オシマイノ者 〜ツァラトゥストラはこう言った
ALSO SPRACH ZARATHUSTRA
Friedrich Nietzsche
「ふさわしいときに死ね!」
と、ニーチェくんは吐き捨てる。
「うん、ぼくは、『神』を道づれにできたあかつきには連れ立ってあと10年ちょっとは生きたいのだけど。。。。」
ニーチェくんは、唾を飛ばす。
唾を飛ばしてディスりまくってる。
多発するビックリマーク!!!
彼の唾シャワーで目も開けられない。
「おしまいの人間」「賎民」「善くて義しい者」「市場の蝿」…
呼び方はなんだっていいけど彼はディスってる、まるでぼくみたいだ。
彼の気に入らないのは、「畜群」=群衆・大衆だ。
いつも多数派にいて、考える力を失った「弱きもの」という蝿だ。
彼らは「弱さ」ゆえに群れている。
彼らは「弱さ」ゆえにたかってくる。
彼の気に入らないのは、「偶像」=国家・宗教だ。
嘘つき盗人の冷ややかな怪物だ。
奴らは甘い毒で誘って「畜群=ゾンビ」を製造する。
奴らは「畜群=ゾンビ」を囲って共食いさせてる。
いてもたってもいられないニーチェくんは「おまえら目を覚ませッ!怪物や蝿どもに喰われてんぞッ!」って「!」付きでビビビッ!と平手打ちをあびせまくる、「おしまいの人間」ことぼくらリア充の阿呆どもにだ。
せいぜいよく眠るためによく起きてろ阿呆め、ニーチェくんは吐き捨てる。
市場はな、プンプン臭うんだよ。。。
蝿どもは、人間どもは、腐敗している。。。
ニーチェくんは激怒した。
けれど、哲学者ゆえそんな「人間ども」を諦めていない。
人間存在を「考える」のがやめられないんだ。
さてと、考えてみよう、ニーチェくんは何が言いたいんだろうか?
何のためにこの本を書いたのだろうか?
空説1〜「スパルタ式自己啓発本」である
なるほどね、ぼくはコクリコクリとうなずく。
哲学に興味がゼンゼンない者でも、「神は死んだ」の偉大なるニーチェ様の名を知らぬ者はいまい。
なぜか?
彼は、「わたし」が大好きだ。
彼は、ほんとは淋しがり屋で友達が欲しい。
彼は、みんなに自分の思いを聴いてほしい。
そして、嘔吐を催すほどに「人間ども」が気になってしょうがない。
中二病?
そう、「超人」は。。。彼のスーパーヒーローなんだ。
まだ幼い時に牧師であり教師でもあった父と小さな弟を亡くした彼は何となく悲しい少年時代を過ごしたろう。
頭はいいけど生真面目すぎるゆえにみんなとチョットちがうニーチェくん、されどそんな自分が大好きだ、俺はみんなと違うし、もっとすごくなれるだろう、ゆえに最高の自分になれるようにするにはどうしたらいいか考える。
ヌクヌク群れてはみんなと同じを「幸福」とかぬかしやがって世界は「おしまいの人間」だらけだッ!
とにかく現状を変えたい彼は一生懸命だ。興奮しすぎる面もあるゆえ、過激な発言をしちゃうこともある。けれどすべては理想の人間の在り方を説くゆえの愛の鞭だ、オジサンだけど心は思春期のようにトキメイテル、けれど悲しいかな時間がない!
あくまでも超えるのは自分だ、ここではまだ自分自身の「孤独」な戦いだ。
さて、孤独な頑固オヤジニーチェくんが憧れるヒーロー「超人」への道。
君はこのディスりに耐えられるか?
