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ぐるぐるチャートから見つめる私の器

毎月開催中のワークショップ、金曜の夜は”いれものがたり”では、「ぐるぐるチャート」を用いて人生の節目となった出来事を振り返りながら対話をしています。

以前の記事で触れたように、そこには、①自分の器を知る―「ありのままに話す」実践と、②他者の器を知る―「真剣に聴く」実践という二つの目的があります。

運営側としてもコンテンツの改良を重ねてきたことで、参加された皆さんからは以下のような感想をいただけるようになりました。

  • 他の方のお話から大変刺激を受けました。世代を超えた交流もいいですね。また、こちらの話を整理して頂けるのは有難かったです。丁寧に傾聴してくださり有難うございました。

  • 抽象的な概念の器だからこそ、枠にとらわれずに自由に考えられて、どんなことでも許容してもらえる感じがとても心地よかったです。

  • 初めての参加でしたが、主催者の皆さんがとても穏やかな空気を創り出してくださったのでリラックスして時間を楽しむことができました。

  • 自身の器とはどのようなものか?という観点で探求したことがありませんでしたが、これまでの自身を構成してきた要素やこれからのあり方を探求するうえで非常に興味関心を持つことができ、今回の出逢いに感謝しています。

  • 器という視点で経験を振り返るということが非常に面白く、自分の新たな気づきにつながりました。

  • 自分を掘り下げて語ってみる経験がなかったのでとても新鮮でした。こんな風に語ることで自画像が明確になり、また、自分が何によって器が大きくなったと考えているのか顧みることができました。

  • 感じるままに内側を言葉にして表現できたことに喜びを感じました。

  • 相手の話しを聞く際に、そのときの気持ちや想いを一緒に味わい理解しようというスタンスで傾聴できたことは良かったです。また、内省を深める問いを意識的に投げかけることにより、探求を推進する貢献もできたと思います。

このように、”いれものがたり”を「自分の器を知り、他者の器を知る」という場として活用いただけていることが大変嬉しく思います。

一方、”いれものがたり”では、参加した皆様の人生の節目に耳を傾けることに集中しているため、あまり私自身の話をする機会はありませんでした。

そこで、今回の記事では、私の自己紹介もかねて、自分のぐるぐるチャートを見つめることを通じて、どのように「人としての器」の研究につながってきたのかを掘り下げていこうと思います。


●幼年期・子ども時代

私は、ごく平凡な家庭の次男として生まれました。

両親は共働きだったため、主に祖母に育てられました。

ただし、祖母も畑仕事などで忙しく、十分に手をかけて面倒を見る余裕がなく、そのため、私は兄や大人たちの行動を見よう見まねで覚えていったと聞いています。

自分から話をするようなタイプではなく、どちかというと周りの話を良く聴く子どもだったようです。

幼少期の写真を見ると、どこかおとなしい感じで、密かに深い考え事をしている雰囲気がありました。

兄や大人たちのようにできるようになりたいという成長意欲を高く持っていましたが、身体が小さかったこともあり、体力的についていけないと悔しさもあってぐずるなど、いつも親を困らせていたそうです。

印象的な出来事として、兄の真似をして小さな川を飛び越えたら着地失敗したことがありました。

また公園のジャングルジムに勝手にのぼったところ、バランスを崩してそこから落ちてしまい、間一髪で母親ににキャッチされたという出来事もありました。

何事も好奇心のままにやってみたい、自分の力で成長したいというエネルギーは強かったのかもしれません。

ちなみに、保育園児の頃には、自分のお気に入りの服しか着ないほど、我が強かったそうです(そのため母親は毎日同じ服を洗濯してくれていたようです)。

晴れた日でも必ずお気に入りの長靴を履いて出かけたと言います。

仮面ライダーやウルトラマンのフィギュアをほしがり、それを買ってもらうまで駄々をこねるなど、なにがなんでも我を通す頑固な子どもだったと聞きました。

こうした様子から保育園の先生からは、諦めの悪い芯の強い子と言われたそうです。

自分なりのこだわりをもってやりたい、うまくできないと我を出してまでぐずる―――今思えば、こうした姿勢は壁があってもやりたいという強い意思の表れだったように思います。


●小・中・高校生

小学生低学年ときに、転機が訪れます。

もともと、早生まれで体が小さいことにコンプレックスを持っていて、身長が低くて背の順で並ばされるのが嫌いでした。

それに加えて、小学校2年生の夏休み明けに太ってしまい、それ以降、周りの目を過剰に気にするようになりました。

もともと自分から話をするタイプではなかったのですが、より一層人見知りになり、できるだけ目立たないほうがよい、外ではなるべく自己主張もしないと考えるようになりました。

