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哲学者が走る マーク・ローランズ


「走るとき、わたしは『善』に没頭する。わたしの群れのメンバーは変わっても、群れとともに走るとき、わたしは『善」に囲まれる。」


「哲学者とオオカミ」でぼくのハートを鷲掴みにした哲学者さん。
彼は、走るらしい。
人はなぜ走るのか?なんのために走るのか?そんな賎民は考えもしないようなことを哲学者ってやつは242ページも考え抜く。

いったい、わたしは、なぜ、走るのか。

この問いは「人生とは」や「幸せとは」を考えるのと同じことらしい。
子供や、動物は知っている、「人」だけが忘れてしまった生きる上で大事なことってなんだろう?

マラソンにチャレンジした哲学者、もはや中年、足にも爆弾を抱え、不安を抱えながらひた走る二児の父、走っている最中にいろんなことを考えるぜ、回想は果てしなく回る、またも、オオカミイヌのブレニン、マラミュート・ジャーマンシェパードミッスクのニナ、ブレニンの娘のテス、そして今の相棒ジャーマンシェパードのヒューゴー。
わたしたちは群れだ!
ファン必見!今回はニナとテスの写真付きだ!

ぼくがこの哲学者が好きなのは、常にユーモアがあるところ、絶望ではなく希望を書くところだ。本の内容は素人向けに優しく噛み砕いてくれているとはいえ哲学的な話もある、ほら、哲学ってどうも意味不明な専門用語とか、まわりくどい言い回しとか、何度も反芻するところとか途中でついて行かれなくなる風だけど、この人の哲学は根本にオオカミの「ブレニン」がいて、その仲間達のドタバタストーリーが面白く混ざってくるから、「哲学を知らない人」も、「犬好きの人」も、今回は「走る人」もとても愉快に興味深く拝読できる。

なんでも手に入る現代において、暇を持て余すサルたち、「幸せ」を求めて金でなんでも手に入れるぜ、でも、サルども、幸せジャンキーさんよ、君らは本当に幸せになったかい?
「楽しみ」と「喜び」の違いはなんだ?
楽しみとは 、Fun=騙して・かついで・気晴らしする、「シットコム(コメディドラマ)」だ、そう、ただの暇つぶしだ。
喜びは、少なくとも一定の集中力を要する、それのために「骨を折る」ことで得られるものだ。
こう言われると、自分の趣味はシットコムじゃねえ、とみんな自分のやっていることを正当化したがるよね、でも、どうかな?
ぼくみたいな堪え性のないボンクラは人生のほとんどを「暇つぶし」ちまってる。
そんなぼくにも「喜び」があったけれど、今は地獄にいるせいで、それも消えた、むしろ「喜び」が消えたせいで地獄にいるのかもしれない。


「わたしたちの生活が道具的なものに支配されればされるほど、わたしたちは楽しさを高く評価したがる。喜びの機能はこれとはかなり異なる。喜びは…成果ではなくて行為に、目標ではなくて活動に専念する経験だ。」

つまるところ「喜び」とはなんだろう?
哲学者は「走る」ことに「喜び」を見出したけれど、それは走ることに二次的な効果(これがニンゲン的な考え)、健康にいいとか、ダイエットだとかを期待してのことじゃないらしい。

じゃあなんで、走るのか、別に走りたくなんかなかったらしい。。。
ブレニンのためだ、彼を退屈させないよう、彼れを疲れさせよう、「わたしの所有物を何でも食ってしまうのを思い止まらせるため」と重い腰を上げる、でも、ふたりで走り出すと何かを思い出した、そう、大切なあれだ、彼らは群れになった、群れは頭数を増やし、走り続ける、行為に集中して、みんな高揚して…これは「遊び」だ!

哲学者が独りで走っているように見えても、実は群れで走っている、ブレニン、ニナ、テス、ヒューゴー、そして哲学者の息子のブレニン、マクセン、そして妻、「苦しみを分かつ者たちよ。」、ぼくらは群れだ!


オオカミたちが「遊ん」でいる時の顔を見たことある?
あの顔ができる大人のニンゲンはどのくらいいるだろう、そう、子供はできる、ぼくが思うに、それが「喜び」だ、あの表情を生み出す感情こそが「喜び」なんだと思う。

他の例だと、何かを育てる行為が「喜び」を生みやすく思う。
親が子を愛でる顔、これも「喜び」の表情に見える。

どちらにしても社会的動物であるオオカミやぼくらサルが本当の「喜び」を感じれるのは群れにあってのことのように思う、大切な者が一緒に生きている喜びだ。
おひとりさまでも「喜び」を感じている、というヒトはいるだろう、ただ、それはひとりよがりに思う。結局のところ、ニンゲンはひとりでは存在できないから。

群れで喜ぶのはもっと複雑だ、自分勝手に楽しんでちゃいけない、群全体が同調した時に「喜び」なるのだと思う、それはとても「幸せ」で、それを求めてまた群れになる。


「人は、人という言葉の完全な意味において人であるときにのみ遊び、遊ぶときにのみ完全に人間だからである」

ヒトリボッチダト感ジル、そんな人がいるだろう、そう、「喜び」が消えた、「骨折りがいがあるもの」が消えた状態だ。


「わたしたちが愛する人の運命は、わたしたちの運命の一部になる。ということは、わたしたちの人生は寂しいとか不運以上である。悲劇的なのだ。悲劇は不運と理解が出会うところに生まれる。人が苦しみ、死ぬだけではなく、同時にこの苦しみと死は取り返しがつかないということを理解するときに、悲劇が生まれるのだ。」

「哲学者とオオカミ」の時もそうだけど、この本を読んでてもぼくは涙が止まらなくなる。悲しいんだ。ここに悲劇があることが。


「究極的には、この答えはわたしたちの心の中で見つかるものではない。自分の血と骨の中に、わたしたちは答えを理解する。生きることを通じてのみ、人生の意味の問題を感じるのだ。生きることを通じて、自分の人生に何が待ち受けてるのかがわかるようになる。このことを単に知的に理解するのではなく、内臓で感じ、味わうのだ。骨のうずき、血の酸味で。何が人生で価値があるかという問いへの答えは、この人生の代償は何なのか、この人生を生きる価値があるだけのものにするのは何なのか、ということを教えてくれるだろう。」


そう、この時の哲学者も、今のぼくももはや中年だ、中年(初老?)は考えがちだ、己の人生は何なのか、と。
「骨折りがいのあること」は見つかったろうか。見つけたさ、一度は、でも今はない、また見つける必要があるのだろうか、ぼくの心も体もいつまで機能するだろうか。

そんなとき、哲学者は人生に対して唸る、体に多少ガタがきたって走れるところまで行ってやる、って。


「ノー、僕は君に倒されない。今日、ここでは僕は倒されない」


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