根本宗子「今、出来る、精一杯。」を観た。

漫画を読んでいると、絵と絵の間のモノローグをうらやましいなと思う。こういう言葉のあり方で書けたらいいなと思う。漫画だったら言える台詞とかもある。小説で書くと何だか恥ずかしい台詞。映画でもいいな。ゴダールみたいに言葉をバンと出して、意味なんて知らないよーと言えたら、最高だろう。もちろん、意味なんてないんだけどね。

何か、言葉の中だけにある言葉は寂しそうだなと思う。もっといろんな世界を見せてあげたい。言葉の中にいるせいで、書かれなかった言葉があって、それが漫画のモノローグだったらカッコよくいれたんだろうなと思う。少女漫画なんかで夜空に書かれる言葉は雪みたいで素敵だ。(大島弓子とかで見たのか。)言葉が好きだから、その言葉が一番カッコよく見えるところで書かれてほしい。(岡崎京子のモノローグのかっこよさったらない。)

それを言葉の中でやるのが作家の仕事だって気もするけど、でもやっぱり漫画や映画や演劇の言葉の方がよっぽど素敵だなって思う。何か生きている気がする。声とかそういうのもあるんだろう。でも音楽の言葉は死んでいる感じがする。それは多分音だから。だからカネコアヤノに感動した。生きていたから。

音と文字の間でなっている言葉が好きだ。それは少し沈黙と似ている。

昨日、月刊「根本宗子」第17号「今、出来る、精一杯。」という芝居を見に行った。ぼくは演劇が好きなのだが、その日はあまりわくわくしていなかった。体調の所為もあるし、何だか体が重くて出かける気にならなかった。それでもまあまあするチケット代を払っていたこともあり、いそいそと出かけた。こないだ行ったaikoのチケットより高い。

見てしまえば、チケット代はもっと高くていいくらいだった。というか芝居を見て泣いたのははじめてだし、未だかつてない観劇体験をしたような気持ちになった。何よりもラストに向かう50分がすばらしい。ぼくは時間を読み間違えてしまって、その日のバイトに遅れることになる。そのことに対する、焦燥や落ち込みを一瞬忘れてしまうくらいにその圧倒的なエネルギーは私を飲み込んだ。

「ジョーカー」が流行っている。ぼくも記事を書いた。でも何か生き辛さを抱えている人は(つまりこの世のすべての人は)「ジョーカー」よりも「今、出来る、精一杯。」を観て欲しい。そう思った。そう思って書いてたのだけれど、昨日が千秋楽だったらしい。くぅ。

冒頭の言葉の話に戻ると、その舞台で発されている言葉は、生身の人間がのどをふるわして発している言葉だ。そのことによってひとつの言葉が何重にも意味を重ねる。それがただ台本を読み上げているだけか、筋を追っているだけか、俳優の身体を通して物語の感情を通して発されているか、それが演劇の面白さを大きく変えると思う。言葉の面白さを大きく変えると思う。ただ意味だけに成り下がった言葉だったなら、ぱっとあらすじを読めばそれで終わりだ。そうじゃない言葉がそこにはあった。

はじめはそんな風な気がした。でもラストで言葉が生き生きと舞い始めた。だからあらすじは書かない。複数の主人公、複数のあらすじが集約して、それでもばらばらにあって、それがそれぞれの言葉で語りだすところに魅力が溢れている。

そうじゃない言葉でラスト50分が溢れかえる。誰も味方がいなくて、ひとりになったとき、「あなたは間違っていない!」と大きな声で声を枯らして肯定してくれる言葉があったなら。「大丈夫」と抱きしめてくれる腕があったなら。それがちっぽけでもいい、「今、出来る、精一杯。」で自分を肯定してくれたなら。そういう瞬間にそんな言葉はやってこない。やってきたことがない。だからこれはフィクションだ。フィクションだからこそ、できた力強い肯定をぼくは信じたい。背中を暖めていて欲しい。

めんどくさくても、辛くても、それでも生きると叫ぶ声がする。生きるというのは呪いだ。こんだけ辛いんだから、信じられないくらいいいことがやってこないと割に合わないと叫ぶ声がする。生きるというのは祈りだ。呪いは祈りで、祈りは呪い。生き辛さの中で生きるということ。他人の苦しみなんてわからない。自分の苦しみが点々とあるだけ。それでも苦しさがあるということだけはわかる。

否定は簡単だ。肯定は難しい。否定は簡単だ。肯定は勇気がいる。あの力強い声を。

誰も自殺をしない。この舞台の上では。現実ではきっと死んでいた人もいるだろう。でもこの舞台の上では誰も自殺をしない。演出家がそれを選ばなかったから。生きると叫ばせたから。生を力強く肯定したから。自殺という選択を否定しているのではない。自殺というのは自分を殺めると書くけれど、その文字は間違っているように思う。社会が殺めているのだ。社会が演出しているのだ。社会がそれを選んでいるのだ。

常軌を逸した狂い方をした登場人物。苦しいから。でも常軌とは何か。何度だって繰り返される普通と狂気の境界線への問い。多くの主人公たちに共感できなかったり。生半可に共感してはいけなかったり。それぞれの孤独な苦しみ。それでも寄り添って欲しいときがある。

狂ってしまいそうなときに、あなたはおかしいと言われたら、狂いきってしまう。あなたは間違っていないと、大丈夫、と言われたら、狂いきらずにいれるかもしれない。狂ってしまった方が苦しみは少ないのだろうけど。(ジョーカーをまた思い出す。)

幸せの総量は同じとか、苦しみがあったら幸せが必ずやってくるとか、言う言葉がある。その言葉をかけるときというのは思考停止していると思う。そんな言葉が欲しいときなんてない。幸せを求めるときは苦しいからで、その苦しさを解決してくれるか、幸せを与えて欲しい。いつか来る幸せに期待だけさせて、無責任な言葉を言わないで欲しい。せめて一緒に悩んで欲しい。そんなことは求めない。でもそういうめんどくさいときだってきっとある。

舞台の上を、亡霊のように漂う少女が何人かいる。あれは言霊か記憶か。近くにいたり近くにいなかったり。それらが耳元で肯定の言葉をかけてくることはない。でも誰かの生身の言葉と共に、それらは腕を回し背中を暖める。記憶ごと、寄り添う。

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