自分の我を出すと変な目で見られて、逆に思いどおりにできなくなるのではないかという懸念を持つようになり、それまでの「こだわりを持ってやりたい」という気持ちを徐々に抑え込むようになりました。

一方、負けず嫌いなところがあったのですが、体格差もあってスポーツなどでは勝てないため、そういう領域ではそもそも勝負をせず、勝てるところ(頭を使う領域、ゲームなど)に集中して極めたいと思うようになりました。

そのようにして、私の関心は、目に見えるもの(身長や見た目に関する領域)から目に見えないもの(思考や感情に関する領域)に移っていきました。

小学校6年生の頃に書いた「20年後の自分へ」というタイムカプセルの手紙を見ると、どこか世の中を憂いていながらも、それでもあらゆる経験は良い思い出であると結論づけていたりして、物事の良い面と悪い面の両方を見ようとしている姿勢が読み取れました。

しかし、そのように自分の内側の世界に閉じて、内省的に自分の心の奥深くに潜っていくことは、必ずしもポジティブな結果をもたらしませんでした。

私を動かしていたのは、自信のなさからくる強迫観念に近い承認欲求だったのかもしれません。

中学校では、たまたま最初の校内テストで1位となり、それ以降、成績が落ちることがないようにしなければいけないと考えて、自分を厳しく律するためのルールを課すようになります。

それまで熱中していたゲームもやめて、テスト前にテレビも見ないようになり、また痩せるために食事量を減らして走るようにもなりました。

とにかく、自分の意思や欲求を殺し、自分を犠牲にして決めたことを遂行するという完璧主義の価値観が出来上がり、テストでは5教科で500点中490点以上を取ることがほとんどでした。

当時、私はそれが異常だとも、すごいことだとも思いませんでした。

むしろ、私はそうせざるを得なかったですし、私にはそれしかできることがなかったのです。

逆に、それを失ってしまえば、自分の存在意義は何もなくなってしまうと思っていました。

中学校2年生の頃、学校に行くことが苦痛に感じるようになり、ついには、学校で誰とも口を利かなくなりました。

ストレスが重なって過敏性腸症候群や肌荒れが生じるようになり、その当時は死にたくなるほどつらい時期でしたが、誰にも相談できず、次第に家族とも距離を取るようになりました。

そんなどん底にいた私を救ってくれたきっかけが二つありました。

一つは図書館にあった本で知った「自律訓練法」でした。

今でいうマインドフルネスに近いのですが、うまく眠れない夜や、心が乱れた時、お腹が痛くなった時に、自律訓練法を実践しました。

目を閉じて、身体の重みや熱を感じて、腹式呼吸を繰り返していると、気持ちが落ち着き、自分が生きているという実感を取り戻すことができました。

もう一つは、たまたまテレビで見たRADWIMPSの音楽に衝撃を受けたことでした。

特に「RADWIMPS 3~無人島に持っていき忘れた一枚~」というアルバムは、中学生から高校生にかけて、何度も繰り返し聞きました。

  • 「生きてること確かめたくて 呼吸を少し止めてみた 酸素は僕を望んでいた なんとなくすごく嬉しかった」(閉じた光)

  • 「I will die for you, and I will live for you」(25コ目の染色体)

  • 「今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ 今僕が笑ってないとしても 今僕が生きている それだけで 幸せだということ」(最後の歌)

