ほんとの優しさと優しい虐待
優しさってなんだろうとふと考える出来事があった。
みんな、優しい人が好きだ。
わたしもよく「優しい」と言われるし、言われると嬉しい。
でも、みんながよくいう「優しい」って、なんなのか。
今日は、最近の自分の経験をもとに、「優しさとはなにか」というテーマについて話してみたいと思う。
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わたしの両親は、優しい。
大学生の私に毎月生活費を送ってくれるし、実家に帰ればご飯を振る舞ってくれる。
でも今、その両親の優しさが、なぜかとても苦しい。
苦しいです。
わたしは今、人生の岐路に立っている。
詳しく言うと、私の目の前にはAとBの2つの道が立ちはだかっている。
A:安定で、先が見える。社会の多数派。きっと間違えではないだろうと言える。しかし、その道を選ぶと、わたしの心が無理することになる。
B:不安定で、先が見えない。社会の少数派。正しいかどうかは、やってみなきゃわからない。しかし、その道を選ぶと、無理しているわたしの心が開放され、元気になる。
わたしはある日、「Aの道だと自分の心がとてもしんどい。だから、Bの道に進もうと考えている。」と両親に相談した。
すると、両親は、「Bは、絶対にありえない。あなたはこれまでも辛いことを乗り越えてきたし、能力があるから大丈夫。絶対にAにしておきなさい。そのほうが、”あなたのため”になる。」と言った。
わたしは、たくさん悩み、自分の頭で考え、Bという結論を出した。しかし、いくらそれを説明しても、”あなたのためだから”といって、Aを押し付けてくる。
”あなたのため”という、両親の言葉。
この”あなた”が指すものは、本当に”わたし”なのか。
”あなたのため”。
それは、”自分のため”ではないのか。
この事実が、わたしをとても苦しめている。
両親が「Aの道に行きなさい」というのは、わたしの今までの行いから能力を認めてくれており、「わたしならこれくらいできるだろう」という期待があるからこそ、言ってくれているのだと理解できる。
しかし、言われる方は、大きく期待されればされるほどしんどくなるものだ。期待されればされるほど、「期待に応えなくちゃ」「成功しなくちゃ」といった義務感が強まる。縛り付けられる感覚に陥り、自分の頭で考えて行動する機会がなる。
つまり両親がわたしに向けているものは、「優しさ」ではなく、「優しい虐待」だ。
なぜなら、結果的にわたしから「自分の人生を選ぶ自由」や「自分自身の意志」を奪ったからである。そしてその代わりに残るのが、「両親の期待」と「期待に対する責任」である。
期待と責任だけ残された子供は、どう感じるのか。責任を果たせなかったとき、子供がどう感じるのか、考えたことがあるだろうか。
生んでくれたこと、育ててくれたこと。もちろん、感謝を忘れたことはない。しかし、一方的に優しさを押しつけることは、本当の優しさではない。それは、”優しさの虐待”である。
ではわたしが考える”本当の優しさ”とは、押し付けるのではなく、相手に寄り添い、その人の「自由」と「意思」を尊重するものである。
相手に寄り添うとは、”あなたのために”という言葉の中に、”自分のために”という要素が一切含まれていない状態である。これは、身近な存在であればあるほど難しい。なぜなら身近であればあるほど、まるで自分のことのようにその人のことを思い、主観的になってしまうからだ。自分というフィルターを通して相手を見てしまうようになると、相手に寄り添うことはできない。いくら親密な関係であろうとも、たとえそれが親子であろうとも、相手と自分は完全に異なる2つの個体である。
その方向性が、法律を犯すものだったり、誰かを傷つけるものでない限り、その人自身が出した結論を否定する権利は親であろうと親友だろうと、ないと思う。これは、「愛とは何か」というテーマとも繋がっている。私が考える「愛」とは、「相手に自由を与えること」だと思っている。
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わたしと両親の事例は、あくまでもごく一部の話である。
この世の中には、”優しい虐待”がそこら中にある。
わたしは、相手よりも先に結論を出して、それを”あなたのためだ”押し付けるのではなく、その相手が自分で考えられる機会をたくさん与えてあげられるような人になりたい。
そう、思いました。
無意識なところで”優しい虐待”をしていないか、
わたしも気を付けたいです。
しらたま
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