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【ヨガ】ウジャイ呼吸について【呼吸法】

【ウジャイ呼吸について】

先ず最初に言っておくと、この呼吸法もよく

「ウジャイは胸式呼吸です」

なんて云われているがそれも間違いだ。
これはアシュタンガヨガがウジャイ呼吸を使ってて(本当か?)、なおかつ下半身のバンダを掛けっぱなしのまま呼吸をするので(これも本当か??)、そこから「ウジャイはお腹を動かさずに胸式でやるもの」みたいな誤解が出てきたのだろう。だがそもそも胸式とか腹式とか、首から下がどうだろうとウジャイには関係はない。ウジャイ呼吸とは首から上だけのやり方で、その下は別に胸で呼吸しようが腹で呼吸しようがどうでもいいのだ。

さて、では首から上はどのように使えばいいのだろう?一般的には呼吸音を鳴らすやり方だと云われている。では何故呼吸音を鳴らすのか?どのように鳴らすのか?

基本的にヨガの技法には全て「なぜそのようにやるのか?」という理由がある訳だが、だいたいその理由というのは3つある。ひとつは身体的な理由、ひとつは生気的な理由、もうひとつは意識的な理由だ。要するに5コーシャのうちの最初の3つにそれぞれの行法の理が存在する訳だ。様々な技法についてこの3つの理由を探る事はヨガの勉強にとって極めて重要で有益だったりする。まあそれはまたの話として。。

先ずウジャイの身体的な理由、これは単純な事、自分の呼吸を音に変換する事によって、微妙な乱れやムラに聴覚を通して気づけるから通常の呼吸よりも呼吸を観察しやすくなる。スカした言い方をするなら「音によるフィードバックが得られる」わけだ。

次に生気的な理由、呼気を喉の奥(ララナ・チャクラ)に音が出るくらい意識的に当てる事によって息とプラーナが分離する。音の振動している場所を岐路に、息はそのまま口蓋を経由して外に、プラーナは物理的な障壁を越えて頭部に向かう。この分離を明確にするために岐路の箇所を振動させる。もちろん吸気に関しても同様だ。

※余談になるが、この空気とプラーナの分かれ道というか境界を明確に意識化することは、プラーナヤーマの初歩において極めて重要である。これをキチンとやらずに初めから「空っぽのカラダにエネルギーが満たされてる様をイメージしましょう」とか「お腹に息を入れて〜」みたいな事をしていると、いつまでもプラーナを「なんか空気のようなもの」というモヤンとしたイメージからひっぺがせない。そこで『プラーナとは中国でいう氣の事です』みたいな誤解も起きる。だがプラーナを氣と混同していると、ハタヨーガの行法の本質的な意味とか理とか、もっと下世話にいうと「何のためにやるのか?」を理解できる可能性が全く無くなってしまう。

さて、空気とプラーナの分かれるポイントは大きくは身体に3つある。
ひとつめは今述べたウジャイで使う喉の奥(ララナ・チャクラのあたり)、ひとつは通常呼吸の吸気でサマーナ領域へのプラーナを分ける横隔膜。もうひとつはアヌローマヴィローマ(片鼻呼吸)で吸気からプラーナを分離してアジナーチャクラへ導くための鼻の奥だ。詳しくはアヌローマヴィローマに関してのテーマで書く時に解説する(仮)。


時を戻そう。
最後に意識的な理由なのだが、実はこれ、昔にお師匠から習った気がするのだが、その時にメモも何もとらず、どうもうろ覚えになっていて、どちらが呼気でどちらが吸気だったかとか、頭蓋内を通る具体的なラインのこととか、はっきり言って自信がない( ̄+ー ̄)そして、このラインを通すことにどんな意味があるのかも不明のままだ。

そもそも俺は、「なぜそういうふうにやるのか?」の理由がちゃんとわかって理解して納得しないと自分の行法にも取り入れたくないし、ましてや人に教える事は出来ない。「だってそう習いましたから」「ヨーガスートラにはそう書いてありましたから」こんな事で理論も理屈も理由も不明な謎行法が形だけ伝播し続ければ、そりゃヨガも形骸化するってものだ。
それでも一応こうして図にして説明してみるのは、こういう典型的なナーディシステムのイメージングこそが、まさしくハタ・ヨーガなるものの本質であり、それを示すには恰好の材料になるからだ。


ハタは別に様々なポーズを取るヨガではない。ハタが身体的なヨーガと呼ばれているのは、身体が意識や感情や感覚の回路だと見なされているからだ。それが具体的にどういう意味なのかは、カパーラバーティにせよウジャイにせよ、それらを通してナーディシステムの土台を作り、プラーナを曖昧なモヤンとした空気だったり不思議なエネルギーだったり中国的な『氣』と混同するのをやめれば分かるようになってくるだろう。

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