5月4日

 仕事が決まったのか…と、嫁と乳児を連れて日帰り帰省した弟に言われる。
「まだ。どうしたらいいと思う?」と、気軽に尋ねてみたら…
「そんなん、妥協するしかないんちゃうん?」と、呆れたように返された。
 バイクの宅配業でもやれと言う。
 バイクの宅配業が良いとか悪いとかではなく、何故その仕事が私の仕事になると思えるのか、まるで解らなかった。今までやってきた仕事でもないし、これからしたいと思っている仕事でもない。彼にとったら、「選ぶから無い」「やれると思うことをやれ」と言うことなのだろう。贅沢言うなと…。
 今後、出来ることなら、転職することなく定年まで働きたいと思っている。自分で自分の世話を誰にも迷惑を掛けず出来るだけの仕事に就くために、好きな仕事から足を洗ったのだ。続けていては生きて行けないから、辞めたのだった。
 仕事とは、自分の意志を尊重して探したり選んだりしてはいけないのだろうか?
 年齢的にも、学歴や経験的にも、そんなこと言っている場合ではないのだろうか?
 弟と話していると、今後生きて行かなければならない人生が、とてもつまらなく思えて来る。生活の大部分を担う〝仕事〟に対して割く私の人生の時間は、私という人間が生きて行く上で、面白味などというものを求めてはいけないものだと言われているような気がしてくる。
 残りの人生を、そんな風に生きて行くくらいなら、もう、生きて行きたくないと思っている私は極端かも知れないが、簡単に自分の人生を投げ捨てる勇気など無い。
 仕事をしていない…その現実が、きちんと長年ひとつの場所で働いて、ちゃんと結婚して子どもも儲けて、一社会人らしくまともに生きている彼には酷く情けないのだろう。それが解るのは、彼や世間一般の〝まとも〟から、私が大きく逸脱しているからだ。
 働いていない私を、彼は「毎日暇だ」と思っている。
 退職する前、有休消化できないものの、少しでも消化しようと休んでいた期間を含め、暇だった日など一日も無いというのに…。
 一日も早く仕事に就きたいと思う気持ちに変わりはないが、私が就きたいのは、無職から逃れられるなら何でも良いという類の仕事ではなく、残りの職業人生を胸張って全う出来る、〝私の仕事〟なのである。
 見つかる気配はまるで無いが、何故か、見つからないとは思っていない。見つけるために仕事を辞めた…その決意と目的だけは、まるで揺るぎないからだ。
 現実が甘くないのは既に承知している。ならば妥協して一人で生きる残りの人生を捨てるのなら、私は今、人生を捨てる方を選ぶかも知れない。

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