といった歌詞が胸に響き、そこから死生観を考えるようになり、少しずつ不完全な自分のままでもいいと肯定できるようになりました。

それから、RADWIMPSのボーカルの野田洋次郎さんのような表現をしたいと考えて、野田さんが通っていた慶應のSFCに進学することを決めました。

高校時代は理系クラスでしたので、クラスメートのほとんどが理系の進路を選んでいる中で、私の進路選択は周囲と比べて明らかに浮いていました。

当時、成績では校内トップを維持していたので、おそらく先生たちからも変わり者と見られていたように思います。

しかし、このときの進路選択は自分の殻を破り、「自分のこだわりをもってやりたい」という幼少の頃に持っていたエネルギーを、ようやく解き放つことができた瞬間でした。

両親はそうした自分の決断に関して一切干渉せず、陰ながら見守ってくれていたため、今となっては感謝の気持ちでいっぱいです。


●大人前期-大学生時代

念願かなって、第一志望の大学に行けることに、ひとしおの嬉しさがありました。

しかし、上京してすぐに、自分は世間知らずだったということを痛感しました。

地元では校内トップの成績だったものの、一歩外に出てみれば、大学では自分より頭の良い人がたくさんいて、すぐさま劣等感を抱くようになりました。

田舎からやってきた私は人見知りを発揮するようになり、周りとのコミュニケーションも上手く取れませんでした。

思春期の頃から、「誰も自分のことをわかってくれないし、他人に変な目で見られたり悪く言われたりして傷つきたくないので、自己表現をせず目立たないように行動し、一人で閉じて解消する」という価値観を癖づけてきたため、他者との円滑なコミュニケーションは自分にとって重大な課題となっていました。

周りと比べて頭も良くない、スポーツもできない、コミュニケーションも上手く取れない、都会にも馴染めない――そうした中で、私の存在意義は何もないように感じられました。

私は一人暮らしの部屋に閉じこもり、自分と同じような境遇にいる存在を求めて暗い音楽を聴くようになり、自分は独りではないということを確かめました。

そうした中で、次第にamazarashiというアーティストの音楽に惹かれていきました。

amazarashiは日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝しだが「それでも」というコンセプトから名付けられたアーティストで、ボーカルの秋田ひろむさんの絶望から希望を見出そうとする歌詞が自分の気持ちを代弁してくれました。

  • 「一度も旅に出ようとしない、傷一つない船に 誰が乗りたがるだろうか この先起こる嵐を乗り越える為に 痛みを知っている君でなければいけない」(光、再考 詩)

  • 「僕らは闇と生きている 背中合わせに生きている 矛盾をはらんだ人間です 死がマイナスでなく 0だとすればそもそも「生」とは矛盾でしょう」(千年幸福論 詩)

  • 「人生は何が起こるか分からない 光と陰 喜びと悲しみ 清濁わあせて飲み込んで 苦いと笑えりゃ上出来だ」(未来づくり 詩)

こうした歌詞や詩からにじみ出る人間性、物事の良い面も悪い面も統合して見ようとする姿勢に強く共感し、これらの言葉を通じて、私はありのままの自分を少しずつ受容できるようになりました。

大学の授業では、コミュニケーションに関する授業を積極的に履修しました。

組織コミュニケーション論を担当していた花田光世先生が話された「コミュニケーションで重要なのはテクニックではなくマインドである」という言葉が、当時の私の心に刺さりました。

自分はコミュニケーションのスキルやテクニックを身につけようと必死になっていたけれど、そもそも相手と深くつながりたいという気持ちを持っていれば大丈夫じゃないかと思えるようになりました。

就職活動の時期、やみくもに企業にエントリーすることへのモチベーションが湧かず、自分を見つめなおしたくて一人でインドに行きました。

インドでは財布をすられたり騙されたりもしましたが、無事に日本に帰ってこれたことで、今ここにいる自分ができることを精一杯にやろうという気持ちを持てるようになりました。

授業では、山田ズーニーさんが担当されていた自己表現のワークショップを通じて、自分だからこそ言えることを、勇気をもって表現をすることの大切さを学びました。

自分は言葉の力を信じていて、やはり表現に携わる仕事がしたいと思い、編集者を目指すことに決めて出版社に就職しました。

卒業論文では、「「キャリア」を問い続けるキャリア論 -キャリアドックを通して自己を見つめ直す-」というタイトルで、この先どのように生きていくかという自分なりのキャリア観をまとめました。

