嫁という存在➃

 互いを支え合い、長年祖父と二人三脚で生きて来た祖母に、認知の兆候が見られるようになったのは、祖父の七回忌を過ぎた頃だったように思う。夏の帰省に合わせて早目の法要を終えた後、祖母は大阪まで旅をして、我が家で一週間を過ごした。
 翌、年明け、今度は大阪に嫁ぐことになった孫(冬子さんの娘)の結婚式の為、再び我が家を訪れた祖母は、一人で散歩に出てしまい、慣れない土地で迷子になった上、気分を悪くしたところを親切な人に助けられて警察に保護されたのだった。
 叔父の話に因ると、クリスマス辺りから大阪に行くことを今か今かと楽しみにしていたらしいのだが、まだその日でないとわかると苛々したり、怒り出したりと、様子がおかしかったらしい。本来の目的である、同居していた孫の結婚式よりも、何十年も前に嫁いだ娘の家に滞在することに気持ちが向いている時点で疑問符が湧くが、長らく手狭で、家を改築してやっと、落ち着いて祖父母を呼び寄せられるようになった我が家としては、嬉しいことこの上ない。しかし結婚式の前日、叔父夫婦と共に飛行機で降り立った祖母は、口数が少なく、落ち着かなげに自らの手を擦り合わせていた。いつもと様子が違うことを思えば、随分こちらも迂闊であったと反省を否めない。
 今見返しても、結婚式の写真に写る祖母の顔は、全く祖母らしくない。自分が何故、何の為にそこに居るのかわかっていないようなその表情は、饒舌でユーモアに溢れ、八十を過ぎても獣が通るような山道を上り下りして、畑や蜜柑の木の世話をしてきた、溌剌とした祖母とは、まるで別人であった。
 結婚式の後、祖母は我が家に一週間滞在した。母は元々、その間を祖母と過ごすつもりで休暇を取っていた為、親子穏和にゆったり過ごしたようであった。
 私は仕事に行っていたが、帰ると祖母が家に居ることが嬉しくて仕方なく、暇さえあればあれやこれやとお喋りした。
 幼い頃、母の実家に帰省する度、祖父母の居る家庭で暮らしている従妹達が羨ましくて仕方なかった。私は年に数日しか一緒に過ごせないのに、彼らはいつでも同じ屋根の下に居て、いつでも会って話すことが出来るのだ。それに、冬子さんは子どもが小さい時からずっとパートに出ていた為、彼らは祖母に育てられたようなものであった。
 祖母が居た一週間、私はとても幸せだった。心配していた認知症状も出ず、今まで通り饒舌でユーモア溢れる祖母であったし、洗濯物の始末をするなど家事も手伝ってくれ、とても助かったのである。それ故、祖母が故郷へ帰ると言い出した時は、本当に悲しかった。こっちに居れば話し相手もいて楽しい。しかし祖母にとって、帰るべき家は田舎の実家なのであった。

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