見出し画像

子犬に脳を盗まれた! ジョン・フランクリン

The Wolf in the Parlor: The Eternal Connection Between Humans and Dogs
Jon Franklin




「ボクはここで暮らすよ。きみは早く慣れるしかないよ。それがみんなにとってしあわせなことなんだ。」



ここにだ、ぼくのソファーにだ、彼はいる。
このちっちゃなオオカミはなんだってこんなチマチマした人間社会に溶け込んだんだろう。
そんな未だどっかりと横たわるニンゲンとイヌの関係のミステリーを追う!

ヨルダン渓谷で発掘された12,000年前のばあさんの骨。
彼女の伸ばす手の先には、子犬の骨。
人間様はなぜこんなに長くイヌと暮らしてきたのか?
そして地球の帝王となっても彼らを必要とするのはなぜか?
フランクリンさんと愛犬の生活を交えて書かれるこの科学ミステリーは「イヌキチガイ」の者ならいちいちソウソウと頷くだろう。


「いまなお僕らは子犬がもっていて僕らに是が非でも必要な、あのかけがえのない何かを、心落ち着く何かを、手を伸ばして求めている。」


ぼくら地球の帝王人間様は「三位一体」の脳を備え、最強の頭脳を手にしたのと引き換えに終わることのない「精神の混乱」に悩まされることになった!と、このポール・マクリーンさんの唱えた「爬虫類脳」「哺乳類脳」「霊長類脳」の三層構造説は最近じゃもう流行らないらしいけど、どっちにしろ「考えすぎ」で「過去と未来と空想」に翻弄されまくる人間様にとって、「精神の混乱」は間違いなく常に存在しているんだろうね、こんだけ精神科が大流行りになるんだものね。



「犬の脳の質量の二十パーセントを失ったのは、人間が犬にかわって考えたり計画したりするのを請け負ったからだ。逆に犬は人間の苦労の十パーセントを背負うことを引き受けた。」


2009年に書かれたこの本の科学知識はすでに少し古臭くなってしまったのかもしれないけど、「ニンゲンとイヌの関係」を考えるのにとっても興味深いってもんだ、ぼくは大いに愉しんだし、感銘を受けた。
彼の仮説の「ニンゲンとイヌの共進化説」はすごく面白い。

イヌを飼ったことのある者なら容易にこの説に納得してしまうんじゃないか。
実際、ぼくはポウくんといてそう感じた。
そう、彼はぼくの一部だと、ぼくの無くした脳の10%だったんだとね。
彼の亡霊はぼくの脳に取り憑いて離れない、ぼくは彼の幻影を見ながら生きねばならんのだ。
そうしてぼくらはイヌに手を伸ばす、白骨化しても。

著者のフランクリンさんだって「イヌなんかカンケーねーぜっ!」って息巻いてたのに、すっかりイヌなしではダメになっちゃってさ、愛犬チャーリーが居なくなったらすっかりゾンビだ。

「うつ病」。

これこそが混乱した脳をお持ちで暇を持て余した人間様の持病だ、かわいそうにな。
すっかりイヌに脳を盗まれちまったフランクリンさん、最後も壮絶だけど、新しい子犬サムにまたまた脳を盗まれたら、すっかりポジティブシンキングでサイコー!

「犬がいなかったら、リンも僕も死んでいた。」

って、フランクリンさんの場合シャレになんないからね。


ぼくもポウくんが見えなくなって、すっかりゾンビだったけれど、子犬が来るとのんびりゾンビなんかやってらんないんだよね。あいつらときたら人間様をいっときもボヤッとさせちゃくれねーんだ。
そうやって腐敗した10%の脳部分にピチピチボーイが割り込んんできやがると、ぼくらのゾンビ脳はまた生き返るってわけだ。


