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幸い(さきはひ) 第六章 ⑧

第六章 第八話

 一か月も経つ頃には、千鶴は、桐秋に膝を貸していた。

 きっかけはただの戯れ。

 縁側で千鶴が裁縫をしていると、部屋に籠もっていた桐秋が縁側に出てきた。

 その姿が疲れているように見えたので、千鶴が縫物をする手を止め、

「よかったら、休まれますか」

 と自身の腿《もも》を叩いた。

 千鶴としては冗談のつもりだった。

 少しずつ恋人同士であることに慣れてきたおかげか、そんな戯言《たわごと》が言えるようになっていた。

 ほんとうに疲れているのであれば、布団でも敷こうかと返事を待っていると、桐秋は千鶴に近づき、誘われるまま、千鶴の腿に頭を置いた。

 驚いたのは提案した側の千鶴。

 まさか冗談を本気にされるとは。

 それでも足に感じる重み、温《ぬく》みに千鶴はこの上なく心が満ちた。

 千鶴は膝の上にある桐秋の顔に見とれる。

 黒い双眸が閉じられてなお、横顔は人形のように精緻で秀麗だ。

 千鶴は桐秋の顔に伸びた髪かかっていることに気づき、裁縫のため外した手袋をはめ直し、そーっと、数本の髪を耳にかける。

 桐秋を起こさなかったかと顔を覗き込むが、桐秋は目を閉じたままだった。

 そうすると千鶴にむくむくと湧き上がる、自らもふれたいという思い。

 いつも桐秋からふれられることはあっても、千鶴からふれることはない。
 
 すべてが初めての千鶴はどうしたらよいのかわからず、されるがままになっている。

 決してそれに不満があるわけではない。

 けれどもこんなに隙だらけの姿を見ていると、自らもふれたいという気持ちがせり上がってきたのだ。 
 
 千鶴は桐秋の濡羽色の艶やかな髪を、手袋で数回そろりとなでる。

 ふれるか、ふれないか微妙な間合いだ。

 すると、膝の上から思いもしない声がした。

「君からふれられるのもうれしいな」

 千鶴が驚き、桐秋の顔を覗くと、桐秋はにやりと口角を上げ、横目でこちらを見ていた。

 千鶴は慌てて手をひっこめる。

 どうやら彼は眠っていたわけではなかったようだ。

 さらにあの微妙な感触さえ感じとっていたらしい。

 桐秋は引かれようとした千鶴の手を掴むと、自分の頭に乗せ、再度なでるよう、千鶴の手を操り訴える。

 断れない千鶴はその動作を引き継ぎ、桐秋の髪をなで続ける。

 優しく頭にふれることを続けていると、桐秋は気持ちよさそうに、再び瞼を閉じる。

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