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ソウル・ハンターズ レーン・ウィラースレフ




「私ではなく、私ではなくはない




ぼくは、ぼくの神さまを、ミメーシスする。



コギト・エルゴ・スム?
エロイムエッサイム?
呪文?
ワレオモウケレドワレナシ?

デカルトさんね、あの有名なね。
彼の「我」中心的、機械的思想は現代にも蔓延っているってね。
「自然と文明」「人間と動物」「私と他者」。
レーンさん、その悪しき「二元論」に物申す!


「ミメーシス(模倣)」。
まねることによって世界や他者との間に類似性を育もうとする原始的な衝動。
このユカギール族には当たり前の行為(能力)を哲学するという。
対象を真似ることにより「どっちつかず」な境界の曖昧さが「非=私」となるという。
はァ、わかったような、わからないような、だ。

そもそもだ、ぼくのような哲学基礎のないダスマンはこんな大そうな本を手にとっちゃあいけねえ。
ア・プリオリ。。。世界=内=存在。。。とおおおおおおい記憶の底から聞こえてくる。。。

まあ、ぼくの昔話なんてどうでもいいや。
とにかく、ハイデガーおじさんとこのシベリア少数民族のユカギール族の世界の捉え方が似ているという、そういうことだ(よね?)。

このユカギール族ね、すっかりロシアの同化政策の餌食になってさ、ロシア正教で神はキリストだし、若者はロシア語しか話さないから言語継承者もほとんどいなくなって、いよいよ絶滅危惧種的な民族らしい。アイヌにそっくりだ。

そんな原始的な狩猟民族の世界観に興味を持ったデンマーク博物館長のレーンさんだけど、彼らの「アニミズム」を「哲学」するってんだからややこしいったらない。


「我、思う、ゆえに、我、在り」
という「我」中心で、「我」って根無草が孤立した世界観は、多神教の島国「我なし」民族にはしっくりこないってもんだ。
へっぽこなぼくには「一億火の玉」的な日本人魂はないけれど、靴のかかとを踏んづけると「カワイソウ」と思うし、車に「名前」をつけている。
こういった「未開人」的発想である「精霊」ってやつがデカルトさんにおいては不可解らしい。


「このように見てくると、『目が泳いでいる』『肝が据わる』『腹が立つ』『膝が笑う』などという言い方を、我々日本人もまたすることに思い当たる。私たちが臓器や身体部位に関して用いる言い回しは、ユカギールのそれとたいして変わらないようにも思われる。」        訳者解説


ハイデガーさんみたいな哲学界の奇才が「存在」とか「世界」についてどういっているのかなんて白痴なぼくなんかにわかるはずもない。
けれど今までデカルトさん的に「我」が「世界を外側から見る」という世界認識よりもこのハイデガーおじさんのいう「我」も「世界に埋め込まれている」という「世界内存在」はなんだかしっくりきたもんだ。
もともとニッポンジンの世界観はこうだろうと思う。
ゆえに、ポエマーなハイデガーおじさんは婦女子にモテるし日本受けするのだろう。




「狩猟者がエルクを誘惑する『目に見える』狩猟と、それに先立っておこなわれる、彼のアイビが動物の支配霊を口説く『目に見えない』狩猟である。両者とも、他方の影のような鏡像である。」


ユカギールにとっての狩猟というのは獲物との「恋愛」のようなものらしい。ここに「人間と動物」という区別はないんだね。
彼女に近づき、彼女をまね、彼女と踊り、彼女を口説き、彼女に自分のものになることを承諾させる。
「恋」に落ちた獲物(彼女)は自ら殺されることを欲する、と。


「あらゆる理解のやり方は、文化的かつ歴史的に相対的である。…我々の理解のやり方が他のやり方よりも(真理に近いという点で)必然的に優れていると仮定すべきではない」



「世界」というものが「関係性」よって違ってくる。
ハイデガーの言っている世界の在り方も「つながり」なんだろう。
「精霊」というものの捉え方もそこで違ってくる。
ぼくの勝手な解釈だと、ユカギールのようなアニミズムと分類される考え方のヒトはこの「つながり」に敏感だ。
ユクスキュルの世界観もそうだけど、「感覚」というものはひとつではない。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、さらに第六感と呼ばれるもの、人間様にはわからない感覚があるやもしれない。
生物によって全然違うし、個体によっても違う、どの感覚が敏感か、強化されるのか、それは環境と経験から得るものであって世界でどうつながるかによって変化するんだろう。
持っている絵の具と道具が違えば、描く絵も全く違ってくるというもんだ。

彼らが「アイビ」と呼ぶ精霊は、ユカギール人として生きることで強化された感覚で感じられるものなんだろう。
「つながり」の気配を知覚するんだ。
獲物になる動物とのつながりとか、自分の爺さんとのつながりとか。
その「つながり」を「夢」に見る。
アイビ(精霊)は、我の魂であり、鏡像であり、影である。
アイビは、全てとつながっている。
アイビは、私ではなく、私ではなくはない。
アイビは、ハズィアイン、「誰でもあり誰でもないもの」。
全てはどっちつかずに「シェアリング」されている。

こういうことをまとめて「スピ的思想」として無視するのはよろしくないと、学術的に考えてみようということじゃ。ぼくなんかは大いに反省させられるさ。



ポウくんと共に在る時、彼の目線で物を見ることで彼をミメーシスした。
それがうまく行った時、「ぼく」として在ることがどうでも良くなることがあった。
彼のように、彼の速度で走ることで「風」と同化する。
彼のように、草の上に寝転んで「土」と同化する。
彼のように、ただ遠くを見やることで「空気」と同化する。
時間は消失し、感覚は高まる。

ほとんどがうまくいかなかった、ぼくが「ぼく」でありすぎたためだ。
ほんの一瞬、うまく行った時、ぼくは違う世界を見た、彼の世界を見た。
悲しいことに、ミメーシスはまねることで両者の差異を明らかにする。
悲しいことに、ぼくはあまりにも彼ではなかった。

けれど、もし、ぼくが、彼と、「つながり」を持たなければ、ぼくはこの本を手に取らなかったろう。


そう、彼はぼくの世界に在る。


『我つながる、ゆえに我あり』






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