絶望の淵から
生きているのが辛いときがある。
自分が世界から除外され、必要とされない人間であると思い知らされるような経験を、私は幾度もした。求めても拒絶され、自分の居場所もわからずに、何処でどう生きれば良いのかと迷子になっていた。今も、まさにそうである。
生きていることが苦しい。
希望の光はなく、しかし今後も生きるのなら、私に、無いものを差し出せと、社会が追い駆けて来る。どん底である。
かといって死ねるだろうか。自ら死を選べるだろうか。
私にはそれも出来ないのである。
どんなに不幸せでも、この世に生まれた奇跡を無視出来ない。それに、一握りに満たなくても、私が死を選べば確実に、その後の人生を私以上に苦しみながら生きなければならないであろう、大切な存在が居るからだ。
それを思うと、私は安易に死ねなくなる。痛いのも苦しいのも嫌だが、大切な存在が、私のせいで痛み苦しむのは、もっと辛いことなのである。
生きて行くことは、私にとって辛く苦しい。それでも命ある限り、この世で生きて行かねばならない。
では私はどうすれば良いのか…。
私は自分が『明日、死ぬかもしれない』と思って、今を生きてみることにした。
明日死ぬかもしれないのに、悩み苦しんで、溜息ばかりついている。その姿を大切な存在に見せつけて、自分以外にさえ憂鬱な思いをさせている。私を慕う純真無垢な魂を、私の鬱々とした悩みによって無視し、傷付けている。
何と愚かなことか…。
生きて行くことは私にとって、辛く苦しい。これからもきっと、簡単には変わらないだろう。
しかし時間の無駄である。悩み苦しみながら生きて来て、上手くいったとしても、そろそろ折り返し地点だ。
『私は明日、死ぬかもしれない』
そんなことは誰にもわからないが、きっと、誰にでも起こりうることだ。
ならば、絶望の淵で、生きているのが辛い時、ちょっと視点をずらして今を生きてみようと思う。
私は未来を、自分のために生きようとしているから辛いのだ。
私は私の大切な存在のために、今を生きる。そうすれば、今をその存在の幸せのために使えるし、私は自分が不幸せであることを直視している場合ではなくなる。
辛く苦しい時、絶望の底なし沼で溺れるくらいなら、誰かの幸せの為に時間を使った方がよっぽど有効である。
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