幸い(さきはひ) 第四章 ②
第四章 第二話
桐秋はこちらを見つめる視線に、かれこれ数分どうしようかと悩んでいる。
それは、桐秋が千鶴の頼みで茶の間で食事を取りだして一月、ずっと続いているものだ。
決して嫌悪するものではなく、どちらかというと微笑ましい部類のものではあるが、おかずを口に運ぶたび、味噌汁を飲むたび、嬉しそうな視線が刺さり、桐秋は少し気恥ずかしい。
千鶴の作った朝食は桐秋の好みにあっていてどれも美味いが、これでは美味しい食事も味がしない。
桐秋はついに箸を置いた。
視線の元の本人は、おかわりを待つしゃもじを持ちながら、箸を置いた桐秋に何かあったのかと不安気な表情を浮かべる。
「その、すまないが。そのように見つめられると食事が取りづらいのだが」
桐秋は決まりの悪そうな声で千鶴に告げる。
千鶴は、はっとし、自分の行動に思いいたったのか、しゃもじを持ち、正座した姿勢のまま思い切りそっぽをむく。
――そこまで勢いよく身体ごと向き直られるのも・・・。
千鶴の仕草に複雑な心境を抱きはしたが、桐秋は口を開いたついでに、以前から気になっていたことを千鶴に尋ねる。
「私は、君が食事をしているところを見たことがないが、いつ、どこで食事をとっているんだ」
そのようなことを聞かれるとはかけらも思っていなかった千鶴は、きょとんとして、少しの間の後、事実をありのまま述べる。
「朝は、桐秋様の診察が終わった後、昼は、桐秋様が午後の研究をなさっている時、夜は、ご入浴されている間に、台所でいただいています」
千鶴の答えに桐秋は顔を顰《しか》める。朝の診察後といえば、大体九時を過ぎている。
六時に起床する桐秋より早く起きて、朝食の用意を行っている千鶴は、少なくとも五時頃には起きているだろう。
朝起きて四時間も食べないままとは。他の食事を取る時間帯も桐秋よりだいぶ遅い。
桐秋は考えるような素振りを見せた後、千鶴に目をやり、
「今、ここに君の朝食を持って来なさい」
と言い付ける。
千鶴は桐秋の言葉の意図がわからず首をかしげる。
桐秋は今述べた言葉を少し口調を強め、丁寧に言い直す。
「君が、いつも、私の診察が終わって食べている朝食を、ここに持って来なさい」
あいも変わらず、桐秋の心中がわからない千鶴であったが、有無を言わせぬ雰囲気に逆らえず、自身が毎朝食べているものを膳にのせ、茶の間へと運んで来る。
それを見た桐秋は再び顔を顰め、尋ねた。
「それだけか」
千鶴の膳に乗っているのは、味噌汁とご飯、ぬか漬けのみである。
千鶴はその言葉にこくんと頭を縦に振る。
「君は自分のことになるとそうなのか」
桐秋は千鶴に聞こえない声でつぶやく。
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