報道写真、それから戦争を伝えることについて

まずはこの記事を読んでほしい。これは去年の記事だが、案の定一年間僕はクリックしなかった。シリアの惨状と、それについての世界的な反応が薄れていることを考察した記事だ。

記事中の言葉にあるが、ある主の惨状を見せ続けると、心理的な麻痺状態になり、痛みを感じにくくなる。「そうなのかあ。」と顔を顰めて、それで終わり。生活に戻っていく。

戦争は今も起きている。でも僕たちには何もできないという無力感が、全体を包んでいる。何か変わればいいのになと思い、でもどこかで諦め何もせずにそれを待つ。そういう感じ。ちょっと違うけど「3月の五日間」を少し思い出す。

でもこの記事を読むと、それとは違う違和感を感じる。それは何だろうか。写真がきれいすぎるのだ。

きれいという言葉は相応しくないのかもしれない。しかしあまりに構図が整っていて、それは美しいという形容詞を使わざるをえないほどに整頓されている。それは写真としては素晴らしいのだろう。報道写真コンテストではよい評価をもらえるのだろう。だがこの記事に挙げられるべき写真は、戦争をより伝え得る写真は、下手クソな写真ではないだろうか。

うまく撮られた写真は、どこか現実味を失ってしまっていて、それは何度も見てきたアクション映画のように、どこか嘘くさいフィクションのように受け取られてしまうのではないか。子どもの傷が、写真を良く見せる彩りになってしまっていないか。血の赤色が、画面を引き締める効果に成り下がってしまっていないか。大きな黒い瞳が、無垢という記号に成り下がってしまっていないか。

何かを批判したり、批評したり、伝えようとすることには、絶対に自分を売ろうとする側面が付随してくる。自分が評価されたいということなしに、それを「発表」する人などこの世にはいない。(これは違う文脈でこないだ星野源がラジオで言っていたこと。)そしてそれは悪いことではない。当然写真によって評価されようとするのは悪いことではない。評価されるべきでもある。それでも感じる違和感。あまりに綺麗に切り取られた写真。それは技術や性能の向上も大きいのだろう。写真を選び取る時、よりはっきりと惨状が写されたものを選択するだろう。でもその時選び取られなかった、下手クソな写真の方が、生々しく現状を伝えるのではないか。何故なら、選び取られた写真には余裕を感じてしまうからだ。必死な感じがしないのだ。

ロバートキャパの時代ではない。そういう報道写真が世間にショックを与える時代ではない。写真や映画や映像が世の中に溢れかえっているから、それはフィクションのようにすら見えてしまう。

それらの写真は写真の中で完結していて、世界が完結していて、こちらの世界と繋がってくる感じがしない。写された人も撮った人も、そこで世界が止まっていて、息をしている感じがしない。

それともどこを切り取っても「綺麗に」まとまって見えてしまうのだろうか。

だとしたらそれは報道写真や映像によって、人々がその画を見慣れてしまった所為だろうか。それを一つ一つの写真ではなく、無意識に「戦争の写真」という系譜の中にくくり付けて処理しているからだろうか。

わからない。

https://img.buzzfeed.com/buzzfeed-static/static/2018-03/14/6/asset/buzzfeed-prod-web-04/sub-buzz-5636-1521025167-1.jpg?downsize=1040:*&output-format=auto&output-quality=auto

たとえば、この写真とかあまりに綺麗すぎないか。素晴らしい写真だ。だからこそそれは完結していて、僕たちの生活には一つも繋がってこない。

居間ではテレビがずっとついていて、みんなが見るでもなく見ていた時代。その時テレビで流れる戦争の映像は、今よりも意味があったように思う。生活の中にあるからだ。今、テレビの見方が変わってきている。録画して見たい番組を見たり、Tverなどのネットサイトで見たりと、テレビを見ると言う行為は能動的な行為になってきている。そもそもテレビを買うという行為自体が、かなりの能動性を強いるものだろう。それは本を読んだり、こういった記事を読むことにも似ている。読み終わったところで本を閉じる。そして生活に戻る。

youtuberのような人が、戦争を報道する方がまだいいかもしれない。youtubeは流し見に適しているからだ。ながら見に適しているからだ。生活の中に置かれることに適しているからだ。
そういう触れ方が、生活の中に入ってくる触れ方が、一番人を考えさせるのではないか。そもそも戦争だって生活の中に不意にやってくる恐怖なのだろうから。

僕の提案はラジオだ。映像ではなく、音声だけを伝える方が生々しく人に届く気がする。例えば、深夜一人で聞くラジオの素晴らしさは、やっぱりパーソナリティがスピーカーを通して「自分に」語りかけているという感覚だろう。それは複数の誰かではなく、「自分に」語りかけている感じがする。本当には違うのだけれど、そう思わせる効果がラジオというものにはある。息遣いが家に届く。或いはただダラダラと垂れ流されて、生活に溶け込むラジオ。聞くでもなく聞くラジオ。そこに流される戦争の生々しさは、ほかのどのメディアが伝えるものよりも、ショッキングで生々しいものではないだろうか。

どうだろうか。

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