今振り返れば、論文の体裁をなしていないエッセイなのですが、当時記載した概要をあらためて見ると、「人としての器」の研究に通じる萌芽が見られます。

概要
「キャリアとは何か?」という問いは、あまりにも大きすぎる。90年代以降に流行した「キャリア」という言葉の登場背景には、バブル崩壊後の不安定な社会状況との関連が深い。GDPのマイナス成長、グローバル化、超高齢社会、予期せぬ大震災、科学の飽和とそれに伴う環境汚染。今後ますます、今まで体験したことのないような先行き不透明な時代にわれわれは直面することになるだろう。得体の知れない不安を抱えたまま、それでも、私たちは自らの責任で、自らが大切にする価値基準を決め、自らの人生を切り開いていかなければならない。それは、とても勇気のいることなのかもしれない。それは、とても億劫なことなのかもしれない。それは、とても目を背けたくなるようなことなのかもしれない。それでも、人が人であるための最後の抵抗が「キャリアとは何か?」という問いを続けることにあるならば、われわれはこの大きすぎる問いから逃がれることはできない。なぜならば、キャリアとは、私たちが今この瞬間を生きていることそのものなのだから。
本論文は、大きく5つの構成で成り立っている。第1章では、筆者がキャリアについて考えるに至った背景と、現代の社会構成や教育システムの根底にある「人や世界へのとらえ方」に対しての問題意識について論じた。それを受けて、第2章では、歴史的なキャリア研究がどのような背景の下で論じられてきたのかを振り返り、それらの要点を押さえたうえで、各々のキャリア論が人や世界をどのようにみているのかという切り口で分類した。そして、第3章で、何が起こるかわからない、次の変化が想定できない時代という前提において、自らの可能性を追求するという視点に立ったキャリア論の考察を深め、第4章では、そのキャリア論の立場に立ったうえで、たえず自分自身のキャリアを見つめ直すための施策としてキャリアドックの作成を試みた。最後の第5章で、筆者のキャリア観として「キャリアとは何か?」を問い続けることの重要性を今一度問い直すことで、結びとしている。

私は、他者との関係性の中で自分らしく生きていくうえでの「人や世界へのとらえ方」に強い関心を持っていました。

そして、正解を一つに決めずに問い続けることや可能性を追求し続けるという姿勢の大切さについて、このときの卒業論文にまとめました。


●大人前期-若手時代

大学卒業後、人事分野の専門誌を発行する出版社に就職しました。

希望通りに編集者となりましたが、決められた時間にオフィスに集まり、就業規則や伝統的な慣習にコントロールされるということに関して、心から適応することはできませんでした。

決められたルールにおける確認事項や点検をするような仕事が多かったことも、あまりやりがいを持てない要因でした。

自分の執筆した記事が雑誌に掲載されることは嬉しかったのですが、それでも自分が本当に伝えたい想いを表現できないことへの虚しさを人知れず抱えていました。

やはり私の中では、「自分らしさや個性」を解放するということが重要で譲れないテーマだったように思います。

ある時期、お世話になった先輩が退職し、自分でも一人前に企画を出して記事を回せるようになったタイミングで、会社を辞めようと考えました。

ただ、明確な退職理由があるわけではなかったので、大学院に進むという建前をつくって、波風を立てずに辞めようと考えました。

今思えば、貯金が多いわけではなかったので、この先の生活がどうなるか不明瞭であるにもかかわらず、よく無鉄砲に思い切ったリスクを取ることができたなあと思います。

ただ、ありがたいことに、会社に「大学院に進学するので辞める」ということを伝えると、企業派遣として会社に在籍したまま大学院に通えることになりました。

それゆえ修士課程の2年間は、お金の心配もなく、学業に打ち込むことのできる奇跡のような恵まれた状況で、より一層の覚悟を持って、思う存分に授業と研究に打ち込みました。

いろいろな立場の方と議論をすることは楽しかったですし、自分と異なる立場の相手を前にして、想像力を働かせながら、深く相手を理解しようとする姿勢を身につけられたのは、自分にとっての大きな成長となりました。

修士研究では多くの親切な方に協力をいただき、たくさんの人から支えられて、最後にはありがたいことに、最優秀賞で修了することができました。

「大規模で複雑な問題を解決する」という大学院のコンセプトどおり、たくさんのことを学んだ自分ならば、周りのみなさんと手を取りながら、どんな問題に対しても解決に向かっていけるという自信を持てるようになり、希望を抱きながら会社に戻りました。


●大人後期・現在

会社に戻ってからは、編集部から新規事業部へと異動になり、大学院で学んだことを積極的に仕事に取り入れました。

属人化していた仕事の進め方をマニュアル化して業務改善を行ったり、慣習的に付き合っていた取引先だけでなく新たな取引先を開拓したり、大学と連携を起案して新規事業のシーズを求めたり、組織活性化のために社内ワークショップを展開したりしました。