「ところが、不思議なことがあった。僕はコチコチの頭に邪魔されて、素直にものを感じる心が鈍くなっていたのに、犬のよろこびのようなものが僕のなかに移り住んできたのだ。感化というのか伝染というのかわからないが、チャーリーのおかげで僕は森に敏感になった。それ以上に、自分が動物であることを意識するようになった。チャーリーは何かを放出していて、僕はその熱に温められたのだが、それがなんなのかを正確にいうことはできなかった。…どうして僕はチャーリーのようにできないのだろうか。彼のようにわれを忘れてその瞬間を楽しむ能力がなぜないのだろう?」

それがなんなのか、それをどれほどぼくらが切望しているか。
骨になっても、手を伸ばすほど。
フランクリンさんもぼくも、まるでスピ的な人間じゃない、けれど、このような神秘主義的なことをつい言ってしまうようになるのだよね。
しかもさ、ここでいう「絶対者」がさ「お犬様」なんだよね。

けれども、ニンゲンとイヌが与えあうもの。
それはただ「愉しい」だけではない。
ナマモノを取り扱うには「自己中心的」ではいられないのだ。

「犬語を習得できない人間よ、哀れなり。…だからこそ、これだけ多くの犬が飼い主の身勝手な行動を肩代わりするようになる。つまりあなたは隣人が大嫌いでも咬みつきはしないだろうが、かわりにあなたの犬が咬みつくだろう。」

イヌはぼくらに「精神安定」をもたらす。
そして、もちろん「精神不安定」ももたらすさ。
けれど、「イヌに脳を盗まれた者」はそれを「幸せ」と呼ぶのだ。

共に在る時間が増えるほど、共に喜ぶときが増えるほど、ぼくらは「一体化」するのだ。
ぼくのイヌは、ぼくに似てくる。
そうなんだ。
飼い主とイヌがなんで似てるかって、飼い主がそのイヌの性格をつくる片棒を担っているからだ。
「問題行動」をするイヌは、実の所、飼い主が「問題行動」をしているんだね、ゆえにイヌにも「問題行動」をするように仕向けている、ってわけだ。

ぼくはそれを知った。
自分のイヌが社会とうまくやっていけないとき、ロクデナシの飼い主はイヌのせいにする、バカイヌめ!ってね。
でもね、本当にバカは一体誰かね?
ぼくのイヌはぼくを映す鏡だ。
「こいつビビリで。。。」
ぼくは言った、そう、ぼくがビビっていたんだ、ニンゲンに、世間に。

イヌは「感情の化身」だ。
イヌがうまくないことをやっちまうとき、そこにぼく自身の悪いところが浮き彫りにされる。
ぼくは、短気じゃなかったか?怠惰じゃなかったか?せっかちじゃなかったか?面倒臭くて放置しなかったか?ガミガミ言ってばかりいないか?
ありもしない妄想の未来にビビっていなかったか?
オーーーチーーーツーーーケーーーー。
心を穏やかに、細かいことは気にするな。
気長に待ってやれ、いいところを褒めてやれ。
理想という妄想に溺れるのはやめろ。
今、目の前にあることをちゃんと見るんだ。
禅僧のように在れ、日々の雑多なことや他人にいちいち振り回されてイライラしちゃあいけない。

もちろんそう簡単に「悟り」は開けない。
「イヌと在ること」は、厳しくも喜ばしい「修行」なのだ。

ぼくらは毎日少しずつ「善の一体化」を積んでゆくのだ。

そうやってぼくとポウくんは「一体化」してきた。
ゆえに彼はぼくの本当に大切な、ぼくの一部だった。
でもポウくんとの「一体化」はこれ以上育つことはない。



ぼくの子犬、ポオ。
ぼくと彼はまだ一ヶ月も付き合っちゃいない。
これからは、こいつとやっていくのだ。
お互い何もわかっちゃいないもの同士、少しづつわかりあってゆかねばならんのだ。
ポオと「一体化」してゆくのだ。
足りない脳を補い合うのだ。


これさ、ぼくの愛読書である「哲学者とオオカミ」に装丁がそっくりなんだけど、こういう著者と愛犬の「知的エッセイ」って読みやすくて共感しやすく、しかも知的好奇心も満たされてほんと最高だ、ありがたいや。



この記事が参加している募集