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第三の嘘 アゴタ・クリストフ


LE TROISIÈME MENSONGE
Agota Kristof



「死が、まもなくやって来て、すべてを消し去るにちがいない。
死を思うと、私は怯える。
私は死ぬのが怖いけれど、病院へは行かないだろう。」



ぼくも、そうだ。
これは、ぼくの物語だ。
読んだ者にそう思わせるようなアゴタ・クリストフ三部作の最終巻だ。
いったいぜんたいこの三部作ときたら、どれがほんとうに「嘘」なのか。
どの人生バージョンが「真実」よりなのか。


「『いや、嘘が書いてあるんです』
『嘘?』
『そうです。作り話です。事実ではないけれど、事実であり得るような話です』」

ああ、そうだね、記憶なんて危うい夢みたいなもんなんだ。
「ほんとう」のことなんてほんとうはないんだろう。
ニンゲンの脳髄を通過した時点でまるで別もんに変換させるってもんだ。
どの人生も「嘘」で出来上がっている。
「嘘」の物語の中に、ごく些細な「真実」がある、そんなもんだろう。

この三部作は、同じ人物の物語のように描かれるが、その同じ人物であるはずの者は、それぞれ異なった人生を語る。

ぼくが気になったのは、2巻だけが神の目線で語られることだ。
1巻めは子供の「ぼくら」の闘争で、3巻めはオジサンの「私」の嘆きだ。
1巻と3巻は主観的な日記のような感じなのに、2巻だけは小説のように客観的に描かれている。
すると嘘つきは主観的な1と3のような気がするけれど、2が小説めいているから信用できない気もしてくるんだ。

「自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう、…その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、…そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあってほしかったという自分の思いにしたがって描くのだ」


そのわりには、どれもこれもひどい物語じゃあないか。
それにしても、奇妙な物語だ。
ミステリーなのかと思えば、そうでもない。
ぼくが面白いなと思ったのは、全てがぜんぜん繋がらないところだ。
そもそも「ふたり」いるんだかどうか。
なんにも腑に落ちない。
ミステリーのようにパズルがパチッとハマる感じがどこにもない、読む人によってどのようにも解釈できそうな「曖昧さ」だ。

人間の内世界とはこういう感じなのかもしれない。
時間の感覚も曖昧で一貫性がないんだ。
皆がよく口にする「あの時」とはいつなんだろう?
周りの人々にしたって、ほんとうに存在したのかどうかわからない、「あの人」なんて人はいやしないんだ。
人間の時間性、自己同一性、生まれてから一本の線で繋がっている、と思っている概念がめちゃくちゃに壊されるキミワルさ。
「自分」というものが、まるで統一されない居心地の悪さ。

「私」とは誰なのか?

それを確定できない。
全ては揺らいでいる、真実と思われるものと、妄想の間で。
戦争で書類が失われ、「私」を確証立ててくれるものはない。
ほらね、結局、ただの紙だよ、身分証明書だとか、出生証明書だとか、そんなくだらないパピアーが我々の存在を立証する唯一のものとな。
そんなものを持たない彼らは思う、「私」を「私」たらしめてくれるものは「私」が描いた物語しかない。

我、描ク、故ニ、我、在リ、だ。

そう、結局「紙」だよ。
不確かな人間存在の儚さよ、だ。

これはひとりの人間の、世界の描き方だ。
ひとりの人間の、自己の在り方だ。



「もはや返事をしなかった。口をきかなかった。すると、まわりの者は、私を聾唖者だと思いこんだ。その結果、そっとしておいてくれた。」


ぼくは彼と同じことをしたことがある。
黙り込むことの心地よさ、わかるよ。

「話すこと」というは瞬間だ、すぐに流れていって、待ってはくれない。
けれど、「書くこと」には時間はたっぷりある、瞬間に囚われないのだ。
ぼくは会話よりも、文通を好むのはそこだ。
他人の時間感覚に自分の時間感覚を合わせるのが難しいことがある。
そういうものを語るのに文通は非常に気持ちのいいもんだ。
文通には時間がたっぷりかけられるのだ。

「『感傷的になってはいけませんよ。すべてはいつか死ぬんです』」


そう言われても、悲しくなるのが人間ってもんだ。
自分と他者と時間を線で繋ぐ人間の世界観は悲しい。
線が切れてしまったものも容易に手放すことができない。
もう、二度と触れることができなくても。
そんな「悲しさ」が妄想=物語を生む。


「私は彼に、人生はまったく無益なものだ、無意味そのものであり、錯誤であり、果てしのない苦しみだ、こんなものを発明した〈非ー神)の陰険さたるや、到底理解できるものではない、と言う。」


あれか?ニーチェさんか?
「神は死んだ」か?
ニヒリズムか?陰険なのか?
ぼく、よく知らない。
愉しそうじゃないからなあ。
ぼく、もう老いてるし、時間もないし、超人じゃなくてぜんぜんいいよ、せこいサルで十分よ。

神のいなくなった世界に「救い」はない。
この物語にも「救い」はない。
あるのは「絶望」だけだ。
そう、「死に至る病」だ。

この神のいない物語の語り手は、死に至る病にいつだって蝕まれてる。
戦争は、絶望を生む。
絶望は、憎しみを生む。
負の連鎖まみれだ。

ぼくは思う、
ときに、人間には神が必要なのだ。
人間のような精神虚弱で不具な生き物には神という「支え」が必要なんだ。
「人」って漢字みたいにさ、ただの棒でもふたつあると立ち上がれるってもんよ。
だから、人間は神を創造する。
希望が持てるように。
だから、人間は物語を描く。
道を見失わないように。


彼が見えなくなった時、ぼくは、ぼくの「死」を願った、よくある話だ。
彼の見えないこの世界にぼくだけでいることに耐えられなかったのだ。


でもぼくは死んでない、なんだかんだ言って、ビビったんだ。
そう、卑しいサルはぜんぜん耐えられるのだ。
それでも、せこいサルは、神を必要とした。
死ねない己を支えるために、神を必要とした。
神、ぼくの片割れ、「善」な者。
ぼくとぼくの妄想は寄り添う。


「絶望」した片割れは早々に死に向かって決断した。
もう一方は思う、


「私がこんなことを続けていく理由はすべてなくなってしまう。
列車。いい考えだな。」


なるほど、君も列車に飛び込むのかい?
「信じる者」を手放すかい?
ぼくにはとてもできやしない。
なぜなら、ぼくは卑しくもせこいサルだから。
なぜなら、ぼくは片割れにまだ寄り添いたいから。

卑しくもせこいニンゲンのぼくは神を必要とする。
今日もぼくは、ぼくの「神さま」を語る。
ぼくと彼の物語を。



「ぼくの最初の恋人。ほかの恋人など、できるとは思えない。」


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