて歌集名とした」と書くが、はたしてそうであろうか。勿論その思いは強いだろう。前歌集に多かった母を想う歌が全て消え、幼児に目を向けた歌が増えている。


孝行の手本を見せて幼子は転んで泣かぬ強さを持ちぬ

子どもらは親の打ち水の真似をして路地に撒きたる涼を連れきぬ


しかし、自分こそ「ほがらほがら」にしておかなければ、という思いの方がより強く私には伝わってくるのだ。


牛蛙しき鳴く夜更けの帰り道ほがらほがらの夾竹桃は


巻頭に置かれる、タイトルともなったこの歌は、前歌集の巻末の歌を敷衍している。頻りに友を求めて鳴く牛蛙の寂しさ、そこに純白の夾竹桃が……。夾竹桃は戦後の焼土の中でまだ幼かった作者が、逞しく咲く花として見つめたものである。


毎月の薬を減らすすべなきか薬漬けこそあはれと言はめ

一日中体の痛みにさいなまれ薬も注射も効かぬ頑固さ


そう、著者は宿痾との闘いの日々にある。
自分との闘いだけではない、息子さんも実は病も持つ身である。


病二つ抱へ込みたる息子の十七年 十五年戦争より長くなりたり

重篤の息子の先ゆき思ひつつ生きてゐるだけやすいしなさね


しかし息子さんを詠んだ歌は、妻公子さんの歌集と比べると異常なまでに少ない。男親と女親の違いだけではないようだ。

待たさるる犬ではないぞスーパーに入りて出で来ぬ妻待つベンチ

近眼の眼鏡の上に老眼鏡乗せて吾を見るガチンコ妻は


感謝しても感謝しきれない妻なのに、甘さ・優しさを切り捨て突き放して詠む。それはいつかはやってくる、残されるであろう妻への〈勁くいて欲しい!〉というメッセージと読んだが、読みすぎだろうか。

わが酸素の足りてゐるらし親指の爪の先までさくら色なり

詠ひても詮なきことぞ古希にして酒断ち煙草断ち書も断ちてをり

わが輩は獏とぞ言へる若き日の夢のすべてを食べ尽したり

哀愁を含むが、なんとなくユーモラスでもある。そう、宿痾との闘い、息子、妻を思ったとき、自分自身が「ほがらほがら」であらねばと言い聞かせているのだ、と私ほ読む。
また、宿痾と闘いながらも「原発」へも目を向ける。そう、著者が書く未来への「ほがらほがら」の一つである。


除染して子らを遊ばすをあたり前とふ人のをり 何かが違ふ


著者の強い思いが溢れるから、次のようなさりげない歌にもより注目される歌集である。


荒川の橋の向かうの釣人ら魚以外と話をしない

黒枠の眼鏡落しし沼の面 老眼らしき鯉があつまる

ちぎれ雲ちぎれて浮かぶ北の空 コーヒーカップに夏雲混ぜる


批評特集  覇王樹2013年9月号転載




短歌の会 覇王樹|公式サイト