しかし、保守的な社風の中で目立った行動をすればするほど風当りは厳しくなり、上層部がなかなか変わらないことへのもどかしさも感じるようになりました。

自分がどんなに想いやビジョンを持ち、物事を成功に導くための計画や論理を積み上げていっても、それだけでは通用しない世界があることにも気づきました。

上司には「俺がルールだ、若いうちは目上の人の言うことをまずは聞け」というようなことを言われ、次第にマイクロマネジメントを受けるようになりました。

せっかくたくさんのことを学んだのに、自分の能力や自分らしさを抑圧せざる得ない状況が続いたことで、徐々に苦しくなり、ひどい頭痛に悩まされるようになりました。

そうしたタイミングでコロナの蔓延が始まり、2020年の4月から5月は在宅勤務となりました。

少し時間的に余裕ができた中で、「どうして人は通じ合うことができないのだろう」という問いを探求したくなり、成人発達理論に関する書籍を読み漁りました。

はじめて洋書を読むことにチャレンジしたのですが、特にHanzi Freinachtの『THE LISTENING SOCIETY』を読んだときは、amazarashiの音楽を聴いた時と似たような深い共感があり、その内容は卒業論文の時に考察していた「人や世界へのとらえ方」に通じるものでした。

また、人間の発達に関して、加藤洋平さんが『なぜ部下とうまくいかないのか―「自他変革」の発達心理学』(日本能率協会マネジメントセンター)の中で、「器」という言葉で表現していたことが印象に残っていました。

ちょうど、同じタイミングで、大学時代の恩師である花田先生の慶應MCCのキャリアアドバイザー養成講座に通っており、そこでも花田先生はキャリア開発において重要な概念を「器」という表現で説明をしていました。

この出来事をきっかけに、私は「器」というキーワードに着目するようになりました。

日本らしい言葉である「器」という概念を深めていき、私たちが善悪を超えて個性や可能性を統合的に包み込むような姿勢を持ち続けることができれば、世の中のすれ違いや争いや対立を解消することができると考えました。

その年の年度末に私は会社を退職し、大学院の博士課程に進学することにしました。

そして、同じタイミングで修士課程に在籍していた高橋香さんとゼミで出会い、一緒に「人としての器」というテーマで研究を始めることになったのです。


●まとめ

私は、誰も自分のことをわかってくれないし、他人に変な目で見られたり悪く言われたりして傷つきたくないので、自己表現をせず目立たないように行動し、一人で閉じて解消するということをずっと続けてきました。

そうした癖は今でも残っていますが、それは無理に矯正すべきものでもないように思います。

しかし、本当は自分の我を表現して自分なりのこだわりを貫きたいし、そして他者と深い部分(=表面的ではなく目に見えないところ)でつながりたいという強い想いを持っていたように思います。

そうした中で、大学時代の卒業論文で、他者との関係性の中で自分らしく生きていくうえでの「人や世界へのとらえ方」について思考を深めました。

「人や世界へのとらえ方」には様々なものがありますが、私自身は、正解を一つに決めずに問い続けることや可能性を追求し続けるという姿勢に強く惹かれていました。

そうした姿勢を重視するのは、幼少期から思春期に至るまで、本当は自分の我を表現して自分なりのこだわりを貫きたいのに、それを押さえつけてきた経験に強く影響を受けてきたからではないかと思います。

私の中では、「自分らしさや個性」を解放するということが譲れない人生のテーマになっていました。

大学選び、就職、大学院進学、退職―――節目となる進路選択の場面では、世間の固定観念に迎合せず、可能性を狭めないように、譲れない自分らしさを貫いてきたように思います。

このようにして振り返ってみると、「人としての器」という研究テーマは、私にとって取り組む必然性を感じさせるテーマであったようにも思います。

私たち「人としての器」研究チームでは、『人としての器を磨き、個性と可能性を拓き続けることで、深く通じ合える社会へ』をミッションとしています。

目指す先としては、私たちが独りよがりな善悪の判断を超えて個性や可能性を統合的に包み込むような姿勢を持ち続けるようになり、不毛な争いや対立のなく、深く通じ合っている社会がつくられていくことを本気で願っています。

ここまで私の人生の節目となる出来事を振り返ってきましたが、”いれものがたり”では「ぐるぐるチャート」を用いて人生の節目を思い出しながら、みなさんと共有します。

自分の器を語り、他者の器を聴くという姿勢から、お互いの器について深く理解していくための対話を行う、かけがえのない機会となることでしょう。

みなさんも、ぜひ”いれものがたり”の機会を活用し、自分と他者の人生を見つめることで、自分らしい器とは何かを考えてみませんか?

初めての方も、二回目以降の方でも、何回参加しても新たな学びがあるワークショップですので、ご参加をお待ちしています!


より詳しく「人としての器」を学びたい方は、金曜の夜は”いれものがたり”にご参加ください。

これまでの研究成果のエッセンスを紹介し、対話形式で理解を深める入門版ワークショップです。



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