「弟子」でさえ怒りを覚えるこのディスり。
「民衆は、ツァラトゥストラは悪魔にさらわれたのだと言った。弟子たちはこの流言を聞いて笑い、弟子の一人は『悪魔がツァラトゥストラにさらわれたのなら、話はわかるが』と言った。」
弟子がこう言っちゃうくらい彼は嫌なやつゆえ。
空説2〜「超バイブル」である
すげーな。
むろん、彼はただのディスり屋じゃない、すごいのはペラペラ〜バンッ!ってページを開いて目にしたものが全て「金言」になるってとこよ。
ありがたい言葉の何と多いことよ。
この誰の心にも何かしら刺さる、読む側によってどうにでも解釈できる名言どもは危険でもある、ぼくは思う。
ニーチェ様が言わんとすることを真に理解するのが難しいがゆえに、まっこと危険なドグマだ。
国家とその家畜である従順な人間を何より嫌っていたニーチェ様の思想が、なぜかナチスに気に入られたのもそこかもしれない。
だってね、あのヒトラーくんね、「我が闘争」で「つまみぐい読み」を推奨してるしね。
切り取ればどうにでも自分の都合のいいように解釈できる
。。。「金言」の不気味さよ、だ。
この本は「寓話」のように描かれる、ゆえによけいにわかりにくい。
皮肉なのか、本気なのか。
ぼくは思う、ウスキミワルイ本だ、ってね。
サイコパスが読んでも「俺のやっていることは正しい!」「俺は超人だ!」と思えそうだもの、「神の名の下の正義」に悪用されそうなやつ。
「神は死んだ」ってんでニーチェくんが神に座すもんだから。
よくあることだけど、「難解」とされるほど、「俺にはわかる」的なやつが出てくるゆえ。
ニーチェくんはそこをこっぴどくディスっているけど、現にナチスに使われちゃってるしな。
前後の流れを汲まないと、まるで反対の意味にも捉えかねない。
ゆえに、このバイブルから「切り取られた」名言集はあぶないよ。
アリガタイ本、よく読みましょう、何度もね、速読禁止、だ。
空説3〜「狂人日記」である。
「孤独」を彼は推奨する。
中二病は「孤独」に酔う。
なぜなら、ぼくも「孤独」に憧れた中二病だったから。
そんな「孤独」は、哀れな独りよがりだ。
けれど、彼の本当に言いたいところの「孤独」とは何だろう。
そう、弱きものの群れ「畜群〜Heerde」に関わるなだ。
この群れはオオカミやライオンの群れである「Rudel」じゃない。
「Herde」は家畜化した牛や羊の群れだ、そんな家畜化した人間の群れ「Heerde」のことだ。
いつも多数派にいて、考える力を失い、自ら奴隷化する「弱きもの」。
彼らは「弱さ」ゆえに群れては、互いにたかりあって、互いに喰いあう。
して、彼らは、群れない「強き者」を攻撃し、毒を注入すると。
そう、奴らブンブン群がる毒蝿どもから離れてろ!ってな。
他人の妄想でしかない「神」なんか信じてんじゃねえ、他人の価値ではかる「幸福」なんか求めるんじゃねえ、ってね。
おんなじ「神」と「幸福」をシェアする彼らはギューギュー詰めで「イイネ!」という。
さて、「七つの悪魔」って何だろう?
さて、ぼくには、ぼくだけの神さまがいる。
ぼくの家族でぼくの親友だった彼は、痛々しいほどに「孤独」を恐れた。
独りにされると彼は遠吠えた。
独りになることの不安と恐怖に耐えきれなかったんだ。
彼の遠吠えはぼくの心を引き裂く、こんなに辛い声はない。
ニーチェくんは「わたしはそれを神の律法としては欲しない。」と言い、「わたしが愛するのは大地の徳である。」とも言う。
ぼくはぼくの「神さま」を「愛する」し、ぼくの神さまの「大地の徳」を「気にいっている」!
