回ル者 〜ツァラトゥストラはこう言った
ALSO SPRACH ZARATHUSTRA
Friedrich Nietzsche
ぼくの頭ん中にとつじょ「永劫回帰」という呪文が降って沸いたとさ。
ぼくは、ニーチェを、読めない。
ここに「ツァラトゥストラはこう言った」岩波文庫の上下巻がある。
読んでみる、早くも、上巻の30ページほどの「超人と『おしまいの人間』たち」のあたりで脳髄が機能不全に陥ったようだね。
奇妙なことに、上下巻ともページをペラペラすると至る所に線や絵が書かれておる。
どうも、ぼくは重度の記憶障害らしい。
まるで覚えがないのだけれど、どう見てもぼくのいたずら書きどもだ。
さて、ツァラトゥストラのことはまるで思い出さないけれど、「永劫回帰」の件は思い当たった、「哲学者とオオカミ」だ。
何度も読んだもんだから、こびりついていたんだろう。
マークさん、哲学の教授だから、わかりやすく解説してくれるものね。
まるで変わることのない自分自身と永遠に生きれるか?
「永劫回帰」、ここではもはや時間は線ではなく、輪である。そのグルグル回る永遠の中で「目的」というゴールは存在しなくなる。
瞬間は繰り返す。いい瞬間も、悪い瞬間も。「ネバーモア」はない。
ぼくは思う、永劫回帰、このニーチェの閃きを。
ニーチェをゼンゼン読めないぼくは、マークさんのおかげでこの問いを考える。
ぼくは、デーモンになんと答えるろう?
ぼくは、「イイネ!」と答えるろう。
ニーチェが求めるようには強くないぼくは、それでも「輪」に閉じ込められてもいいと思うだろう。
なぜなら、そこには「彼」がいるから、何度も彼に会えるから。
彼は生まれて、ぼくの目の前で死んでゆくのだろう、でも、この「輪」の世界では彼はまた生まれてくる、そう、ぼくらはあの日にまた出会うんだ。
ぼくはこのぼくのくだらない人生で自分のしでかしてきたことをとてもじゃないけど肯定できない、言わずもがなのもっといいとされる選択が五万とあっただろう、それでも、ぼく自身は自分の選択を否定できない。ぼくの選択を否定してしまったら、「彼」は彼ではなくなってしまうだろうから、そして、彼に出会わなかったぼくは今のぼくではなくなってしまったろうから。
彼はぼくになんか出会いたくないやもしれないけれど、ここではぼくの「生存テスト」の話だから許してほしい。
彼はいつも「突然」愉しくなった。
ふだんからビビってるかボヤァとしてるかの彼はたいてい憂鬱そうなのだけど、何かの拍子に急に華やぐことがあった。
そんな時彼は文字通りキラッキラに目を輝かせた。
「キャハッ!」という顔をするんだ。
その瞬間、彼の「喜び」を見た。
その瞬間、ぼくも「喜び」になった。
それはいつ出るかわからない「一瞬」だから、大量の動画の中でも数えるほどしか撮れてない、写真なんかじゃ絶対無理だ。
説明し難いこの「一瞬の喜び」が、ぼくには本当に大切なものだった。
彼がぼくに与えたものが今のぼくの「善」、今のぼくのすべてだ。
そのためにぼくはいくらでもグルグル回るだろう。
ぼくの人生の選択が間違っていたとはまるで思いたくない。
彼に出会えて、彼と生きれたことがぼくに「瞬間の力」を教えてくれた。
彼との最高の「瞬間」のために、その「力」のために、ぼくは何度でもぼく自身のくだらない苦痛を飲むだろう。
彼に出会わないぼくなぞ「在り得ない」のだ。
薄暗いハウスの中で、どうにも地味な仕事をしながらそんなことを考える。
誰かが言ってたっけ、ニーチェは究極のポジティブ思考だって。
キ印ポジティブ思考。。。サイコー。
ぼくはニヤリとする。
ぼくは、ニーチェ(何呼び捨てにしてんだ!ってな)のことをゼンゼン知らない、彼とマブダチになれる気はゼンゼンしない。
そんな非哲学的なぼくに降ってきた「永劫回帰」。
もう少し頑張って彼の話を聴いてみようか。。。
「神は死んだ」
君はそう言ったけれどさ、
「永劫回帰」ゆえに、ぼくの神さまは死なないよ。
Ich möchte schlafen, aber du musst tanzen!