幸い(さきはひ) 第九章 ⑩
第九章 第十話
千鶴が少しずつ漏らす嗚咽の数を減らして来た頃、桐秋はそっと千鶴の頭を自身の腕に移した。
反対の正絹の手はあやすように千鶴の柔らかな髪を優しくすいている。
千鶴は顔を見られないようにと丸まっていて、桐秋もそれを見ないよう、ガラス越しに月の光に浮かびあがる桜の木を見つめていた。
あの花が咲く頃、自分はどんな状態だろう。
その時千鶴はどんな顔をしているだろう。
遠くない未来に確実に訪れる“ ”を考えてしまう。
桐秋がぼんやりと切ない想いを巡らせているうちに、千鶴の泣き声は止んでいた。
桐秋は自分の懐にいる千鶴に目を向ける。
そこにはまっすぐにこちらを見つめる強い双眸があった。
腕の中の最愛の生き物は桐秋に告げる。
「もし、桐秋様が私を置いていかれるのであれば、貴方様がいた証を私に刻みつけてくださいませ」
千鶴の淀みのない眼《まなこ》から放たれた、覚悟が滲む言葉の意味を桐秋はすぐには理解できない。
その意を正しく汲み取ろうと、桐秋は瞬きして、千鶴の目をしかと見据える。
宝石のような美しい瞳に滲むのは、一心に男に愛を乞《こ》う女の想い。
桐秋は千鶴の意図することを悟り、驚きの表情で腕の中の恋人を見つめる。
千鶴が刻みつけて欲しいという証。
それは・・・・・。
「それだけはできない」
断腸の思いで桐秋は告げる。
千鶴は桐秋が何を考えているのか理解し、言い募る。
「お父上様からお聞きになられたかと思いますが、私はまだ十九。
今年の四月で二十です。
桜病は成人以上にしか確認されていない病気。
今の私が桜病になる可能性はありません」
そんな千鶴の訴えにも桐秋の意思は揺るがない。
「分かっている。
それでもだ。病に罹らなかったとして、万が一子どもができたらどうする。
父がいない子をどうやって育てる。
先のない私が君の将来に傷が残るような真似はしたくない」
桐秋は自分がいない未来をすっかりと考えてしまっている。
千鶴はそのことに深い悲しみをおぼえながらも、諦めない。
ビードロの今にもとろけそうな瞳で桐秋に切に、切に願う。
「お願いします」
桐秋はその目をもう直視できない。
顔を逸らし、体を離し、低い声で千鶴に絶望的な言葉を告げる。
「私が死んだあとは、誰か別のいい人間と結婚して、普通の幸せを得てほしい。
私のことなど忘れてしまえ」
あまりに吐くことが辛い言葉に、桐秋は胃から苦いものがせり上がってくるのを感じた。
桐秋の言葉に、千鶴は今度こそ何も言えなくなり、表情がぽとんと音を立てたかのように、一瞬にして抜け落ちる。
いつのまにかあふれていた涙もぴたりと止まる。
それでもしばらくして、千鶴はひときわ大きな感情の雫を一粒だけ垂らすと、幽鬼のような足取で立ち上がり、部屋を出た。