最モ危険ナノハ独リニナルコト
これが「ぼくの神さま」の教えだ。
サバイバル=生きること、の基本だ。
この教えは便利な都会(市場)を離れたぼくの身に染みた。
ぼくらは「群れ=家族〜Rudel」になった。
新しい「Rudel」は彼とぼくに「よろこび」を与えた。
それがぼくの「徳(善)」となったってね。
けれど同じ群れでも「Heerde」はぼくに苦痛しか与えない。
Heerdeはここ、ど田舎にも在る。
ぼくはいつも「Heerde」と距離をとった。
「Heerde」がもたらすとされる「安心」よりも、「Heerde」が求める集団行動のミッシリした「不快」の方が大きかった。
人間は多すぎるし臭すぎるんだ。
えてして、ポエマーな人間様は「一匹狼」をカッコいい者みたいに言う。
現実には一匹オオカミほど寂しく、惨めなオオカミはいない。
一匹で彷徨うオオカミは毛繕いもしてもらえないからボロボロで見窄らしいし、ロクな肉も食えないからガリガリで見栄えもしない、いつだって仲間を求めてニオイをたどり、独りは辛いからカラスとつるんでる、そうしてちまちまネズミを狩ったり、しっぽを丸めてコソコソ残り物を漁る。
彼らにとって「Rudel 群れ=家族」は何よりも大事なものだ、自分の命よりもだ。
群れのために働き、群れのために危険に身を投げる。
群れ Rudel こそが「超人」だと、己を超えて次に渡すもの、己はそれを繋ぐ橋でしかない、ぼくは勝手に思う。
ぼくら「群れの動物」は独りで在ることはできない。
この地球上に誰とも繋がらないニンゲンなんて存在しない。
「ぼっち」とか言ったって、誰かの作ったものを食ったり、誰かの作った服を着てる。
まさか、ほとんど裸で獣から剥ぎ取った毛皮を着てる孤独者なんているまい。そういう民族は群れでいるはずだ。
ぼくも「孤独」は自分を高めるってドヤ顔でいた。
他人から離れて本を読んだり自然観察したりした。
けれど、実際それは「孤独ごっこ」なだけで、完全に独りで生きれるわけじゃない。
独りよがりで的はずれな「孤独」は、人間を殺す。
「己を超える」のではなく「己を殺す」だろう。
ニンゲンは群れの生き物だ、ゆえに孤独な人間は「人間ではないモノ」となるだろう。
ニーチェくんの言いたい「孤独」はそういった物理的、引きこもり的なもんじゃなく、思考的に「孤独」となれ、と言うことかもしれない。
独りで考え、独りで決めろ、と。
他人に媚びるな、他人のせいにするな、と。
己で考え、己に命令を下す。
命令を下す「孤独」の方が、命令される「畜群」よりも大変なんだ。
そう、そこにはいつも「重い」責任がついてまわる。
自分の信じるものを、他人に語る必要はない、他人に「イイネ!」と言わせる必要もない、ただ「意志」すればいいだけだ。
ただ、それをたった独りで担って押し潰されないで耐える「力」が必要だ。
ぼくの神さまを「道づれ」としたぼくはいつも「強さ」を求められた。
みんなと同化し自分を無くすことで守られる畜群、ではなく、「意志して」彼とつるむには「強さ」を求められた。
「強さ」を高める度重なる自分との戦い。
「重力の魔」に負けないヒラヒラ踊れる屈強な身体。
自分の考えを信じてそれを貫く断固たる「意志」。
メーメー泣いて、同情を乞うのは「畜群」のすることだ!ってな。
何か困ったことが起きると他人を頼り、フラフラ他人の意見に流された弱いぼくは結局、「己」も己の「友」も信用できず、致命的な間違いを犯した。
そうやって大事な「友」を傷物にした。
何かあるたびにコロコロ意見を変えるやつなんか信用できるはずもない。
彼もぼくなんかを信用できないと思ったに違いない。
そうして嫌な結果になった時、他人の意見を採用した場合その結果さえも他人のせいにする、ブサイクな「弱き自分」の出来上がりだ。
こんなやつを誰が好きになれようか。
常識とされたやり方を疑い、まず自分の世界を観察し、その観察をもとに自分で熟考し、自分で行動し、自分の責任は自分で処理する。
これこそが「孤独」の在るべき姿だ。
「神」でもある、愛する「友」と共に在るために、ぼくは自分の弱さを超えて「力」を手にしなければならない。
決して、決して、己の「神」を他人の手に委ねてはならない。
メーメー憐れに泣いて「神」から目を逸らしてはならない。
他人の戯言に惑わされず「神」を信じなければならない、
「ぼくの神さま」だけを。
彼こそが世界、彼こそが全て。
ニーチェくんが本当は何いってんのか「ディスりの上巻」だけではまだわからないけど、ぼくとぼくの神さまのこと、いろいろ考えさせられるよ。
下巻も読んだら、ブヨブヨの脳髄に稲妻が落ちるだろうか。
だれでも読めるが、だれにも読めない書物