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幸い(さきはひ) 第三章 ⑩

第三章 第十話

 桐秋が必死に頭を悩ませていると、部屋の前でドスっという音がした。

 逡巡《しゅんじゅん》していた思考が、唐突に止まり、桐秋は音のした方向に顔を向ける。

 にわかに襖が空き、現れたのは、たった今、自分が考えていた彼女。

 けれどその顔は、今の今まで思い浮かべていた、胸のつまるような顔ではない。

 季節を過ぎた桜が、再び咲いたかと勘違いするようなパッとはじけた明るい笑みだ。

 桐秋がその表情に驚いていると、千鶴は襖を開けるために置いたのだろう、重い音がした根源を両手に持ち、桐秋に見えるようにおもいきり前面に突き出す。

 厚い本を紐で縛った分厚い本の束。

 見覚えのある洋書が含まれている。

「南山教授から、桐秋様が桜病の研究を続ける許可をいただきました。

 直接研究所での研究を行うことはできませんが、桐秋様が続けられていました、文献による研究は行ってよいとのことです」

 千鶴の言葉に桐秋は目を見開く。

「また、南山教授が算段をつけてくださって、帝国大学の下平《しもひら》さんとおっしゃる方が、桐秋様の実験を代わりに行ってくださるそうです」

 続けて千鶴が発した言葉に、桐秋はまたも驚かされる。

「下平が」

 下平は、堅物な桐秋の数少ない友人だった。

 桐秋とは正反対の明るく社交的な性格だったが、不思議と馬があった。

 大学の研究室にいた時も、桜病の研究を手伝ってくれていた。

 桐秋が会えなくなって寂しさを感じた友でもあった。

「はい。実施したい実験があれば、詳しい方法を記した指示書を送ってほしいと」

 そういい終わると、千鶴は母屋から運んできたと思われるたくさんの本の束を、桐秋の寝室から続く、小さな小部屋に次から次へと運んでいく。

 千鶴から告げられた、父からの研究の許可と友からの協力の申し出。

 予想外のことが多く起き、桐秋の頭は処理が追いつかない。

 桐秋が唖然《あぜん》としていると、千鶴は突如として本を運びこむことをやめ、桐秋の前に座った。

 互いに膝を突き合わせるような格好になる。

「でも、無理をなさってはいけません。

 お医者様の診察も必ず受けていただきます。

 きちんと三食食べること。

 きちんと休憩を取ること。

 明るい喚起の行き届いた部屋で研究なさること。

 私の言葉にも少し、耳を傾けてくださること」

 千鶴が顔の横に指を立てて桐秋に言う様は、病人というより、小さな子どもに言い聞かせているようだ。

「よろしいでしょうか」

 最後にずいっと澄んだ眼《まなこ》で迫る千鶴に、桐秋は思わず気圧され、頷いた。

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