嫁という存在②

 母の実家である自宅に戻ると、冬子さんが台所で夕飯の支度をしていた。
 訪問しても挨拶ひとつしない人であるが、季節外れに一人でやって来ていながら、泊めてもらうのに黙っているのもおかしいので、私は祖母と共にこの叔母の元へ行き、「お世話になります」と頭を下げた。
 相変わらず愛想のない人であったが、今夜は祖父が戻らないこともあり、祖母と共に今日の報告をする。料理の手も止めず、聞いているのかいないのかわからなかった冬子さんだが、祖母が「手術、今日じゃなくて明日やったんよ…」と苦笑いした瞬間、彼女は突如、絶叫した。
「私は行かんよ!」
 あまりのことに、祖母は固まり、驚きの余り、私も固まった。
 普段殆んど口を利かない人である。しかも、祖父の報告をしているだけなのに、何故突然、私達は怒鳴られたのか。それに、誰も「一緒に行ってくれ」だなんて言っていない。
 彼女は続けた。
「おかしいと思ったんよ!お義父さん、朝ご飯食べとるし、手術の日は絶食なんじゃから!私は行かんからね!」
 冬子さんは言うだけ言うと、ぷいっとキッチンに向き直り、再び支度を続けた。
 私は震えた。
「そうか…手術の時って、絶食なんやね。知らんかった…」
 私はただ思った通りに一言呟くのが精一杯だった。そして返す言葉もなく動けなくなっている祖母に気付き、祖父母の部屋へと誘った。
 祖母は泣いていた。
 そして自分の分と私の分の布団を用意し、中に入ってしまうと、「明日は手術じゃけん、行っちゃらないかんけん、ばあちゃんはもう寝るよ」と言った。
「ごはんはどうするの?お腹空くやろ?」と返す。
「ばあちゃんごはんはいらんよ。なんも食べとぅない。あんただけあとでもらっといで」と祖母。
 私は隣の布団に入り、「私もごはんいらんよ…一緒に寝る」と呟いた。
「なんでこんな思いせないかんのか…」祖母は涙を流した。
 暫くして少し怒気を含んだ「ごはんよー」という声が聞こえ、祖母が「あんただけでも食べといで」と言ったが、私は首を振った。何て日だ…と思った。
 暫くして携帯電話が鳴った。祖母は寝ているのかいないのか、布団から動かない。起こさないように隣の部屋に移動する。母からであった。
 そういえば、手術が翌日だったことをまだ知らせていなかった。母の声を聴き、私は涙が溢れた。嗚咽が止まらず、声が大きくなりそうだったので、傍に在った布団を頭から被り、泣きながら一部始終を話す。自分達の知らないところで、いつも祖母が今日のような仕打ちを受けているのかと思うと、いたたまれなかった。
 話を聞いた母は、激怒した。弟である叔父に電話する、と息巻く。叔父はまだ仕事から戻っていなかった。
と、背後で叔母の声がした。「ごはん」と呼んでも行かなかったからか、泣き声が聞こえたのか、母に告げ口していることに気付いて慌てたのかはわからない。しかし背後で謝り出したのだ。
 私は「もういい」と繰り返したが、叔母は謝り続けた。謝られたことには驚いたが、それで蟠りが解けたというものでもなかった。私は叔母が、何に対して謝っているのか全く解らなかったのである。
 その後、母は、仕事から戻った叔父と電話で大喧嘩し、私は叔父に呼ばれた。
 叔父は祖母が、何故一緒に住んでいる自分たち夫婦に頼らず、遠くに住む姉に頼ったのか、まるで理解していなかったばかりか、それに対して怒っていた。それは嫁である叔母も同じだったようで、結局、私が来たことが、二人の心を逆撫でしたようであった。
 私の視点は全く別の方向を向いていた。
 叔父夫婦は、何十年も祖父母と暮らしていながら、何故祖母の心配性の性格や、手術に対する不安な気持ちを、理解していなかったのだろう。物心つくかつかないかで母親に死なれ、兄嫁に育てられたことで、人一倍他人に対して気を遣う性分に育った祖母が、「仕事が忙しい」と言い続けている者に、何故、頼ることが出来ると思っていたのだろう。
「家族なのに…」と、叔父は涙を見せたが、私は『何と咬み合っていない家族か…』と思った。
 叔父は叔父で、板挟みになって苦しんでいたのかも知れなかった。
 食欲はすっかり萎えていたが、叔父に言われて少し食べ、ちゃんと化粧も落として風呂にも入った私は翌朝、祖母に前日の一部始終を話して聞かせた。「言うなよ」と口止めされたが、叔父が泣いたこともこっそりと…。
 祖母は言った。
「鬼の目にも涙…」
 爆笑であった。
 パンチパーマの強面で、普段から常に偉そうにふんぞり返っている叔父である。子どもの頃からドスの利いた声で、いつも脅されていた私は、心から叔父が恐ろしかった。
 ある時、母に「おいちゃんは不良か?」と真面目に尋ねて、本気で怒られたことがある。〝不良〟が何かもよく解かっていない子どもの無垢な質問に対し、そこまで怒るか?というほどの剣幕であった為、私はどんなとんでもないことを口走ったのかと母の憤りに脅えた。聞けば叔父は、確かにやんちゃな学生時代を過ごしたようであった。誰からも愛されるちょっと悪い奴…叔父はそんな人間だったようだ。実際、友達も多く、人から好かれるタイプの人間だったのであろう。
 その日、祖父の手術には予定通り祖母と私が付き添い、無事終了した。
「仕事が終わってからじゃったら迎えに行ってやるけん、電話しろよ」
 仕事が終わる遅くまで、病院に滞在する必要はなかったが、頼らないことの方が気を揉んだ為、祖母と私は術後の祖父の病室に長居した。
 昨日の諸々でまともに眠れず、疲れもピークであったが、自分達で汽車と電車を乗り継いで実家に戻ったとあれば、また何を言われるか判ったものではない。仕事で疲れているであろう叔父に、無理して迎えに来てもらうのも気疲れの原因であった。
 結局、気持ち良く手伝いに行ったことは仇となった。
 私が母の実家を去った後、祖母は大丈夫だろうか…。鬼の形相で年寄りを怒鳴り散らした嫁の顔を、私は忘れることが出来なかった。 
 後ろ髪をひかれる思いで大阪に戻った後、私はストレスから、古いチョコレートをドカ食いしたのが原因となったようで、人生初の蕁麻疹に見舞われた。今思い出しても恐ろしいほどの痒みが全身を襲い、皮膚という皮膚が腫れ上がる。冷やしたものの、秋から冬の変わり目というご時世で寒さに耐えきれず、柔らかい部分から順々に、蚊に刺されたような膨らみが肥大して繋がり、真っ赤に腫れ上がった顔でふた回りも大きくなった手足を見た時、私は自分が死ぬのではないかと思った。週末の夜間で病院に行ける状態ではなかった為、尋常でない痒みにのた打ち回り、インターネットを使って、抗ヒスタミン剤が有効であることを知ると、薬箱からいつの物やら判らないそれを見付けて服用した時には、既に夜が明けていた。

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