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何モ考エナイ者



「走らないと、ダメになる。。。」


ぼくは、呟く。

「走る」っつたって、マラソンのように、恐ろしく長い距離を止まる事なく走るわけじゃない。
たった、5km、ただ、タラタラ走っては歩いたり、ダッシュしては喘いだりだ。
けれど、その汗だく息も絶え絶えの意味不明な行為は、名目上「イヌのため」とまるでぼくが強要されているかのようだが、実の所、他でもない「ぼくのため」なんだ。


ぼくのように思いつき行動型で気分の浮き沈みが激しい「迷惑者」は、走るべきなのだ。
この「イヌのため」である毎日の散歩でふと気づいたのは、毎日イヤイヤ出かけるわりに、帰ってきた時はものすごい爽快感と満足感に浸って、割とご機嫌なことだ。
散歩に出る時、毎日思うは、「今日は仕事がキツかったから、ちょっとブラブラ歩こう、走るのはなしにしよう。。。」だ。
そう、自分に言い訳して、自分を甘やかそうって魂胆だ、卑劣なサルめ、だ。
それなのに、散歩に出て5分後には走り出すのだ。
そう、隣に元気ほとばしる若いイヌがいるせいだ。

ぼくは常に自分に厳しく在れるほどできたニンゲンじゃない。
辛いのは嫌だし、我慢はできない。
しかしだ、隣に期待に目を輝かせてこちらを見上げる者をとても無視できやしない。
そう、彼女は走りたいのだ。

この規律厳しい社会で彼女を走らせてやるには己も走るしかない。
ゆえにぼくは走る、イヌにとっては低速なれど、中年サルにとっては高速でだ。

このような限界速度で走ると、あまりの酸欠、あまりの筋肉疲弊のため、脳髄は活動を制限してくる。
もはや何かをクドクド考えるような余裕がないのだ。
そうしてぼくは「何も考えない」状態になる。
この「何も考えない」のが幸福をもたらすであろうことは常々思うことであったよね。

宗教然り、マジョリティー然り、「こうしていれば間違いない」という安心感、誰かの考えに乗っかる無責任感、これが「ある種の幸福感」を生む。

どうにもそれに乗っかれなかったぼくは常にイライラし、ひどい孤独の悲しみに襲われる、そう、ポウくん不在の悲しみだ、どうにも慣れることもなく、和らぐこともないぶり返す痛みだ。それが時に「ある種の幸福感を持つ者」への嫉妬となる、ルサンチマン、汚らしくもニンゲンらしい。
そんな己を善しとできるはずもない。



走ると、苦しい。
疲れるし、息ができない。
身体が緊急事態だ!と判断するのか、脳は無駄な思考を制限する、脳内に呪文が流れ出す。
「モット軽ク、モット高ク。。。。」
シャンジュマン、シャンジュマン、アントルッシャ・カトル。。。
いったい何回跳べばいいんだい?重力に逆らうことを強要させる時、他に何を考えられるだろうか。
もともとオツムの弱いぼくは「モット軽ク、モット高ク。。。。」しか考えられない結果、まるで踊れなかった。
走るのは、踊るよりもシンプルなリズムを、「モット軽ク、モット高ク。。。。」と歌ってくる。
リズムに乗って視界は狭まり、音もなくなってくる。

ああ、これだ、キタキタッ!
体外に汗がほとばしり、脳内には麻薬物質がほとばしる。
パァァァァァァァッと爽快感と幸福感がほとばしる。

夕方の散歩の距離を伸ばし、「走る」ところを多くすると、一日を愉しい気持ちで終われることにぼくは気づく。
非常に楽観的になれるのだ。



今日、闇のメスを病院に連れてく関係で「走り」はお休みだった。
すると、「奴」は容赦なしに襲ってきて脳内で「ぼくディスリ」をネチネチまくしたてやがる。

「お前は、この上なく無能なクズだ、なぜなら。。。うんぬん」
「お前がこういう目に遭うのは当然の報いだ、なぜなら。。。うんぬん」

「泣いて許されると思ってるのかよ?お前は、どうしょうもない殺し屋だ!」



そうだね、アンタのいう通りだよ。