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大切な人の死

大切な人が死んだ。

その知らせがきた時、全身がドスッと重くなった。私の心と体では受け止めきれないような現実が襲いかかった。しばらく経って、「ああ、死んだのか」と思った。同時に、「死ぬってなんだろう」とも思った。

世の中のものはすべて諸行無常の上に成り立っているから、人が死ぬということに逆らったり、それを止めようとする必要はない。けれどやはり、人が死ぬという現実は、受け止め難いものだ。私は、人が死ぬという感覚がいまいち掴めないでいた。

物質としての人間は、この世から消えてしまうかもしれない。でも不思議と、姿かたちはないのに、なぜかいなくなった後の方がそばにいる、近くにいるって感じがする。

生きている時は意識してなかっただけで、これまで一緒に共有した時間の中で、どこか一部分でもその人から貰ったものがあった。そしていなくなったときにその貰ったものを思い出すことで、その人のことを側にいるように感じるのだろう、とある人は言った。私も、そう思った。

きっとそれはその人との物理的な距離がなくなるからだ。その人は物体として存在しなくなった瞬間、私の心の記憶の中で生きることになる。私の心と一体化する。だからより一層、近く感じることができる。

その人から貰ったものは数え切れないほどあった。今の私が生きてるのはその人のおかげだから。でもなんでいつも、いなくなってからじゃないと意識できないんだろってちょっとだけ思った。それじゃ少しおそいような。人が死ぬ場合に限らず、そばにいなくなってからその人のことをより一層意識するってさ。その人が存在してるときに、もっと意識できてればよかったのかな、なんて思ったりもした。

会えなくなったことで、時間空いたり、ぽっかりと穴が空くかもしれない。でもそれはその人がいたお陰で生まれた空虚だから、そのままいいんだよ、とまたある人は言った。無の空間は、自分の中から何か生まれたり、新しいものが外から舞い込んでくるための準備エリアだから、可能性に満ち溢れているらしい。

「それでは、代表の方は点火スイッチを押してください。」

物体としての人間を、この世から消す合図。誰かがスイッチを押し、「ゴーーー」と炎の音が鳴り始めた。この扉の向こうで、全てが燃えている。

燃え尽きて出てきたものは、笑っちゃうくらいちっぽけなものだった。骨を摘みやすいサイズに砕き、納骨用の六角形の箱に箸でつまんで入れた。全身の骨が残されるわけじゃない。体の全身の骨をバランスよく、ほんの一部だけ取り出し、あとは知らない誰かに処分される。大部分は、粉々の灰だった。

自分の手で、目で、物体としての姿が消えたのを見た。けれど姿かたちがなくなっても、私の世界からは消えていない。ちゃんと、まだ生きてる。私の心、記憶、思い出、過ごしてきた時間の中で、確実に生きてる。死んでなんかない。

そう考えると、人が死ぬということはみんなの記憶から消えた時のことを言うのだと思う。たとえが粉々の灰になっても、私は絶対に忘れない。だからずっと、私の心で生きていてほしい。

痛みや苦しみから解放され、自由になれて良かったね。好きなお酒もたくさん飲めるね。これからはもっと近くで見守ってほしいなあ。

死は別に怖いことでもなんでもなく、誰にでも訪れる確実な未来だから、もっと語り合っていいと思う。死んだ人の話もしたいし、こんな風に死にたい(言い方悪いけど)とか、共有するのはタブーではない(と、私は考えている)。それは、どんな風に生きたいかを話すこととなんら大差ないと思う。死ぬことを考えることは生きることを考えることにつながるから。


2019.9.15

しらたま太郎

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